マインツ編4
千崎がマインツにやってきてからすでに数週間が経った。千崎は既にマックス司教の食客としてある程度街に馴染んでいた。当初は奇異の目に晒されることも多かったが、マックスのとりなしでそれも無くなった。
千崎は現代での学業の成績は優秀な方であった。またその優秀さはこの街の人々の認めるところでもあった。千崎が現代で培った様々な知識を持っていたからか、或いは千崎が現代的な思想、つまりこの時代には珍しい考え方を持っていたからかもしれない。自分とは異なった考え方を持つものは特に優秀に見えるのだろう、逆に嫉妬の目で見られないことは幸運であった。すでにこの街ではカトリック的な普遍主義は薄まっているように感じられた。千崎のことを“東方の賢人”と呼ぶ風潮さえ一部では存在していた。
千崎は街の人にはアラブ人、あるいはモンゴル人だと思われていた。世界地図を知らない近世の人々にとって、日本という国はあまりに遠く、自分たちの歴史に深くかかわりを持っていないため妥当といえば妥当かもしれない。
今日も千崎はいつものようにジャン、フリッツと酒を飲んでいる。この2人は千崎がマインツの街で一番の友人だといえる人物であった。
千崎は以前マックスから聞かされたマルコに関するうわさ話について彼ら2人に切り出してみることにした。
「2人とも、マルコの噂って聞いてる?」
マックスやライラの話を聞く限りでは、彼は俗に言う悪徳商人のように思われる。しかし千崎にはこの時代の価値観がわからないし、果たして彼が悪徳と言えるのかということはわからない。もしかするとマルコのやり方は商人にとっては常套的な手口なのかもしれない。マックスの言うように他人にも正義はあるだろうし、それを知ることは重要なのだろう。
「噂?なんのことだ?」 フリッツは何も知らないらしい。
「マルコの手口のことかい?」 ジャンには心当たりがあるようだ。
「知っているの?」
「うん、一部の地主の間では有名な話だよ。僕の家族も彼の被害にあっていてね……」
「被害?」
「ああ、マルコは軍隊を私設しているんだけど――」
「え!?軍を?」
千崎は素っ頓狂な声をあげた。彼にとって軍のイメージと商人のイメージがかけ離れていたためだ。
「そう、彼はもともと傭兵を雇っていたんだけど、そのうち軍に汚い仕事をさせたり費用を削減したりするために軍を私設したんだ。構成員はもともと奴隷だったりする人が多いかな。」
軍を持っているということは実力行使ができるということだ、確かに彼が民衆に牙をむいたときのことを考えればマックスの懸念も理解できる。
「マルコはその軍を使って略奪や人さらいを繰り返しているんだ、でも彼自身は矢面に立たないから彼を糾弾してもうまく逃げられるだけなんだ。地主たちは彼に手を焼いているんだよ。」
いつも感情をあらわにしないジャンにしては珍しく、徐々に語調が強まっていく。
「彼は自分の商品を買っていく客に対しては愛想がいいのさ。でもそのほかの人々に対しては自分の利益のためなら簡単に牙をむく、屑のような男だ――」
「おい…!その辺にしておけ!」 雰囲気が徐々に悪くなっていくのを感じたフリッツが制止する。
「そうだね、こんなところで愚痴っても無駄だ……」
ジャンは冷静さを取り戻したようだ、しかし表情にはいまだに影が差している。
「そんな噂を君に吹き込んだのはきっとマックス司教だろう?彼も苦労しているんだよ。マルコは市を開催することでこの街に多大な経済効果をもたらしたからね、民衆の支持も得ているんだよ。そんなマルコを表立って批判すると今度はマックス司教が苦境に立たされる。でも君に打ち明けたのはきっと君が信頼されているからだよ。」
「そうだな、ショウの頭の良さはマックス司教も認めているところだろう。司教ももう年だし、ショウの知恵を借りたいと思っているんだろう。」 フリッツもジャンに続く。
――――――――――
なんとなくもう酒を飲む気分ではなくなった3人は、街中を散歩してみることにした。
