14、一年前の出来事
話は、一年前に遡る。
* * *
ある日の午後、カールン行政長官公邸の廊下を、一人の青年が足早に歩いていた。
青年の名はザック。二十五歳。行政長官ゼレキンの一人息子だ。
上等な生地の紺色のフード付きマントを羽織った青年は、顔に憂鬱な、それでいて怒りを含んだ表情を貼り付かせ、目を涙で赤く腫らしていた。
「ザック! どこへ行くのです! ザック!」
行政長官ゼレキンの妻で、ザックの母親のアルマが息子の後を小走りに追う。
玄関ホールまで来た息子は、そこで母親を振り返って一言「ほっといてくれ!」と叫び、大きな木の扉を乱暴に開け閉めして公邸の外へ出て行った。
若さまの勢いに気押されて体を固めていたメイドたちが、ザックが扉の向こうに消えると同時にアルマの所へ駆け寄り、「奥さま……ご気分は」と恐る恐る尋ねた。
「気分? 良いわけが無いでしょう! メイドなら、私の顔を見てそれくらい察知しなさい!」
癇癪を起し、八つ当たりに叫ぶ女主人に、メイドたちは再度、体を固くした。
その時、玄関の扉が開いた。
アルマは息子が帰って来たのかと、喜びにパッと顔をほころばせるが、入って来たのが夫の行政長官ゼレキンだと分かって直に興味を失った。
「いま、ザックとすれ違ったが……」
外出用のマントと帽子をメイドたちに渡しながら、ゼレキンがアルマに言った。
「何やらブツブツ言いながら馬に乗って、ものすごい勢いで走っていったぞ……『僕なんか、もうどうなったって良いんだ。もう死んだって構うもんか』とか、何とか……こりゃあ穏やかじゃないなと思って話しかけようとした私に危うく馬をぶつけそうになりながら、すごい速さで門の外へ出て行った」
「あなた……なぜ、止めてくれなかったのですか!」
「いや、だから、止めようとした私を弾き飛ばすようにして出て行ったと言っただろう……それにしてもザックに何かあったのか? 様子が尋常じゃなかった」
「実は……」とアルマが言いかけ、周囲に侍っているメイドを見回し「ここで話すわけにもいきませんから、居間に行きましょう」と言ってクルリと後ろを向き、夫を置いてスタスタと廊下の奥へ歩いて行った。
* * *
それから、少しあと……メイドたちを退出させ主人と奥方の二人だけになった居間の赤々と燃える暖炉の前で、蒸留酒を舐めながらゼレキンが「なるほど、なぁ」と溜め息まじりに言った。
「あのザックが二十五歳にして生まれて初めて女に愛の告白をして……見事に振られたという訳か……しかも相手は、あの警備兵団の副団長……〈速剣の貴婦人〉(ドーミナ・グラーデイ・ヴェロクス)、マルティーナとは……いやはや」
「なにが、〈速剣の貴婦人〉ですか! 女だてらに剣なぞ振り回して『貴婦人』などと……」
「あだ名はともかく、あやつの剣の技は確かだぞ。しかし、上官の息子であるザックを振るとは、何とまあ、勇気のある事よ」
「変なところで感心しないでください! メイドたちの噂によると、あの女、よりによって団長のアーレンと通じているという話……」
「ほう? ますます豪気な女だな」
「それでいながら、ザックにも色目を使っていたに違いありません。純情なザックをたぶらかして良いように弄んでおきながら、いざとなったら息子を捨てて団長のアーレンに靡いたんです」
「そう、決めつけるな……ああ言う性格の女だ。もとからボンボン育ちのザックは趣味ではなかったのだろうさ……まあ、気にするな。男も二十五歳にもなれば失恋の一つや二つくらい経験する。二十五歳で初失恋では遅すぎるくらいだ……そうか……それで、あのセリフか……『僕なんか、もうどうなったって良い』とか、『もう死んだって構うもんか』……とか」
「あ、あなた! まさか!」
「心配するな。私にも経験がある。失恋したばかりの頃は、何かにつけて物事を悲観的に考えるものだ。しかし、人間、女に振られたくらいでそうそう自暴自棄にはならんし、時間が来れば感情も収まろうというものだよ……一、二時間もその辺を馬で走り回れば、気持ちも収まろう」
……しかし、父親の楽観は不幸にも当たらず、若い青年の失恋から始まったこの一件は最悪の結果を迎えてしまった。
* * *
それから暫くして、伝令の早馬が行政長官公邸の門を抜けた。
伝令が足早に屋敷に入り、居間の扉を叩く。
「どうした? 入れ」
主人が居間の中から声をかけた。
伝令が入るなり報告する。
「町の西側で、霧の濃度が上がっています」
「何ッ」
「このまま行くと、〈妖魔〉出現の危険があります。西の門を閉じるかどうかのご指示を!」
「そ……そうか……分かった。西の門だけ跳ね橋を上げ閉門しろ」
「はっ」
伝令が居間から飛び出していく。
「あなた……」
アルマが心配そうに夫を見つめる。
「まさか、ザックは……」
「ば、馬鹿なことを言うもんじゃない。いくら失恋して自暴自棄になったからといって、まさか〈妖魔〉の恐ろしさを忘れる事はあるまい。心配するな……何だかんだと言って、あやつは坊ちゃん育ちの臆病者だよ。町の外に出る勇気もあるまい。城壁の内側をうろついているだけだろうさ……堀の内側に居る限りは妖魔に取り憑かれる事は無い。日暮れまでには帰って来るさ」
しかし、夜が迫り、全ての城門が閉ざされ、町が闇に包まれても青年は公邸に帰って来なかった。
……帰って来たのは、日暮れから随分時間が経過した後……
屋敷の居間でイライラしながら暖炉の前を行ったり来たりしていたアルマ夫人と、椅子に寝そべり蒸留酒を舐めていた行政長官の耳に「ぎゃーっ」というメイドたちの悲鳴が届いた。
二人が、急いで玄関ホールへ向かうと、扉の前に上質の紺のマントを羽織り、フードを目深に被った青年の姿があった。
青年と行政長官夫婦の間にはまだ数歩の距離があるため、目深に被ったフードで顔が見えない。
しかし、青年の近くで腰を抜かして這いつくばっている二人のメイドからは、フードの下の顔が見えているはずだ。
メイドたちは恐怖に顔を引きつらせ、足に力が入らないのか、立ち上がることも出来ずに、それでも青年から逃げようと四つん這いになっていた。
「まあ、ザック……お帰りなさい……ずいぶん心配していたのよ」
母親がホッと胸をなでおろしながら優しく息子に言った。
「さあ、そのフードを取って、マントを脱ぎなさい……」
青年は右手をマントの下から出し、ゆっくりと頭の方へ動かした。
「お父さま……お母さま……」
そして、フードの縁を掴み、後ろへ下す。
「僕……化け物に、なっちゃった」
公邸に、アルマの絶叫が響いた。
フードの下から出てきたのは、〈仮面の妖魔〉だった。
「取り憑かれちゃったんだ」