22、地下牢
鍵を掛け、誰も入れない行政長官公邸の居間。
カールン警備兵士団ジャギルスは、全裸のまま暖炉前の行政長官専用の椅子に尻を沈めていた。
長椅子の上に満足げに横たわる行政長官夫人アルマの全裸姿を見ながら、手にした杯に注いだ行政長官取って置きの帝国時代・三十年ものの酒をちびりちびりと飲む。
突然、何者かが居間の扉を叩いた。
その音に、ぐったりと長椅子に横たわっていたアルマがハッと上半身を起こし、本能的に自分のドレスで胸と股間を隠した。
「誰だ!」
情事のあとの心地よい気だるさを邪魔され、やや不機嫌ぎみにジャキルスが声を上げる。
「メ、メイドのサリアです」
廊下から女の声がした。
「ルニクとおっしゃる方が、お見えになりました……」
それを聞いてアルマが不審げに尋ねる。
「ルニク? 何者です?」
「なに、最近雇った『用心棒』だ。心配いらん」
答えながら、ジャギルスが椅子の背もたれから身を起こす。
「しかし、こんな夜中に、公邸に何の用だ? ……ああ……そうか……今夜は〈仮面地下抵抗団〉(レジスタンシア・ペルソナールム)とかいう連中に網を張っていたのだったな……してみると、連中の捕縛に成功したという訳か……おい、アルマ……やっとご子息の夕食が届いたぞ」
カールン警備兵士団長は、椅子から立ち上がり、服を着始めた。
帝国の紋章が嵌められた警備兵団の軽装革鎧を装着し、マントを羽織って、居間の鍵を外す。
興味津々に居間の中を覗こうとするメイドから行政長官夫人の裸体を隠すように廊下に出て、後ろ手に扉を閉める。
アルマが部屋の中から鍵を掛ける「カチャリ」という音が響いた。
「ルニクは何処にいる? 案内しろ」
メイドと一緒に玄関ホールへ向かう。
ホールに出ると、晩秋の深夜だというのに上半身裸の少年が寒がりもせず立っていた。
「これは、これは……行政長官閣下か奥様がいらっしゃれば、と思ったのですが……意外や意外、現れたのは警備兵士団の団長さんとは……」
「行政長官閣下は書斎で飲んだくれておられる。奥方は今さっきまでこの俺とちょっとしたゲームに興じていてな……たいへんお疲れになって居間で休んでおられる……そんな事より、計画は上手く行ったのか? 〈抵抗団〉とか言う連中は捕らえたのだろうな? 『お慰め女』はどうした?」
「そう焦らずに……ひとつひとつ行きましょうよ……まず『お慰め女』の件ですが……パン屋とその妻には、まんまと逃げられました」
「何っ! それで貴様はこの公邸に何をしに現れたのだ? 昨日予定していた子供に逃げられて、ザック様は丸一日空腹を我慢しておられるのだぞ!」
「まあ、まあ……」
ルニクが警備兵士団長を宥めるように両手を上下させた。
一年前まではカールンの暗黒街で非合法組織の親玉だった、四十代半ばの筋骨たくましい男を前に、この十代前半の痩せた少年は緊張の欠片さえ見せず、終始ヘラヘラと軽薄な笑いを顔に張り付かせていた。
「パン屋の奥方には逃げられましたが……実は今夜、意外な『大物』が網に引っ掛かりましてね」
「大物?」
「元警備兵士団の副団長、〈速剣の貴婦人〉(ドーミナ・グラーデイ・ヴェロクス)、マルティーナ……」
「何ッ! それは本当か!」
ジャギルスの問いには答えず、少年は、芝居がかった仕草で指をパチンッと鳴らした。それを合図に、入り口近くに立っていた兵士が玄関の扉を開ける。
二人の男に抱えられ、玄関の外からホールに入って来たのは……正しく……
「おお! 正しく、〈速剣の貴婦人〉、マルティーナ!」
女を担いできた兵士らは、硬直して人形のように直立している女剣士をジャギルスの目の前に置いた。
「……で、どうします?」
少年が警備兵士団長に尋ねる。
「フム……そうだな……どのみち今夜のザック様のお相手になるのだろうし、な……地下に下しておくか……おい、お前たち!」
ジャギルスが、マルティーナを担いできた二人の兵士を見て言った。
「〈速剣の貴婦人〉さまを地下の『特別室』にお連れする……俺について来い! ……ルニク、お前もだ!」
警備兵士団の団長はマントを翻してクルリと後ろを向き、地下へ降りる階段のある方へ、廊下を歩いて行った。
* * *
「なーんか、薄気味の悪いところだなぁ……まさか公邸の地下にこんな場所があったなんて……」
薄暗い石造りの廊下を歩きながら、ルニクが呟いた。少年は手にロープの束を二つ持っていた。
「なんだ、貴様でも怖がることはあるのだな? ここは、かつて拷問部屋のあった場所だ。気味が悪いのは当然だ。……まあ、直に慣れる」
蝋燭カンテラを持って先頭を歩くジャギルスが言った。
団長は、廊下の奥から二番目の扉の前で立ち止まり、鍵穴に大きな鉄の鍵を差してガチャガチャとやりはじめた。
そのとき、一番奥の部屋から「おなか……すいた……」という声が聞こえてきた。
「ジャ、ジャギルスさん……あ、あれは……ひょっとして」
一番奥の扉を指さして、ルニクが尋ねた。
「……ああ……お前の考えている通りだ」
ジャギルスが答える。
「行政長官閣下の最愛のご子息……ザック様のお部屋だ」
「ひええ……」
