2.目覚めたら天蓋付のベッドでした
「見知らぬ天井」
頬に風を感じた瞬間で意識を失ったようだ。
ぼんやりと見上げると、本当に見知らぬ天井。いや、天蓋か。
俗にいう天蓋付のベッドに寝ているのだ。
凄いな。何か細かい装飾と絵画が描いて有る。どこかで見たような絵だけど、何処だったかな。
んんんん。
これまで天蓋付のベッドは寝たことがない。
あえて言うなら、旅番組とかそういうので出てくる観光地化したお城の紹介で見たことがある。
イメージとしては透けるようなレースで出来ている感じだけど、天蓋から下がっているのは光も風も通さない分厚いカーテンだった。半分開いている。
なるほど、天蓋付のベッドって、こういう構造なのか。
しげしげ物珍しくながめ、手に取ろうと体を起こした途端。
がたん、と物音がした。
ぱたぱたと駆け寄る足音。
「お嬢様!ああ、ゲルダ様!」
涙をぼろぼろ流した女の人が抱きついて来た。
おおう。情熱的だ。どうしたのだ。
とにかく「私」は今「ゲルダ」様なのだな。「ゲルトルーデ」って言われていた気がするけど、あれか。アルプスに住んでいる純朴な「ハイジ」が「アーデルハイド」って言う名前なのと同じような、愛称の変化の仕方か。「ニコラス」が「二ッキー」とか「ニック」になるらしいけど、日本人の私にはピンと来ないものな。
「お嬢様、お嬢様!わたくしがお分かりになりますか?分かりますよね?」
「……」
がっくんがっくん揺さぶられる。「お嬢様」呼ばわりの割には乱暴な。
私の記憶よりも華奢な身体は、揺らされるままにグラグラであった。これじゃあお姉さんの名前を知っていても、記憶がシェイクされそうだ。
「い、いや。あの」
「ゲルダ様ぁぁぁ!」
物凄い力で抱き竦められ、耳元で泣き喚かれる。感情表現豊かな人だなぁ。
「ええと。お姉さん?落ち着いて。ね。泣き止んで」
よしよし、と背中をさする。
他人をこうやって慰めるのは、慣れている。なぜ?そういう仕事だったから?
自分のもの慣れた仕草に違和感を覚えながらも、このお姉さんが泣き止んでくれないと先に進まない。むしろ息が止まる。どこからこんな力が出てくるんだろ。
「や、やっぱり。やっぱりわたくしがお分かりにならないのですね。ゲルダ様。あの邪龍めが言う通り……」
ぐす、ぐす。ひっく、ひっく。お姉さんは懸命に涙を止めようと頑張っている。
邪龍と言われているのは、あのでっかいドラゴンだろう。真っ黒だったからなぁ。
「ごめんね?」
何を謝らないといけないのか、正直なところ良く分からないのだが。このお姉さんが嘆き悲しんでいるのは、「私」が、この身体の持ち主と思しき美女ではないと、気付いているからだろう。
私だって、ナニがどうしてこうなったのか、さっぱりわからないのだが。
「ゲルダ様。わたくしは、オーサの娘、グレータでございます」
鼻の頭も目の周りも真っ赤にしたお姉さんが、ようやく顔を上げる。
私の顔を覗き込み、視線を反らしてくれない。
「グレータさんね」
うん。ごめん。知らない。
「グレータ・シーデーンでございます」
「は、はい」
二十代前半の白人女性に見えるグレータさんは、私の中を探るように見つめている。何という目力。悪い事なんて何もしていないのに、見つめ返すのがつらい。
「ゲルダ様の姿をしている貴方はどなたでしょうか?」
がっちり私の肩を握ってる指が、ぐいぐいと食い込んでくる。骨が砕けそうだ。
「ゲ、ルダ、よ?」
「……」
誤魔化せるかと思って浮かべた愛想笑いに、グレータさんは悲痛な目をした。