広場から街のはずれの方へしばらく歩いてきた。この辺りは安宿が多く立地している地域だ。高所得者の多い街の中心部とはまた違った雰囲気を醸し出している。
ぶらぶらとなんの目的もなく街を歩いていると、ジャンが何かに気づいた。
「ほら、2人とも、あそこの体格の良い男が見える?あれ、マルコ軍の長官だよ」 ジャンが小声でささやく。
3人は物陰に隠れるとジャンが指さした男の観察を始めた。その男は屈強そうな強面の中年男性だ。その男は安宿の1つへ入っていく。
「観光ってわけじゃ……ないよな?」 フリッツがつぶやく。
ジャンは天を仰ぐ、これから来る嵐を予感したのだろうか。
(マルコってのはつまりやくざみたいなものなのだろうか……)
マルコの冷徹な手口を知っている3人の心は緊縛感にとらわれた。
――――――――――
3人は広場へと戻ってきた。しかしもう酒を飲む気分ではなかった。みな漠然とした憂鬱と不安を抱えているが、どうすればふりはらえるのかは皆目見当がつかないでいる。
教会の方を見るとマックスが何者か2人でと話しているのが見える。
「おい、あれマルコじゃないか?」 フリッツが言う。
確かにマックスと話し合っているのはマルコのようだった。
「司教も不用心なものだ、彼もマックスの危険さはわかっているはずなのに……」
フリッツはいかにも不安で胸が張り裂けそうというような声を出した。
(もし相手がマルコでなかったとしても領主が護衛もつけずに人前に姿をさらし、長々と立ち話するのは危険なはずだが……)
この街はこれまでよほど治安が良かったのか、マックスは周囲に警戒するそぶりを全く見せない。自分の街の住民を信じているといわんばかりの無警戒さだ。
「まったく……」 ジャンはさっきから落ち着きを失いつつある。彼は神経質な性格なのだろうか。
「そういえば…」 千崎は2人に気になっていたことを問いかける。 「この辺で奴隷っていうのは普通にいるものなの?」
「奴隷?ああ、結構いる、街ではあまり見かけないが地主とかは相当な数持ってるところもあるらしいな」フリッツが返す。
「僕の実家はそんなに大きな地主じゃないけど、それでもある程度はいるよ。彼らは農作業に従事しているね」 ジャンが言う。彼は話題がほかにそれたことである程度の落ち着きを取り戻したようだ。
やはりこの時代では奴隷という文化は普通のものとして認識されているのだろう。となるとライラを現状から救い出すということは困難になるだろう。ライラを奴隷身分から救いたいなどといっても誰も賛同しないだろう、それどころか他人の“所有物”に手を出そうとしているとして逆に白い目で見られる可能性だってある。
「あ……もしかして君の友人が奴隷にとられたとか、そういう話……?だったらできるの協力はするよ、まあ実際に買い取れるかの保証はできないけれど……」
ジャンは千崎に同情的な姿勢で援助を申し出る。確かに一度奴隷となった人を救い出すのは買い取るというのが一番手っ取り早いのかもしれない。
「いや、別にそんなんじゃないよ、ありがとう」
千崎はジャンの申し出を断る。ライラはマルコのお気に入りだというし、きっと金を積んでもマルコはそうそう手放そうとはしないだろう。それにジャンの金を使って自分の目的を達成するというのは良くないだろう。しかも千崎がライラを救いたいと思ったのは彼女の境遇に同情したためである。いちいち奴隷たちの境遇に同情し、救って回っていたらジャンが破産してしまうだろう。
――――――――――
結局、広場に戻ってもすることのなかった3人は各々の家に帰っていった。まだ早い時間であったが、もう酒を飲む気分でもないし、ほかにすることもないしといった具合だったのでこの判断が下されたのだ。
千崎はマックスの家の自室へと戻ってくる。
(今日は時間が余ったし、考え事でもするか……)
千崎はなんとなく窓から首を出し、下の道を見下ろした。すると、ちょうどライラらしき人影がこの家の前を通過していくのが見えた。
ライラと話がしたいと思った千崎はライラを追いかけるために外へ出た。