19、地下迷宮(ダンジョン)
「それでは、パン屋のマルクおよび妻エリを、壮大な地下迷宮の旅へお連れしよう……」
元カールン警備兵団団長、現〈仮面地下抵抗団〉(レジスタンシア・ペルソナールム)団長のアーレンが、芝居がかった仕草でパン屋の夫婦に御辞儀をした。
「ち……地下迷宮?」
マルクが首を傾げる。
「まあ、いいから、ついて来い」
そう言って、アーレンはクルリと後ろを向き、捨てられた貴族屋敷の廃墟、その中庭の奥へ歩き出した。
アーレンの婚約者だという、〈速剣の貴婦人〉(ドーミナ・グラーデイ・ヴェロクス)マルティーナ、以下、他の団員たちもアーレンに従う。
「おいっ、行くぞ」
隣に立っていた仮面の男に小突かれ、マルクと妻は仕方なくアーレンと団員たちに追いて行った。
中庭の奥に古い井戸があった。
薄い霧の中、地下組織の者らは崩れかけた井戸の周囲に集まり、一人が縄梯子を井戸の中に放り込んだ。
「さあ、降りるぞ」
アーレンの言葉を合図に、一人ずつ縄梯子を伝って井戸の底へ降りていく。
「お前らも降りろ」
再度、隣に立つ仮面の男に小突かれ、マルクとエリはしぶしぶ井戸の中へ降りて行った。
地下組織の男らのうち一人だけが井戸の外に残り、それ以外の全員が降りた所で、地上に残った一人が縄梯子を引き上げた。
「万が一の事があった場合、証拠を残すわけには、いかんのでな」
マルクを小突いた男が、言った。
「し、しかし、これで、どうやって地上に上がるのですか?」
心配そうに尋ねるマルクに、男は「心配するな」と言って、井戸の底に掘られた横穴を指さした。
「ト、トンネル?」
マルクが誰に尋ねるでもなく、独りごとのように言い、仮面の男がそれに答える。
「そうだ……さあ、行くぞ」
〈仮面地下抵抗団〉(レジスタンシア・ペルソナールム)と名乗る者らが合計で八人。そのうち一人を残し、地下に降り立った者は七人。
それにマルクとエリを加えて九人の一行は、崩れかけた貴族屋敷の廃墟の、崩れかけた古井戸の底に掘られた秘密の横穴の中へ、一列になって入っていった。
先頭と二番目の仮面の男たちがカンテラを持って前方を照らし、三人目がクロスボウを前方へ向けながら歩いた。四人目がアーレン、五人目がマルク、六人目がエリ、七人目がマルティーナ、八人目がクロスボウを持った仮面の男、そして最後尾がカンテラを持って後ろを警戒しながら歩く。
横穴は奥の方で広がって、地下を走る石造りの廊下、といった風情になった。
「かつて、この町には、帝国に反旗を翻した豪族の拠点があってな」
地下の通路を歩きながら、アーレンがマルクに言った。
「今から数百年前、帝国中期の話だ……結局、その反乱は失敗に終わり、豪族は一族郎党もろとも無残に全員処刑されたが……かれらが作った秘密の軍事施設は、その後この地を支配した帝国の地方行政組織に受け継がれた……例えば、今の行政長官公邸は、帝国軍によって破壊された豪族の砦の敷地に、その砦の基礎を利用して建てられている」
「ガ……行政長官公邸が、かつては砦だった?」
「ああ……もっとも、公邸を建てる際に利用されたのは基礎部分だけだ。今ある地上の建物は、反乱収束後、帝国によって建てられたものだ」
「で……では、行政長官公邸の地下には……」
「そうだ。豪族の砦だったころの地下牢やその他の構造物がそのまま残されている……この『地下迷宮』も、その時代の遺物で、な……要人をひそかに逃がしたり、敵の背後にまわって奇襲をかけるために作られた。カールンの町のほぼ全域に網の目のように張り巡らされ、町の要所要所に設けられた秘密の出入り口から地上へ出られるようになっている」
「行政長官さまは、ご、ご存じなのですか? この古の地下迷宮の事を……」
「豪族が破れ、カールン州が帝国の支配下に戻った初期のころは、この地を治めた帝国配下の地方政府も知っていただろうが、な……カールンの町が整備され、平和な時代が続き、地下迷宮は意義を失い、さらに何百年もの年月が経過して……いつしか、こいつの存在を忘れてしまったのさ。……まして、行政長官という職位は、しょせん帝国中央から数年おきに派遣され、いずれは都へ帰る『中央官僚』に過ぎない……いや、過ぎなかった。二十年前までは、な。……現職のゼレキン閣下も含め、帝国末期の行政長官たちは、例外無く、この地下道の事は知らされていない」
「では、アーレン様は、なぜ?」
「都から派遣される行政長官たちと違い、警備兵士団は『地元採用』だ……血筋に関係なく有能な人材を登用するというのが帝国の建前だが……実態は親から子、子から孫への世襲だ。俺の家系も代々、警備兵士団団長を拝命している。そして、この地下道の事も、門外不出の秘密として代々受け継がれた」