「ゲルダお嬢様が可愛がっている邪龍が、もう貴方はゲルダ様ではない。全て忘れてしまっているだろうと申しておりました。
わたくしは、信じたくありませんでした。
でも、でも……。う、う、う」
「グレータさん」
「貴方のせいではないと、邪龍から聞いております。でも、わたくしの大事なお嬢様が。こんな。酷い。お可哀想なことになるなんて」
「ごめんなさい。私は貴方の事を知らないし、ゲルダお嬢様の事も知らない。どうしてこうなったのかもわからなくて。
ごめんなさい」
脳裏に甲高く澄んだ少女の声が響く。
『我が嘆きに応えよ。我が涙を啜り、我が苦しみ糧として、この世の全てを滅ぼすのだ!』
私が知っている推定ゲルダの意志はこれだけだ。この世の全てを滅ぼしたいらしい。滅ぼすのって、私が?そんな最終兵器的な能力ないだけど。困ったな。
「……」
私の前で、グレータさんはがくりとうなだれる。
この人にとって「ゲルダ」はとても大切な人だったのだろう。
重い沈黙は数分続き、けれど私は、この沈黙に耐えなければならないことを知っていた。
「はじめまして」
グレータさんはゆっくりと顔を上げる。
深い悲しみが灰色の瞳にべっとりと浮かんでいたけれど、彼女は強靭な精神を持った人のようだった。私の身体から手を離すと、一歩ベッドから離れる。
「あらためまして、わたくしは貴方様の乳母を務めさせていただいたオーサ・シーデーンの娘、グレータ・シーデーン。貴方様の乳兄弟イデオン・シーデーン男爵の姉に当たります」
恭しく膝を折った礼は、優雅な貴族の所作だった。この人自身も男爵令嬢なわけだ。
「ゲルトルーデ様は、ご自身を見失っておられるご様子。
差し出がましい事と充分存じておりますが、ご説明させてくださいませ。
貴方は、リヒトシャッテン王国アルトゥール・ドゥケンハイム・グリーム公爵のご息女ゲルトルーデ・ドゥケンハイム・グリーム。
第三王子ライオネル・ライト・リリーホワイト殿下のご婚約者であり、この国随一の闇の魔力を持つお方。純粋な魔力量では、『学院』の教授方も、光の王子と名高いレナード殿下にも追随を許さぬ、グリーム家の闇姫様でいらっしゃいます」
誇らしげな紹介。
グレータさんにとって、ゲルダは誇りだったのだ。
「どうぞ、大切な主を失ったわたくしに教えてくださいませ。
貴方はどなた様でしょうか」
私は。
私は、誰だろう。
足元が突然失われたような浮遊感が、心を冷やす。
冷静になれ。私。順を追って考えてみよう。
この身体は、目の前にグレータさんが切々と教えてくれた、グリーム公爵令嬢のもの。
その中にいる私は。
日本で生まれた、日本人。英語は学校で習ったけれど、苦手だ。日本語しか喋れない。間違いない。
もう大人。働いていた。学校は卒業した。性別は女性。
名前は。
頭に霞がかったように出てこない。
一月前の夕ご飯を唐突に思い出そうとするような、そんなもどかしさだ。
一月前だって特別な理由がなければ夕ご飯を食べている。メニューだって、物凄く変わったことはない。候補はいくつかある。焼き魚か、野菜炒めだったか、カレーだったか。とにかく普通の家庭料理。でも、特定できない。
そんな。「あると分かっている」けれど、「何か分からない」というもどかしさ。
私の名前は誰。
両親は?父と母は健在だ。うん。覚えている。でも顔が出てこない。モザイクのかかった写真を見るよう。
個人情報保護に厳しい記憶だな。
兄弟はいた?
結婚していた?
子供はいた?
思い出せない。名前よりももっとわからない。
職業は?女性だったのは間違いない。
会社勤め?パートをしていた?派遣か正社員?専門職?
