7、行政長官(ガバナー)
レイネが目覚めると、巨木の根元の大きな洞に、外から朝の光が差し込んでいた。
隣を見ると、父親が洞の内壁に寄りかかって寝ていた。
レイネ自身はその父親の脇腹に体を預け、おなじ灰色のマントに包まって今まで寝ていたのだった。
体を起こし、父親を起こさないように、そっとマントから抜けだし、外光の差す細長い洞の出入り口から外へ出た。
朝の白っぽい光の中、薄い霧の流れる木々の間に灰色の旅人が立っていた。
旅人に近づき、挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう……よく眠れたかね?」
「はい」
旅人……灰色の剣士ゾル・ギフィウスは、不思議なナイフをブーツから抜き、しきりに、あちこちの方向へ切っ先を向けていた。
「完全な青という訳ではないが……じゃっかん赤みが残っているが、これくらいなら、まず安全だろう」
ナイフの刃が纏う燐光を見つめながら、ゾルが言った。
「霧も薄い……昨日の、『猛獣の群れの中をこっそり歩く』ような危険度に比べれば、今朝の森は随分とましになった」
〈霧〉が侵入して二十年前、この大陸の空が晴れ太陽が姿を現した日は一日も無い。とはいえ、その濃淡は日によって違い、〈妖魔〉と人間が出会う確率は霧の濃さに比例して増減した。
もじもじと体を動かしている少女の様子から察して、ゾルが振り返って大きな木の幹を指さした。
「あの木の後ろ側へまわって、してきなさい。あまり遠くへは行かないように」
「は……はい」
少女は朝の生理現象を解消するため、小走りに巨木の反対側へ回った。
「さて……」
少女が巨木の向こう側へ隠れたのを確認して、ゾルが一人ごちる。
「馬を……グランニッグを探さなくては、な……ドラ公、探してきてくれるか?」
「キキッ」
金と銀の鱗を持つトカゲが肩の上で鳴いた。
「『これは貸しにしておく』だって? おいおい、こんな事にまで〈契約〉を持ち出すのか? それくらいは俺たちの友情の証として、やってくれ」
答えるようにもう一度トカゲが『キキッ』と鳴き、体がフワリと浮いてゾルの肩を離れる。
空中およそ三メドールまで上昇したドラ公の背中からコウモリのような形の金色の膜翼が生え、それをパタパタさせながらトカゲは霧の向こうへ消えた。
物音に振りかえると、洞から木の割れ目を通ってサイケンが出てくるところだった。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
「あの、レイネは?」
「巨木の陰で用を足している」
それを聞いて、サイケンがホッと胸をなでおろす。
「ああ、それなら良かった……ずいぶん霧が薄くなりましたね。これなら〈妖魔〉に出会うこともなさそうだ」
「ああ」
「これから、どうするんですか?」
「とりあえず、馬を探す……何もなければ、昨日の小屋があった広場にいるはずだが、何かの事情で別の場所に移動していた場合は、そこまで歩いていかねばならん。それから、街道へ戻って……」
「街道へ、戻って……それからどうするんですか?」
「さて、そこなのだが……」
その時、用を足し終わった少女が旅人と父親のいる場所に戻って来た。
ゾルが懐から水晶の携帯日時計を出す。
「七時か。カールンの町から昨日事故を起こした地点まで、どのくらいだ?」
「昨日は、霧が濃かったから時間が掛かりましたが……今日くらいの霧なら、普通に走って馬で四時間、急げば三時間半くらいだと思います」
「急ごう。〈妖魔〉のうろつく夜中は町の中でジッとしていただろうが、朝になればあのガラの悪い警備兵団とやらも追っ手を差し向けて来るだろう。連中より先に街道に戻らないと、面倒な事になる」
「はい」
そのとき、パタパタという羽ばたきの音とともに、金色のトカゲが帰って来た。
「つ、つばさ?」
サイケンと娘が同時に驚きの声を上げる。
「と、とべるのですか?」
「ああ。もとは竜だからな」
「はぁ……」
空中で翼を閉じ、ゆっくりと降下してゾルの左肩に着いた。
たたんだ翼は何時のまにか消えていた。
「キキッ」
トカゲが鳴き、ゾルが「広場へ戻るぞ。我が愛馬グランニッグがそこで待っているそうだ」といった。
* * *
それから森の中の細い獣道を通って、倒壊した小屋のある広場に一旦戻り、粕毛の馬と合流して、街道への獣道を歩く。
広場から出発する直前、ゾルが馬の荷物から干し肉を出して千切り、一つは自分、一つはサイケン、残りの一つをレイネに渡した。
「腹に入れておくんだ。ゆっくり食事をする時間は取れないが、栄養を取っておかないと後々きつくなる」