「しかし、それは……」
「背任行為か? ああ、そうだ……まあ、地元との癒着を防止する中央任命制度も、良し悪し、という事さ……俺の一族のような、地元に根づいた『潜在的な反帝国分子』を育ててしまう可能性がある、という意味では、な」
それから半時間ほど、一行は蝋燭カンテラの灯りを頼りに迷路のような地下道を歩き、分岐点を何度か曲がり、また歩いた。
やがて、石造りの階段に行き当たった。
先頭と二番目のカンテラを持った仮面の男が階段を昇り、暫くしてゴゴゴゴゴ……という、石を引きずるような音が響いた。
音が止み、先に昇った男の一人が、カンテラを振る。
「さあ、行くぞ」
アーレンの声とともに、下で待っていた者らも一列になって階段を昇った。
昇った先には、マルクの予想を超えた大きな空間が広がっていた。
マルクは後ろを振り返った。
カンテラの薄暗い光に照らされて、戦の女神の巨大な像が闇の中に浮かび上がっていた。
マルクたちが出てきた秘密の扉は、その女神像が立つ台座の側面にあった。
「し……神殿?」
「そうだ……いくつかある地下迷宮の出入り口の一つだ」
アーレンが言った。
「ここは西門に近い。明日の夜明け、開門と同時に旅人に偽装したお前たち二人を町の外へ逃がす……安心しろ。門衛は二人とも買収してある」
……その時、闇の中からクロスボウの矢が飛んできて、カンテラを持っていた〈抵抗団〉の一人の胸を貫いた。
* * *
「敵襲! 待ち伏せだ! 灯りを消せ!」
アーレンが叫び、姿勢を低くする。
その頭の上を矢が通り過ぎ、後ろの女神像の台座に当たってカンッと跳ねた。
カンテラを持っていた男たちが急いで火を消す。
神殿が闇に包まれる。
「計画変更! ラムダへ移行する!」
〈抵抗団〉団長の声を聞き、暗闇の中で伏せる団員たちに緊張が走った。
何が何だか分からないまま闇の中に棒立ちになっていたマルクとエリの首根っこを何者かが掴み、力まかせに元来た女神像の台座に空いた穴……地下迷宮への出入り口へ引きずっていった。
パン屋の夫婦が秘密の扉の内側に引きずられて入った直後、「カチンッ」というばね仕掛けが外れる音がして、再びゴゴゴゴゴ……という石を引きずるような音が響いた。
音が止んだ所で、夫婦を地下迷宮の内側に引きずり戻した何者かがカンテラの蝋燭に火を点けた。
マルクの目の前に、カンテラを持った仮面の男が一人だけ立っていた。
後ろを振り向くと、さっきまで開いていた地下迷宮と神殿をつなぐ出入り口は、大きな石の扉で塞がれていた。
「ぐずぐずするな! 行くぞ!」
仮面の男が言った。
カンテラの光の中、マルクとエリが互いの顔を見た。
「……い、行こう」
夫の言葉に、妻が頷く。
一人だけ地下迷宮に戻った〈抵抗団〉団員と、マルクとエリは、三人一列になって、カンテラを持った仮面の男を先頭に再び地下への階段を下りて行った。
「い、いったい、何があったのですか?」
地下道を歩きながら、恐る恐るマルクが先頭の男に尋ねる。
「待ち伏せだ」
仮面の男がボソリッと呟いた。
「理由は分からんが……いや……おそらくは裏切り……密告だろう……我々の計画は警備兵士団の知る所となり、地下道の出口で待ち伏せにあってしまったのだ」
「待ち伏せ……ですか……」
「お前らは、運が良いぞ。最初の奇襲攻撃で、矢が当たらなかったのだから、な……もっとも、今の警備兵士団はごろつきの寄せ集めに過ぎない。練度も低い。当たらなくて当然かもしれんが」
「あの、アーレンさまが、何か叫んでいたようですが……ラ、ラムダ、とか何とか」
「計画は、あらゆる事態を想定して二十四通りの変更手続きが予め用意されている。ラムダというのは、そのうちの十一番目の変更計画だ……『地下道の出口で待ち伏せされた時には、一人を案内役として、逃がすべき人物を地下迷宮に連れ戻し、別の出口から脱出させる……残りの者は、待ち伏せされた出入り口に残って出来るだけ時間を稼ぐ』」
「な、なるほど……」
そこでパン屋は、ハッとあることに思い至った。
「で、出来るだけ時間を稼いだ後、残った人たちはどうなるのですか?」
「それぞれ、ばらばらに散って、個々の力で脱出する……敵に捕まった場合は……自害する……拷問にかけられて仲間の秘密をしゃべらないように、な」
「……そんな……」
「パン屋! お前たち二人を、アーレン団長と仲間たちは決死の覚悟で逃がしてくれんだ……何が何でも生き残って、この〈妖魔〉に魅入られた町から脱出しろ」
それっきり仮面の男は黙り、地下迷宮には三人の足音だけが響いた。