世の中のいわゆる「常識」は覚えている。日本社会の仕組みも覚えている。子供時代は学校に行く。大人になれば、普通に就職し、順当に行けば結婚もするだろう。最近しない人も多いけれど。
そう言う「一般的な人生」は思い浮かぶのに、自分がどのあたりにいたのかが全く出てこない。
しかし、この全て忘れた、一昔前の少女漫画に出てくる「記憶喪失」状態だというのに、私の心は平静だった。
これはおかしい。
もっと混乱し、不安に陥るはずだ。
だって、私が見ているのは自分がグリーム公爵令嬢になった世界だ。どう考えても日本じゃないだろう。どうしてこうなったのか不安になるはずだし、これからどうなるか心配になるのが当然だ。
「ゲルトルーデ様」
黙り込んだ私をどう解釈したのか、グレータさんは優し気に微笑んだ。
「わたくしには教えていただけないお話でしょうか」
「い、いや。そういうことではないんです。グレータさん」
慌ててばたばたと手を振る。
グリーム公爵令嬢に忠実そうなお姉さんは、少なくともビームサーベルを振り回す美少女や、イケメン王子様とそのお付きみたいに、私に対して攻撃的ではない。
「話せるものなら話しておきたいんですが、自分でも良く分からなくてですね。
秘密にしたいわけじゃないんですよ」
グレータさんは、寂しそうに目を細める。
「貴方は本当に、ゲルダお嬢様ではないのですね」
「へ?あ?すみません、変ですね」
ガッチガチの貴族社会に生きてそうなグレータさんが、急に身分社会が廃れた日本人と喋れば違和感もあるだろう。
「では、貴方は『お客様』であるとして。どうしてこんなことになったか、ご存知ですか?ゲルダ様の御心はどこへ?」
「……」
う。この質問はどうしたものか。
グレータさんが聞いてくるのは、当たり前だ。気になるだろう。
そしてこれに関しては、私の持っている情報は「ゼロ」ではない。
『我が嘆きに応えよ。我が涙を啜り、我が苦しみ糧として、この世の全てを滅ぼすのだ!』というのが、端的に私がここに居る理由よね。
嘆いたり、涙したり、苦しんでいるのは、グリーム公爵令嬢だよね。文脈として。
「この世の全てを滅ぼすのだ」って言っちゃうぐらい悲しい事があったわけだ。
少女の声と共に感じた、痛いほどの悲しみと、苦しみ。妬ましさ。羨ましさが、胸に甦る。
この感情は、引きずられるけれど、私のものではない。
ならばゲルトルーデ嬢のものだ。
この国随一の魔力を持つ闇姫が、狂おしいほどの悲しみと共に連れてきた「私」。その私は、本来の持ち主が喪失した「身体」に寄生している。
んんんん。
これは悪役の気配で満ち満ちているぞ。
ありていに言って、これって悪魔召喚とかに似てない?
「このお嬢様の、闇魔法的な何かが原因ですかね?」
恐る恐る尋ねる。
魔法ってどんなものか知らないけど、ドラゴンがお気軽に出てくる世界だしな。
するとあからさまにグレータ様さんは不機嫌になった。
「闇魔法は邪法ではありません。闇とは、静けさ、安らぎを司る優しき精霊です。誰も彼もがお嬢様を魔女扱いするのですから!無知な輩はこれだから!」
「すみません。知らないもので」
義務教育に魔法はありませんでした。ごめんなさい。
すぐに謝る日本人的低姿勢な私に、グレータさんは表情を取り繕う。
「こちらこそ、取り乱して申し訳ありません。貴方は『お客様』です。
謝らないでください」
なんとか冷静さを保とうとするグレータさんを安心させるために、私は記憶の始まりを頑張って思い出す。公爵令嬢は、とても悲しかった。ライオネル様って何回も言ってたな。ライオネル様?はて、1回ぐらいは出てきた名前のような。
「あの。ゲルダ様はどこかで苛められていたりは?ライオネル様とかに」
「……!」
その時のグレータさんの表情は、般若のごとしだった。
マジで怖いよ。
「ライオネル殿下は、お嬢様のご婚約者でいらっしゃいます!苛めるとは何事ですか!
