あなたの人生を「なにひとつ変えない」一冊
「…はあ。」
私は書店のあるコーナーの前でうんざりした顔で立っていた。
「自分の人生を変える19の方法」
「あなたの道は〇〇をすれば切り開かれる」
「人生を変えたいなら〇〇代のうちにすべき14のこと」
そこには数多くの自己啓発書が並べられている。一体どれが正解なのか分からないほどに。
以前から私はこれらの本を片っ端から読み漁っていた。自分の仕事や人生が上手くいかず何か一つでも参考になればと、とにかく血眼になって買っては読み、買っては読みを繰り返していた。
けれどもそれに費やしたお金や時間とは裏腹に、私の人生も仕事も一向に良くなる気配はなかった。
確かに最初の頃は読んだその瞬間は脳みそが晴れ渡るというか、これで自分の人生が良い方向に向かう気がするような錯覚を何度も覚えた。本に書いてある方法論もいくつか試してみて、なんとなく人生が楽になったように感じることもまあまああった。
だが、それらはあくまで「一時的」なものでしかなかった。人生が楽になる感覚も、ものの数日で消え去った。そのうちに、無為に啓発本を買い漁るのも辞めた。それらの本を見ることさえ嫌になっていた。
それなのに、今日はどういう訳かこのコーナーに足を運んでいた。一瞬の気の迷いだろうか。結局私は何を求めていたのだろう。私は早々に自己啓発本の群れの目の前から立ち去ろうとした。
ふと、視界の隅に見慣れない題名の本が目に入った。
『あなたの人生を「なにひとつ変えない」一冊』
書棚の隅も隅っこの方に置かれていたので、今まで気が付かなかったのだろうか。私は初めて見る題名の本に、少しばかり興味が湧いてきた。
それを手に取り、パラパラとページを適当にめくってみる。そこに書かれていた内容に、私は思わず吹き出してしまった。
「あなたがもしも女性なら、たまにはハイヒールをやめてパンプスで出掛けるようにしましょう。ですが、それがあなたの人生をなんて変えることはありません。」
「たまには三十分ほど早起きしてみるのはいかがでしょうか。勿論、それがあなたの人生の方向性を変えるなんてことはありませんが。」
こんな感じの事が延々と記されている。どこかで見たようなライフハックの後ろに、それがあなたの人生を変えるなんてことは有り得ないんだと。全く馬鹿げた本を手にとってしまったものだ。私は苦笑した。
そして私はいつの間にかこの本をレジの店員に渡していた。店員も何故こんな題名の本を買う気になったのかと不思議に感じたようで、ちらりとこちらに目を配ったが、特に何事もなく買い物は済まされた。最も、何故こんな本を買おうとしたのか、自分自身でさえ理解が出来なかったのだが。
明くる日から私はその本に書いてあったライフハックを実践し始めた。といっても、先に述べたようにどこか既視感を覚えるありきたりなライフハックばかりで、中には以前試してみたものも存在した。
例えば「通勤時は一駅前で降りて歩く時間を増やそう。」だったり、「たまにはスマホから離れて読書をしよう」だったり。
そして、その本に書いてあった通り、私の人生にはなんの変化も訪れなかった。
ただ、不思議なことに、私の心の中ではある変化が生じていた。それは、
「この『なにひとつ変わらない』人生でもそれはそれでありなんじゃないか。」
という事だ。
今まで私は自分の人生を変えたい、変わりたいと思う一心で行動し、その過程で自己啓発本に手を出したりしていた。そして、その内容に添って行動しても何も変わらないことに、不満を感じたり落ち込んだりしていた。
ところがこの本に出会い、「なにひとつ変わらない」人生を歩んでいる内に、そんな人生を肯定出来るようになってきた気がするのだ。
そうしている内にいつからか、本の文句とは裏腹に私の人生は「変わり」始めた。
それはとても些細な変化だった。周りの人から、「あなた最近ちょっと明るくなったんじゃない」と言われることが増えたとか、交友関係も昔より少しだけ広がったりだとか。仕事の進みが早くなったり。気持ちが前よりも軽くなったり。
私はちょっとしたいたずら心で本にクレームを付けたくなった。「あなたとんだ嘘つきじゃない。私の人生は『なにひとつ変わらない』ことなんてなかったわよ。」って。
本の末尾にはこう記されていた。
「何かの間違いでこの本を手にとって下さり、本当にありがとうございます。そしてもし、この本の題名の通りに『人生が変わらない』ことを望み、『人生が変わってしまった』方に対しては心からお詫び申し上げます。
何故私共がこのような本を著したのか、それはあなた自身に『今の人生』を肯定して頂きたかったからに他なりません。
昨今の自己啓発を推し進める風潮、それらに対する私共の率直な感想として『お前の人生は駄目なものだ。だから、何かしら変えなければいけない』と、こちらの人生を全否定し、挙げ句向こう側の意見や方法論を押し付けるように見えてならないのです。
無論これも単なる穿った見方の一つでしかないことも承知しております。ですが、あなた自身がこれまで歩んで来た道、その歩みは決して否定出来るものではないし、否定したくはないと我々は願っております。そういった意味でこのような題名をつけさせて貰いました。
私共が語っていることも、所詮は一種の『偽善』でしかないのかもしれません。そしてその上で、あなた方がどのように感じられるのかも強制出来るものではありません。
繰り返しになりますが、この本を購入して下さり誠に感謝しております。あなたが、あなた自身の『なにひとつ変わらない』人生を歩めるよう、我々は心よりなかった願う所存です。」
私はそっと本を閉じ、いつものように出勤に出掛けた。