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異国の地より  作者: 奈落の花子さん
第1章マインツ編
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マインツ編1

 酔いの醒めない重い瞼を開けると暗い森、澄んだ満月。


 某国立大学の文学部の学生である 千崎彰センザキ ショウ は自分の置かれた状況を理解することができなかった。


(ここは…どこだろう…)


 明らかに知らない風景、遠くに見える大きな壁、迫る蹄の音…


 そして千崎は舗装もされていない土の上に横たわっていた。


 千崎の脳はこれらの情報を処理する能力を持っていなかった。


 どうしても数時間前まで友人と酒を飲んでいた記憶と合致しない。


 ああ、きっと夢に違いない。思考を放棄した千崎は再び眠りについた。



――――――――――



 朝の日光を浴びて千崎は目を覚ます。


(遅刻か…!?)


 大学に遅刻していないか時計を見ようと部屋を見渡す。


「……」 千崎は絶句する。


(ここはどこだ!?)


 激しい焦燥感と不安感が体を駆け巡る。おかしい、ここは自分の家ではない。自分でも気づかないうちに他人の家に上がり込んだのだろうか、いやまさかそんなことがあるはずはない。そもそもここは誰の家なのか、それさえはっきりしない。


 質素な部屋だ、この部屋にある家具と呼べるものは机と今まで千崎が寝ていたベッドのみだ。石造りの白っぽい壁、木枠の外開き窓。少なくとも千崎の知り合いにこのような家に住んでいる人はいない。


 冷静に分析している場合ではない、とは思うものの、ではどうすればいいのかはわからない。見知らぬ部屋に一人放置されて千崎の焦燥感と不安感は募るばかりであった。


 急にノックの音がする。千崎は身構える。体が極度の不安で熱くなっていくのを感じる。


「おはよう、気分はどうだい?」


 入ってきたのは穏やかそうな老人であった。髪はすべて白く染まり、顎からは同じように真っ白な立派な髭を生やしている。背丈は千崎と同じくらいか。白地にきれいな装飾の入った礼服のようなものを着ている。


「え、だ、誰ですか?」


 千崎は警戒する、一見敵意はないようだが相手は見ず知らずの男性である。


「落ち着いて、私は君の敵じゃないよ」


 悪人の常套手段だ、この手のセリフは信用に足らない。

 その男は一呼吸おいてからまたしゃべり始める。


「私はマクシミリアン、この街の聖職者だ。ここは私の家だ。君は昨晩のことは覚えていないのか? 」 マクシミリアンと名乗る男はゆっくりとなだめるように話す。


 千崎は昨日の夜のことはほとんど何も覚えていなかった、何せ泥酔していたのだ。強いて言うなら脈絡のない“夢”を見たことだろうか。それが昨晩の出来事に含まれるかは別として。


「何も知りません、何のことです?」


「君は門の外で行き倒れていたんだよ。ちょうど私はこの街に戻ってくる途中でね、馬車に乗せて君を連れ帰ったんだ。」


 千崎にはマクシミリアンの言っていることが全く理解できない、いや理解しろという方が酷であろう。


(行き倒れ?確かに昨日は泥酔していたからそれはあるかもしれない。それはともかく門?マクシミリアンの家には門があるのだろうか。それに彼は馬車といったか?このご時世に馬車だと?)


考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。とにかく自分の今の状況を把握しなければならない。藁にもすがりたい思いだが、目下すがれそうな藁は目の前にいるマクシミリアンぐらいなものだった。


「ところで君、腹は減っていないかね?」


――――――――――


 マクシミリアンはパンとスープを出してくれた。


(毒でも入れてないだろうな…)


 千崎はマクシミリアンを睨みつけながら恐る恐るスープに口をつけてみる。


「ウッ!ゴホッ!ゴホッ!」


「大丈夫かい!?」


 スープが気管に入ったようだ、石橋をたたくことに熱中しているとしばしば上空からの飛来物には無警戒になってしまう。


 千崎はマクシミリアンに出された食事を食べ進めていく。幸いにも毒が入っている様子はなかったし、眠気薬が入っているわけでもなかった、それにこのパンとスープの質素な食事は非常においしかった。なんとなく故郷を思い出して涙がこぼれそうになる。