三人で一個の水筒を回し飲みしたあと、昨日とは逆に粕毛の馬を先頭に、サイケン、レイネ、最後にゾルという並びで森の中を歩いた。
「う、馬が先頭なのですか?」
サイケンが驚いたような声を上げた。
「グランニッグは記憶力が良い。方向感覚も並の人間よりはるかに優れている。一度通った道は絶対忘れない。やつに先導してもらうのが一番だ」
そこでニヤリと笑う。
「ただし……馬糞には気をつけろよ」
再び真顔になり「なぜカールンの警備兵士団を名乗る男たちに追われていた? やつらは本当に正規の兵士団なのか? 歩きながら聞かせてもらおうか」と、サイケンに尋ねた。
* * *
森の下草を分け、獣道を歩きながらサイケンが語り出す。
「帝国崩壊当時、このカールン州の行政長官ゼレキン様は三十五歳だったと言います。なんでも都では秀才の中の秀才と呼ばれていたそうで、三十五歳で行政長官に就任というのも異例の早さだという話です。
奥様のお年齢は存じませんが、一人息子のザック様は五歳でした。
帝国が一夜にして滅亡し、街道が〈霧〉と〈妖魔〉によって機能不全に陥り、大陸中の各州が否応なく独立して政治と軍事を行わなければいけなくなった時も、ゼレキン様の手腕は見事だったという事です。
町や村々を盗賊団から守るため帝国時代すでに回らされていた堀に、ある種の〈魔法の水〉を定期的に垂らせば〈霧〉と〈妖魔〉の侵入を防ぐことができるという情報をいち早く聞きつけ、被害を最小限に食い止めたのもゼレキン様です。
〈霧〉の侵入から二十年、行政長官ゼレキン様を悪く言う州民は一人も居ませんでした。それは、行政長官のお膝元、州都カールンの町も同じでした……一年前までは。
今から一年ほど前の事です。
町に不気味な噂が流れました。
ゼレキン様の一人息子、ザック様が〈妖魔〉に取り憑かれた、と」
* * *
「行政長官の息子が〈妖魔〉に取り憑かれた?」
ゾルの聞き返しにサイケンが頷く。
「……はい。もちろん、実際に〈妖魔〉に取り憑かれたザック様を見たという者は居ません。少なくとも私は知りません。しかし、それ以来ザック様が公の場に姿を現さなくなったのも事実……やがて行政長官は、ある恐ろしい御布令を出されました……『女を一人ずつ、行政長官の公邸に連れてこい』という御布令を」
* * *
サイケンが話を続ける。
「真夜中、行政長官の手の者が、目星をつけた家の戸に、真っ赤に塗ったナイフを突き刺していきます。それが『生贄』の合図です。
戸にナイフを立てられた家には、必ず若い女が居ます。そういう家を選んでナイフを突き立てるのです。
その家に住む若い女……『若い』には幼い子供も含まれます……は、翌日、自らの意思で一人で行政長官の公邸に行かねばなりません。もし、拒否したり逃げようものなら、その家の者全員が逮捕され投獄され、財産は家ごと没収されます」
* * *
「そして、行政長官の元へ行き、帰って来た女は居ない……と?」
ゾルが先回りして尋ね、サイケンが頷いた。
「はい……ひとりも」
「〈妖魔〉に……正確には〈妖魔〉に取り憑かれた行政長官の息子に殺された、という事か?」
「はい……大ぴらに言うものは居ませんが、みんな陰ではそのように噂しています」
「行政長官の周囲に、悪行を正そうという者は居なかったのか?」
「何人かは……しかし、みな粛清され殺されるか、牢屋に入れられるか、運の良い者は町の外に逃げてしまいました。……真っ先に目をつけられたのは警備兵士団長のアーレン様です。二十七歳の若さで団長に抜擢され、取り憑かれる前のザック様とも仲が良かったと聞いていますが」
「殺されたのか?」
「いいえ。いち早く危険を察知して逃げ、今は行方不明です。……その後も粛清は続き、優秀な部下、正義を言う者から順番に殺され、投獄され、町から逃げました……そして、その人たちと入れ違いにゼレキン様の周囲に集まって来たのは……」
「日和見主義者と、ごろつき……」
「その通りです。アーレン様の後釜についた今の警備兵士団長は、ジャギルスという男です。もとはカールンの裏社会に根を張っていた『死飢狼団』(ループス・エーズーリエンテス・モールス)の親玉です」
「なるほど……ヤクザの親分が今じゃ警備兵士団の団長様という訳か」
「昨日の朝、私の家の戸に『赤いナイフ』が突き立てられていました……妻は娘を生んで直に亡くなり、私は七年間、男やもめで娘を育てて来ました。何があっても娘だけは救いたい……私は娘と逃げました。警備兵に見つからないように裏通りを選んで走り、何時間かしてやっと町の外まで辿りついて……そこで……その……悪い事だと知りつつ、行商人から荷馬車を盗んで、それからはご存知の通りです」