そもそも、リヒトシャッテン筆頭公爵、いえ、対の王家ともいうべき英雄の末裔グリーム公爵家の総領姫を苛める輩など、この世に存在いたしません!わたくしが許しません!」
「は、はい!」
あまりの剣幕に、思わず私の背筋がピンと伸びる。
ライオネル殿下って、公爵令嬢のフィアンセか。第三王子ってさっきグレータさんが言ってたな。一度に聞いた情報量が多くて流してた。
不味いマズイ。
いや。でも。
ライオネル王子は、あの、ビームサーベル少女と仲良くしていたハンサム王子だよね?金髪碧眼の、絵本に出てきそうな王子様。
やっぱり、苛められてたんじゃないのか。もしくは恋情の縺れとか。
第三王子と侯爵家の総領姫の政略結婚予定なのに、王子様は本当の恋を見つけてしまいました的な。お嬢様は侮辱だと受け取って涙にくれる的な。
おや。第三王子と、総領姫?
王子様に嫁いで、公爵令嬢は王太子妃、ゆくゆくは王妃殿下になる、という道ではなさそうだ。
「王子様は、婿養子予定ですか?」
思わずぽろりと尋ねると、グレータさんは当然だと頷いた。
「ライオネル殿下はゲルダ様とご成婚の暁には、次期グリーム公爵とおなりです」
「実は第一王子、第二王子よりも母親の身分が高く次の国王という?」
「ライオネル殿下は勿論の事、第一王子リオン殿下、第二王子レナード殿下も、アルバート陛下とオーレリア王妃殿下のお子様です。
滅多ことを言うものではありません。
リオン王太子殿下には、御年三歳になるセドリック殿下がいらっしゃいますので、王家は安泰ですわ」
親切にグレータさんが教えてくれる。
今からひっくり返ることは、あんまりなさそうだ。
この国の貴族にとっては常識中の常識なのだろう。説明ありがとうございます。
「ゲルダ様は、公爵の一人娘?」
「双子の兄君ギルベルト様がいらっしゃいます」
「じゃあどうして、ライオネル殿下が婿養子に?」
「まぁ」
グレータさんは零した溜息は、明らかに呆れたものだった。きっと常識中の常識をわざわざ聞いちゃったのだ。すみません。もの知らずで。
でも教えてください。
今聞かなくても、今日中ぐらいには聞いておかないと、ゲルダ様の立ち位置が分からないよ。
「ギル様は闇の魔力を継いでいらっしゃいません。ゲルダ様も継いでおられなければ、ギル様が次期公爵となられますが、闇の魔力を継いだ方が次の公爵です。
故にゲルダ様の夫が公爵となられます。
ゲルダ様は女公爵となられるには少々、夢見がちといいますか、政治家向きではないといいますか、気が弱いといいますか。ゲルダ様のお子様が、その次の公爵となるのです」
弱虫お嬢様なのか。
それにしても。
第三王子ライオネル殿下にとって、この身体の持ち主ゲルトルーデ公爵令嬢を蔑ろにするのは、逆玉の輿を蹴るぐらいマズイ事じゃいなのかな。
それとも、ビームサーベル少女と仲良くしてもいいぐらい、個人的には仲が悪かったのか。
グレータさんには悪いが、ゲルダ様は、超高飛車高慢どうしようもないダメダメ娘かも知れないし。
「王子様とお嬢様は仲が悪かった、とか?」
「王都とグリーム公爵領はとても遠いので、お二人でいらっしゃるところをわたくしは存じ上げません。
少なくとも、ゲルダ様はとてもとてもライオネル殿下をお慕い申し上げていたのは、確かです。お嬢様は隠しておいででしたが、ライオネル殿下に捧げる詩を書いておられたぐらいです」
その詩、見つけ次第焼却処分にしよう。
ゲルダ様が気の毒だ。隠してたんだから、見つけちゃだめじゃないか、グレータさん。下手に世に出たら、もう一人ぐらい悪霊召喚できるパワーを秘めてそうだ。
それにしても、ますます分からない。
公爵令嬢は、この世の全てを滅ぼすほど、何が悲しかったのだろう。
公爵令嬢の心はどこに行ってしまったのか、どうしてこうなったか、頭を抱えたところで私に答えはないのだ。
読んでいただきありがとうございます