「もう気分は大丈夫かい?」 マクシミリアンがおずおずと尋ねてくる。


「ええ、大丈夫です」


 千崎のマクシミリアンに対する警戒心は大分薄まったようだ、しかしまだ完全には警戒が解かれたわけではないようだ。彼のマクシミリアンに対する視線には時折猜疑の色が強く表れている。


「君、名前は?」


 いっていいものだろうか、逡巡する。しかし今更何を隠すことがあるのだろう、彼の個人情報は毎月のようにダイレクトメールが届くくらいには広まってしまっている。それに今後コミュニケーションをとるうえでも名前ぐらいは知らせておかなければ不便だろう。


「ショウです、センザキショウ」


「へえ、なかなか聞かない名前だね。アラブの方から来たのかな?」


「いえ、~~から来ました」


 千崎は強い違和感を覚えた。具体的にはそこだけ別の言語に置き換わっているかのような。自分ではきちんと“日本”と発音したつもりだ。

――いや違う、自然に母国語のように話していたから気が付かなかったが千崎が今話しているのは日本語ではない、そしてさっきの“日本”と言った部分だけ日本語だったのだ。それにマクシミリアンは今アラブの方からといった。


 千崎は勢いよく立ち上がり窓の方へ駆け寄る。下に見える道には多くの人が行きかっていた。しかし千崎には一目でわかった。そのすべてが日本人ではない。さっきの男、マクシミリアンもそうだ、彼も日本人ではない。


(僕は何語を話している!?ここはどこだ!?海外であるのは間違いないだろう、でも寝ぼけて海を渡るだなんてばかげたことが起こって良いものか!)


 千崎は気を失って倒れた。


――――――――――


 千崎は目を覚ます。どうやら朝目覚めた部屋と同じ部屋であるらしい。


「ショウ、目を覚ましたかい?」


「マクシミリアンさん!ここはどこなんです!」


「きっと君はまだ疲れていて、それで気が動転しているんだろう。落ち着いて、頭に血が上るのは体に良くないよ」


「でも、おかしいんです!」


「いいから、横になりなさい。君はもしかしたら一時的に記憶を失っているのかもしれない。この家でゆっくり療養するといい。この部屋は自由に使っていいからね。さて、私はそろそろ教会での仕事があるからこの辺で失礼するよ」


 千崎は何もない部屋にポツンと一人残された。


(どういうことだ?僕は今どこにいるんだ?異世界にでも飛ばされたのか?いやまさか、オカルト話じゃあるまいし…)


――――――――――


 マクシミリアンという藁を失った千崎は、新たに縋り付く藁を求めて家から出た。ここは明らかに日本ではない。中世ヨーロッパのような街並みだ。家から少し歩けば教会に着く、おそらく中にはマクシミリアンがいるのだろう。教会の前には大きな広場がある。石畳が敷き詰められた広場で、かなり大きな面積を占めている。ここはどうやら活気のある街のようで、広場では多くの人が行き交っている。


 広場沿いで教会のちょうど反対側には酒場がある。老若男女さまざまな人がビールのような飲み物を飲んでいる。千崎は一番広場側の席で酒を飲んでいる2人の青年に話を聞くことにした。初対面の人に話しかけるのはどうしても緊張するものだがそんなことを言っている場合ではない。


「あ、あの……」


「なんです?」 返事をしたのは金髪の好青年。


「実は今日はじめてこの街に来て、それでこの街のことを色々と聞こうと思いまして…」


「いいよ、まあ酒でも飲みながら話そうよ」


「実はお金を持ってなくて……」


「ははは、今日は僕が奢るから。マスター、こっちにエールをもう1杯!」


「あの…いいんですか?」千崎は遠慮がちに聞く。


「かまわんかまわん、そいつは金だけは持ってるからな、いくらでもたかっていいぞ!」 別の男が茶々を入れる。黒髪で彫りの深く筋肉質の男だ。まだ昼頃だというのにすっかり出来上がっているようだ、顔を赤く染め、表情筋は緩みまくっている。


