2-18.妖魔の声
(どうする? 始末するか?)
テーブルを挟んだ反対側のソファに仰向けに寝転がっている灰色の髪の男を見ながら、ルッグは考えていた。
(この男……どうやって秘密の『安全地帯』の存在に気づいたんだ?)
都市デクレスと都市リイドを往復しながら商いをする者はルッグの他にも何人か居た。しかし新街道を使うのはルッグだけだ。それが他の商人には無いルッグだけの優位性だった。
旧道を通れば二泊三日かかるところを、ルッグだけが新街道を通って一泊二日でデクレスからリイドへ、あるいはリイドからデクレスへ移動できる。
商人にとって移動時間の短縮は、それだけで利益の源泉になる。
(旅人だろうが誰だろうが、俺以外の人間にこの部屋の存在を知られる訳にはいかない)
『安全地帯』は独占してこそ価値がある。
この秘密の場所を利用して、これからも金を稼ぎ続けるつもりだ。同業者どもに知られるわけにはいかない。
しかし、ゾルとか名乗る自称旅人の口から秘密が漏れないとも限らない。
(それに……あの『光るナイフ』だ……何らかの魔法を有する道具であることは間違いない。安く見積もってもあのナイフ一丁で豪邸が三つ建つぞ。そして『黄金色のトカゲ』……金持ちや上流階級の息子どもの中には、珍奇な動物を何十匹も飼って嬉しがってる阿呆も居るからな。こっちも高値が付きそうだ)
無意識に、右手がソファに立てかけた弩の方へ伸びた。
(始末するか? この旅人を殺して口を封じるか……? そしてナイフもトカゲも、持ち物全て俺が頂くか……)
「やめろと言ったはずだぞ」突然、向こう側のソファで寝ていたゾルが目を閉じたまま呟いた。「貴様に俺を殺すことは出来ない……そして、お前がそのクロスボウを使った次の瞬間、俺はお前を殺す」
旅人の口調に凄みは無かった。むしろ面倒くさそうな感じのボソボソとした声だった。
しかし、その声が商人ルッグを驚かせ、クロスボウに伸びかけていた右手をビクッと反射的に引っ込めさせた。
「ちっ……」見透かされていた気まずさと、子供みたいに驚き恐れてしまった気まずさを隠すため、ルッグは、自分でも滑稽なくらい不貞腐れた態度でソファの背もたれにドサッと体を預け、安ワインの瓶を呷った。
* * *
「臭うな……」
言いながらゾルが起き上がった。
それを見てルッグは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「とうとう奴らが来たのさ。いつもの事だ」
商人は、相変わらずワインの瓶を呷りながら、嫌な笑みを顔に浮かべた。
「……いや……鍵を壊されたのは初めてだ……これで俺の人生も終わりか? それともお前の言う通り、『霊気』とやらに守られて無事なのか」
「安心しろ。俺を信じるんだ。入って来られやしないさ」言いながらゾルが顔をしかめる。「それにしても、酷い。鼻が曲がりそうだ……たまらん」
「ああ。これが妖魔の臭気だ。それでも中はましだぞ。廊下は……部屋の外はこんなものじゃない」
「よく我慢できるな」
「だから、こうして酒を飲んでいる。お前もその高級蒸留酒とやらをどんどん飲めよ。酒に酔えば感覚が鈍って鼻も利かなくなるさ」
(そして恐怖心も鈍る。夜通し聞こえてくるお嬢さまの声にも耐えられる……)ルッグは口には出さず、そう心の中で付け加えた。
ゾルは、しきりに「くさい」「たまらん」と言いながら自分の革袋をガサゴソと漁り、中から赤地に白抜きの細かい模様が入ったスカーフを取り出して口と鼻を覆うように顔に巻いて後頭部で縛った。
「けっ! そんなもの! 気休めにもならん」顔の下半分をスカーフで隠した旅人を見て、ルッグが言った。
……その時……
「おお……今夜は開いているぞ」
部屋の外から声が聞こえてきた。
(とうとう来たか……しかし、おかしい……いつもの声じゃねぇ……お嬢さまの声じゃねぇな……)
ルッグは思った。
男の声だった。初老の男の声だ。
商人は鍵の壊れた扉を見た。
(どこかで聞いたことのある声だ……どこの誰だったか……)
また別の声がした。
「まあ、本当だわ……どうにか扉を開けられそうよ」
今度は中年の女の声だった。
(……お、奥さま……?)
二十年ぶりに思い出した。ルッグが仕えていたこの家の主婦の声だ。その声をきっかけにして、最初の男の声も思い出すことが出来た。
(そうだ……あれはロウデン家の当主だ……ロウデン家の主人の声だ)
かつて、時々この屋敷を訪れていた金持ちの放蕩男。好色そうな嫌らしい目でメイドたちをじろじろ見ていた五十歳がらみの男だ。いつしか主人が不在の時に限ってこの屋敷を訪れるようになり、奥さまと二人きりで鍵を掛けた部屋に閉じこもるようになり……陰で使用人たちから「奥さまの良いひと」と呼ばれていた男だ。
二十年前、主人の不在中にこの屋敷で浮気をしていた奥さまとその浮気相手が……二人そろって扉の向こう側に居る……
(いったい何の冗談だ……?)
ルッグの背筋にゾクリと冷たいものが走った。