ルニクが半分おどけたような調子で怖がって見せる。
その後ろでマルティーナを担いでいる兵士たちは、本気で怖がっているようだった。
「なんだ……お前、〈妖魔〉使いのくせに、〈妖魔〉に取り憑かれた男が怖いのか?」
ジャギルスがルニクを振り返って言った。
「そりゃあ、〈妖魔〉もいろいろだからね……ぼ、僕は、その中の、たった一種類を手懐けているだけさ。他の〈妖魔〉が危険なのは、皆と変わらないよ」
「ふん。そうかい……」
その時、鍵が外れる「ガチャリ」という音が地下の廊下に響いた。
「開いたぞ、女を中に入れろ」
何百年前の物かも分からないどす黒いしみの付いた石壁の部屋だった。
壁の上の方には、ロープや鎖をひっかけるための鉤爪や輪っかが幾つも埋め込まれている。
「よし、そこの二つの鉤爪のちょうど中間に、女を下ろせ!」
ジャギルスの命令通り、兵士たちが硬直したマルティーナを立たせた。
ルニクが、二本のロープをそれぞれマルティーナの左右の手首に縛り付け、反対の端を天井近くの鉤爪に引っ掛けた上で、二人の兵士に持たせた。
このまま兵士たちがロープを引っ張れば、女剣士の両腕は二つの鉤爪の方へ引き上げられ身動きが取れなくなるはず……だったが、今は全身が硬直していて引っ張ろうにも引っ張れない状態だった。
無理に引けば、女剣士の腕は骨折するか筋肉が裂けてしまうだろう。
「いいか、僕がこの長針を使ってマルティーナの硬直を解くから、合図とともに力いっぱいロープを引くんだぞ!」
二人の兵士に命令し、ルニクが女の肩に針を突き刺す。
一瞬、マルティーナの体がビクンッと痙攣した。
「よし、いくぞ、いち、に、さん」
少年が針を一気に引き抜く。
同時に兵士たちがロープを力いっぱい引き、別の鉤爪に引っ掛けて固定した。
両手をやや開き気味に上方へ引っ張られ、女は、体をΥの形にしたまま動けなくなった。
「どうだい? 気分は? けっこう長いあいだ硬直状態が続いたからね。全身の筋肉に疲労が蓄積されているはずだ……硬直を解かれた今は逆に力が入らなくなって、立っているのがやっとなんじゃないかな?」
優しげに問いかけたルニクを、眼球を動かせるようになったマルティーナがギロリと睨んだ。
「おっほー、怖い怖いっ。そんなに睨まないでくれよ」
少年が、お道化てみせる。
「おい、ルニク……ひとつ聞き忘れていたが……おまえ、まさかこの女に……」
「しちゃいないさ。……行政長官閣下ご子息の好みは、前に、あんたが話してくれただろ……何でも、ザック様は、男の匂いにとても敏感だとか……女の肌に男の唾液の跡があっただけで、召し上がらないって言うんだろ? それを覚えていたからね」
「……本当だろうな?」
「ああ。本当だよ。この女には指一本……いや、多少は触ってみたけど……あんたが心配してるような事は、一切やっちゃいない」
「そうか。なら、良い」
その時、地下室の扉が乱暴に開けられた。
音に驚いて一同が振り返ると、行政長官夫人アルマが、カンテラの光に照らされ、ものすごい形相で入口に立っていた。
アルマは、拘束されたマルティーナの所へつかつかと歩いて行き、いきなりその頬を平手で力いっぱい張った。
パァーンという肌と肌が激しくぶつかる音が牢屋の中に響いた。
「この売女めが!」
返す手の甲で、マルティーナの反対側の頬を張る。
再び、パァーンという音が響く。
「お前のせいで! お前のせいで! 息子は、あんな化け物になり果てて!」
さらに、もう一回、頬を張った。
「お前が、息子の申し出を素直に受けていれば!」
さらに、もう一回。
「いいや、そもそもお前が、息子をたぶらかさなければ!」
さらに、もう一回。
「お前が、息子の前に現れなければ!」
さらに、もう一回。
「殺してやる! 八つ裂きにして、殺してやる!」
そこで、やっと我に返った警備兵士団団長ジャギルスが、夫人を後ろから羽交い絞めにした。
「やめろ! アルマ! この女を殺す気か! この女は、その大事な息子の今夜の食事なんだぞ! あんたの息子は『生きたエサ』しか食わねぇじゃねぇか! もうやめろ!」
しかし、夫人は既に錯乱状態に入っていて、見境が無くなっていた。
「おい、ルニク! 手伝え! アルマを地上に運び出す!」
「あ、ああ……」
「おい、お前ら!」
拷問部屋の出口まで夫人を引きずっていったジャギルスが、呆然としている二人の兵士に言った。
「その女を……マルティーナを見張っていろ! 目を離すんじゃねぇぞ!」
そして、ジャギルスとルニクは、錯乱して「殺してやる! マルティーナ! 殺してやる!」と泣き叫ぶ行政長官夫人を連れて廊下から地上に上がる階段へ向かった。
「殺してやる! マルティーナ! 殺してやる!」というアルマの声が、地下牢に反響しながら遠ざかって行く。
静けさが戻った地下牢で、マルティーナの両横に立つ二人の兵士が同時に「ほっ」と胸をなでおろした。
* * *
……そのころ、隣の拷問部屋では、怪物の頭を持った男が「まるてぃーな……まるてぃーな……まるてぃーな」と小さな声で何度も何度も呟いていた。