「我々の新しい仲間に乾杯!」 黒髪の男が杯をあげる 「ちなみに俺も今日はこいつのおごりだ」


「そういえば僕たちはまだ自己紹介していなかったね、僕はジャン、フランス出身だよ。」


 ジャンという男は金髪の青年の方だ。身長は平均的だがやせ形で、どこか書生のような雰囲気を持った男である。


「俺はフリッツ、よろしく」


 黒髪の男はフリッツというらしい。彼は筋肉質で背も高く、体にはあちこちに傷跡が残り、いかにも武人という容貌であった。


「名前をまだ聞いてなかったな、なんていうんだ?」 フリッツが聞く。


「センザキ ショウです」


 ジャンとフリッツは顔を見合わせ、しばし沈黙する。


(何かまずいことを言っただろうか?まだ名乗っただけだけど、もしかして名前がいけなかったのだろうか…?)


「あまり聞かない名前だね、東からきたのかな?まあとにかくあまりセンザキという名前は人に言わないほうがいい」 ジャンが言う。


「最近は厳しくなってきてるからな、勘違いで殺されるのはたまったもんじゃないだろう?」 フリッツが続く。


「なんのことですか?勘違いで殺されるって……」 急に物騒な話になったものだ。


「魔女狩りだよ、魔女狩り。本当に最近は厳しくなってきていてね、少しでも怪しい魔術を使っているだとか、邪教を信仰しているだとかいう噂が立ってしまえばもうお手上げ、棺桶でも買って裁きの日を待つしかないね。まあ肉体が残らなければそれも無駄になるけどね……」


「特に外国人は気を付けなければならないぞ、民衆の間で怪しい魔術が流行っているとか噂になれば真っ先に疑われるからな。」


 千崎は一気に沈んだ気分になる。魔女狩りとは近世ヨーロッパで黒魔術を使う魔女だと疑われた人が、裁かれて処刑されるという一連の事件のことだ。魔女と疑われるのは異端信仰や、当時の人が超自然的と考えた行動をするものなど、さまざまであった。千崎の思考には自分の命が危ういのではないかという不安が生じていた。


「そういえばこの街について知りたがっていたな、ご存知の通りここはマインツだよ。マインツ司教領の都市だ。最近イタリア人の商人が来ていて市が開かれるということで活気付いているんだ。ところでショウ、今どこに住んでるんだ?」 フリッツの言葉だ。千崎はご存知ではなかったがこの街はマインツというらしい。


「ええと、マクシミリアンさんの家に間借りしてます。」


「ああ、マックス司教のところか。彼はこの街のお偉いさんだよ、というか領主だね。そして人格者としても評判が高い。」 ジャンが言う 「彼は人格者としても評判は高いんだよ、ただちょっと融通の利かないところもあってね、低所得者たちが税制に反発している面もあるけど基本的には良い為政者であり良い友人であると思うよ。それに――」


 ジャンもかなり酔いが回っているのだろうか、この街の政治について饒舌に語りだした。きっと彼は政治について考えるのが趣味なのだろう。


「おいおいジャン、その辺にしておけ、ショウが困っているぞ。悪いなショウ、こいつは酔いが回るといつもこうなんだ、学者にでもなったつもりかよ」 フリッツがため息をつく 「こいつは当てにならんから俺が説明するぞ、マックス司教は……確かもう60歳は過ぎていたんじゃないか?元は神学者だったらしいな、かなりの賢人だと評判だ。どうだ?ほかに聞きたいことはあるか?」


 千崎にはまだまだ聞きたいことがあったが、すでに酔いが回ってきているのを感じた。昨晩も行き倒れるほど飲んだのだ、ほどほどにしなくてはならない。


――――――――――


 夕焼け空の下、千崎はマックスの家へと帰途を急ぐ。足取りはかろうじてしっかりしているが、たまに意識が飛びそうになる。飲みすぎだ、節制を心掛けなければいけない。


 マックスの家に着く、家を出てくるときには気づかなかったがこの家にはドアノッカーがある。立派な装飾のついたものだ。たたく、1度、2度、3度。大きな扉が開いてメイドが千崎を迎え入れる。改めて見ると立派な家だった、大豪邸といっても過言ではない。さすがは領主の家とでもいったところか。それに使用人の数も多い。


