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発達障害と受験勉強  作者: 小島 剛
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「むき出しの試練」に遭遇して

 こういった風潮が幅を利かせている2011年3月11日に、東日本大震災が発生し、多くの人が、まさに「むき出しの」試練にさらされた。


 私はあまり多くを語るつもりはない。というか、語る資格がない。別のエッセイで書いたが、自分も「科学社会学」という科学について社会学的に考える立場に居りながら、事故抑止に何らの力も発揮できず、全電源喪失などありえない、などというとんでもない考え方をしていたからである。




 だが次のような問いかけだけはしておきたい。つまり、くだんの原発事故、および、その後の社会運動や低線量放射線に対する対応において「学者」たちの言動は適切だったかどうかということだ。


 私も、「学者」を目指していたし、日本学術振興会特別研究員やCOE研究員と言った「つなぎの仕事」には就いてきた。だが、その間、自分について「研究職」と言うアイデンティティは持ったことが無い。いずれの仕事も約一年しか任期がなかったし、博士号を取った後も、月給15万、福利厚生一切なしで2年間「つなぎの仕事」をしていた。


 私は受験に強い。高校を3校、大学を3校受験し、修士進学、博士進学、博士号取得も1発で通っている。受験マシーンなのである。だが、それでいて、2010年以来、ニートたけしのほぼオール・ニート・8年間、をやっているわけで、そうであるからこそ受験というものを熟知しているし、また、その虚しさをも知るのである。


 こうやって無理に何度も受験をして来たのもひとえに「学者」として食っていくためであった。だが、こうしてニートになってみてわかるのは「学者」と言うのは文字通り「学ぶ者」なのではなく「大学サラリーマン」だということである。博士号をとっても大学に常勤就職しないと、単なる人生の失敗者なのであって、世間から相当な圧力でもって否定される。職こそが人間の本質であって、学術はどうでもよいのである。


 


 学者になるためには高学歴でなくてはならないから、大学教員にはお受験思考法で頭がいっぱいな人間がたくさんだ。先に述べた2011年発生の原発事故に話を戻すが、私はこの事故が、いかなる様態であれ、被災した人々にとって、「むき出しの試練」であったと思っている。この試練は克服されなければならないが、科学的に提供できる答えはそう多かったとは到底思えない。まさに管理されていない、むき出しの不確実性improbabilityを突き付けられたと考えている。「管理された不確実性」と言うのは矛盾した語法であって、管理できるのであるのならそれは「確実性=確率probability」なはずである。


 当然、福島第一原子力発電所の電力は首都圏に届けられることが主だったわけで、首都圏の住民も全く無関係ではない。首相官邸前や高円寺駅前公園などで、連日デモが繰り広げられたのも当然であった。




 先にも言ったが、人間はかけがえのない人生の、かけがえのない一瞬一瞬を生きている。他者には還元できないし、他の時間で経験されたことに還元することはできない。だから、被災した人、自分はこの事故の関係者であったと自覚した人々一人一人が自分の固有の人生に合わせて、このむき出しの試練を乗り越えなければならなかった。もちろんこの試練は、国と東京電力、学界、産業界、司法などによって、仕組まれたものであって、明らかに人災である。しかも彼らの徹底した無責任によって増幅されもした。




 ここで私が考えたいのは、「学者」たちの言動である。私は悪質な言動を行った学者が少数であったと願いたいものだが、一部の学者が「自分の言うことが絶対に正しく、一部の被災者、関係者の行動は間違っている」と決めつけはしなかったか?もちろん科学的に十分に確からしいprobableなことなら、そのように主張してもよかろう。だが、たとえば、低線量放射線を前にして自主的に非難することが是か非か、官邸前や高円寺駅前のデモに意味があるか否かに関し、今風に言えば「上から目線の」確固とした根拠のない「決めつけ」を行わなかったか?なければそれでよいのだが……。


 はっきり言っておくのは、こういった「上から目線の」学者たちは自分たちが、試練を前にして格闘する被災者、関係者たちに対して誤ったアドバイスをしてしまったと事後的にわかっても決して責任を取りはしないのである。と言うより、原発事故そのものから今に至るまで、学術的に責任を問われ、それを取って見せた学術関係一般が一人でもいたか?



 私は、これら一部の「学者」たちが、原発事故と言う試練を人々が乗り越えるために阻害要因として立ちはだかったと思っている。被災者や関係者は自分の人生の文脈の上で試練を乗り越え、新しい人生を切り開き、克服を成就させ、人格的成長を勝ち取らなければならなければならなかった。そこにはもちろん試行錯誤があり、はたの「学者」から見たら「科学的には間違ったこと」もあったかもしれない。もちろん「科学的間違ったこと」を情報として拡散するということは避けられるのなら避けた方が良い。だが、お受験思考に慣れた「学者」たちは、頭ごなしに、自分たちなりに低線量放射能によって汚染された地域から非難した人々にある種の行動を押しつけはしなかっただろうか?まさにお受験のようにあらかじめ正解が設定されている(それはまさに「学者」が自分で考えたものに過ぎない)かのように。




 私が中学・高校生ぐらいのころ、勉強していると「偏差値秀才」などと言う言葉を投げかけられたものだった。もちろん蔑称である。「勉強しているのに悪く言われるのか」と複雑に思ったものだが、この「偏差値秀才」が長じて社会の中堅を占めるに至った。果たして社会はよくなっているだろうか?やっぱり「偏差値秀才ってダメなんじゃない?」と思うのは私だけであろうか?


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