4、小屋
少しずつ濃くなっていく霧の中に、青紫色の光が浮かんだ。
光の正体は、ゾルの持つナイフだ。
切っ先を上に向け、まるで松明のようにして周囲を照らしながら、森の奥深く、どこへ続いているのかも分からない獣道を進む。
次に続くのは七歳の少女、レイネ。その次に父親のサイケン。最後に荷袋を背負った粕毛の馬。
ゾルは焦っていた。
ナイフの光は、まだ完全な青ではない。
この場所の〈妖魔〉出現確率は、他よりは低いが安心できる程ではない、という事だ。
日が暮れるにはまだ少々時間があるだろうが、夜の到来だけが〈妖魔〉どもの出現条件ではない。
ゾルは乳白色の霧が流れる木々の間を見回した。
(この霧が一定濃度を超えてしまえば、たとえ昼日中であっても、〈妖魔〉にとっては真夜中と同じこと……)
街道を旅し、時には木の陰で野宿をしてきた旅人は、後ろを歩く少女と父親を見て、ため息をつく。
自分一人なら何とかなるとしても、この二人を〈妖魔〉どもから守るのは不可能だ……と。
やがて一行は、獣道が二股に分かれている場所に当たった。
ひとつは斜面を登る道。
もう一方は、斜面を下って薄暗い谷の底へ向かう道。
ゾルは、まず斜面を登る方へナイフの切っ先を向けた。
……一気に赤みが増す。
次に、斜面を下る方。
……わずかだが、光の中の青みが増したように感じられた。
迷わず谷の底へ向かう道を選んだ。
「し……下へ向かうのですか?」
サイケンが先頭のゾルに尋ねる。
灰色の男は振り向きもせず、低い声で言った。
「ああ……ナイフが、こっちの方が安全だと言っているからな」
少女の父親は困惑し、それっきり口を閉じた。
しばらくのあいだ誰も何も話さず、ただ白い霧の中に息を吐きながら緩い斜面の道を下へ下へと降りていく。
そして、谷の底の平らな場所に行き当たった。意外にもそこは木々の無い開けた土地だった。森の奥深くに突然現れた広場のような場所だ。
ナイフの導きに従い、一行は広場の真ん中へ向かって歩いた。
霧の中から現れたのは……小屋だ。
石積みの壁の小さな掘っ立て小屋……いや、正確にはかつては小屋だった廃墟、か。
建てられた当時は入り口に付いていたであろう扉は遥か昔に腐って落ち、窓にもガラスどころか木枠さえ嵌っていない。ただ壁に四角い穴が開いているだけだ。
ゾルが、ナイフの切っ先を小屋に向けたり小屋から離れた場所に向けたり、を繰り返す。
「やっぱりだ……あの小屋を指している時が、いちばん青みが強い……待っていろ」
そう言って灰色の旅人は、その場に父と娘を置き、一人で小屋の中へ入った。
しばらくしてゾルが中から顔を出し、「今日は、ここで夜を明かすぞ」と言った。
「え?」
サイケンとレイネが同時に、不安げ、というよりは薄気味悪そうな声を上げる。
「早くしろ。霧の濃度が上がっている。時間が無い」
「こ、ここに、泊まるのですか?」
「そうだ。俺のナイフが、この近辺ではこの小屋が一番安全だと言っている」
「しかし……う、馬は?」
「放っておけ。〈妖魔〉は動物には興味を示さない。〈妖魔〉が取り憑くのは人間だけだ。それに『馬が居るなら、近くに人間も居るだろう』などという知的な判断もしない。ただ目や耳を使って人間を感知し、襲いかかるだけだ」
「はあ……」
とにかくサイケンは旅人に従おうと決め、未だ気味悪がっている娘の手を引いて扉の無い入り口から小屋の中に入った。
魔法のナイフに照らされた小屋の内側には床が無く、ただ、踏み固められた黒い土の上に直接柱を立てて石を積み屋根を載せた、文字通りの「掘っ立て小屋」だった。
天井も無く、屋根裏と、屋根を支える梁がむき出しになっている。
梁の交差している部分には蜘蛛が巣を幾重にも張っていた。
突然、少女が「きゃっ」と叫んで父親にしがみ付いた。その指差す方向を見ると、ナイフの青い光が照らす小屋の隅に、百足やゲジゲジや、その他サイケンが名も知らない虫が何匹もわだかまり、ガサゴソと蠢いていた。
次の瞬間、ゾルの肩に乗っていた黄金色のトカゲが、いきなり土の上に飛び降り、物凄い速さで虫どもの群れの中へ突っ込んでいった。トカゲは大きな赤黒い百足に襲いかかり、その太い胴体の真ん中あたりをパクッと咥えた。周囲に居た他の虫どもがサッと逃げる中、逃げ遅れた特大の百足は、クネクネと体をくねらせ、もがきながら、徐々に黄金トカゲの口の中に飲み込まれていった。
ゾルが笑う。
「我々人間にとっては薄気味の悪い荒れた小屋だが、ドラ公にとっては御馳走の山、という訳だな」
そして「そろそろ休息の時間だ」と言って窓際に座り、ゴツゴツした石積みの壁に寄りかかった。
仕方なく、サイケンも同じように(気持ち悪かったが)窓をはさんでゾルの反対側の土の上に座り、壁に寄りかかった。
隣にレイネを座らせ、怪我をしていない右腕で抱きしめる。
父娘が壁際に座ったのを確認して、ゾルが青く輝くナイフをブーツの鞘に収めた。
光が消え、小屋の中が薄暗くなった。
「寒い……」
レイネが呟いた。
少しでも密着すれば寒さも和らぐだろうと、サイケンは娘の体をさらにギュッと力強く自分の体に押し付けた。
その時、窓をはさんだ向こう側から、灰色の塊が飛んできた。
広げてみると、それはさっきまでゾルが纏っていたマントだった。
「森を歩いていた時から寒かったのだろうな……気付かなくて済まなかった」
旅人が言った。
「それを使え。少しは暖かくなる」
「し、しかし……」
父親が戸惑う。
「ギフィウスさん、あんたは寒くないのか?」
「寒いさ。しかし真冬って訳でもないし、耐えられん事もない。女の子が寒がっているのを黙って見ているよりはマシだ」
「あ、ありがとうございます」
サイケンは、自分と娘に灰色のマントを巻きつけた。
「暖ったかい……」
娘の呟きに、サイケンが頷く。
「ああ。暖かいマントだ……見たこともない生地……動物の革のようでもあるし、植物の繊維のようでもある。そして抜群の保温性……こりゃあ相当の上物だぞ。あの不思議なナイフといい、よく躾けられた駿馬といい、ギフィウスさん、見た目は只の旅人だけど、ひょっとしたら物凄い大金持ちか高貴の出身かも知れん」
窓の反対側から、ゾルが声をかけてきた。
「さあ、そろそろお喋りは止めて体力の温存に専念するんだ。この霧の濃度なら、いつ〈妖魔〉が現れてもおかしくない。奴ら、知性は無いが、だからといって人間のお喋りや物音を聞き逃してくれるほど甘くはないぞ」
そして三人は、霧が満ち夕闇が迫る薄暗い森の奥にある崩れかけた小屋の土の上に座り、ジッと夜が明けるのを待ち続けた。