 マックスが玄関に姿を現す。


「おお、お帰りショウ。疲れただろう?こちらに夕食が準備してある、一緒に食べよう」


 千崎はマックスに促されるまま食堂へと向かう。


 千崎は食堂に向かいながら考える。千崎は今日1日である程度の情報を得ることができた。ここはドイツの都市マインツ、領主はこの家の主でもあるマックス司教だ。しかしとても現代とは思えない、イメージで語るならば中世か近世にでも来てしまったかのようだ。そして千崎が話していたのは古いドイツ語のようだ、何かを話そうとするとそれはすべて“自然に”ドイツ語に翻訳されてから口を飛び出していくのだ。それにこの時代のドイツの庶民たちが存在を知らないものに関しては翻訳されないものと思われる。これは道すがら何人かの人と話をした結果として得られたものだ。


 食堂にはすでに夕食が用意されている。しかしだだっ広い食堂に2人きりでの食事というのも寂しい。それにはマックスも同感だったようで、手の空いている使用人たちに一緒に食事をとろうと声をかけていた。もしかすると彼は普段から使用人たちと一緒に食事をしているのかもしれない。


 千崎とマックスは席に着く。使用人たちもバラバラと手の空いたものから席についてゆく。


「ショウ、記憶は戻ったかい?」 マックスが心配そうに聞いてくる。しかし千崎は記憶を失ったわけではない、ただ彼の理解能力を超えた現象が起こっているのだ。


「いえ……なんというか現在の状況と僕の記憶がうまく合致しないのです。」


「やっぱりまだ記憶が混濁しているようだね、遠慮はいらないから好きなだけうちで療養していくと良いよ」


 マックスの言っていることは事実とは異なっているのだが、千崎は自分の身の上に起こっていることをうまく説明する自信がなかった。ここは引き下がるしかない。


「ええ、ありがとうございます」


 千崎はスープをすする。落ち着いて考えてみると実は千崎の方が記憶が混濁しているのかもしれない。そう考えても一応つじつまが合わないこともない。日本での記憶が偽物で今の世界が本物なのだろうか。いややはりそれは納得がいかない、千崎にとって最も有力なのは今が夢の世界で、現実は現代の日本であるということだ。それでもやはり“今”を直視するのは大事だろう。それがたとえ夢である可能性があったとしても――


「マクシミリアンさん、1つ伺いたいのですが、今は西暦何年でしょう?」


「? 今は1520年だが、それがどうかしたのか?」


 やはりここは近世のようだ、歴史の教科書でしか知ることのできなかった世界が今目の前に広がっているのだ、わくわくするといえばわくわくするが、それよりも不安でいっぱいだった。


「いえ、別にどうというほどのことでもないですが……」


「もしかして結構長い期間の記憶が抜けているのかい?」


「いえ、そうではありません……」


 これは事実だ。


「そうか、それは良かった。ああ、あと私のことはマックスと呼んでくれて構わないよ」 マックスは安堵の顔つきだ。


「それじゃあマックスさん、街ではイタリア商人が来ていると言う話題で持ちきりだったのですが……」


「おお、そうだ!ここ最近イタリア人のマルコという商人が来ている。明日から彼が主催して市を開くようだ。いくらか金を渡しておくからいってみるといい、いろんな国から人が集まるし、きっと珍しいものが見つかるよ。」


「ありがとうございます、いいんですか?」


 マックスはにこやかな表情で黙っている。


――――――――――


 食事を終えた千崎はマックスに挨拶をして自室に戻る。千崎にとっては非常に長い1日であった、疲れがどっと襲い掛かってくる。いろいろ考えたいことはあった、何せ気づかないうちに近世ヨーロッパに飛ばされていたのだ。これ以上ない不思議体験であるうえに、これからに対する不安も大きい。しかしもう瞼は襲い掛かってくる圧力に屈してしまいそうだ、考えるのは後回し、ひとまず現状を受け入れよう、と自分に言い聞かせ、千崎はベッドの上で目を閉じた。


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