11、ザンギムの矢
「ば……化け物だ……正真正銘の、化け物だ」
馬車の陰で二人の闘いを見ていたザンギムは、灰色の剣士ゾルの人間離れした戦闘能力に足を震わせていた。
「あんな化け物……か、勝てるわけがねぇ」
カールン警備兵士団格闘術顧問、四枚刃戦斧のギードが殺されたのを見て、急いで御者台へ昇った。
馬の鼻先はカールンから離れる方向に向いている。町に変えるには後ろへ方向転換しなければいけない……しかし……
(行先なんか関係ねぇ……とにかく今はこの化け物みてぇな男から一刻も早く離れるんだ)
そう思い、ザンギムが手綱を取った瞬間……
「おい、どこへ行くつもりだ?」
感情の無い冷たい声に「ひっ」と悲鳴を上げ、部下を失った隊長が恐る恐る声の方を向くと、灰色の剣士が御者台の上に立っていた。
ゾルは手に持ったクロスボウの先端を、ザンギムの額から僅か一センティ・メドールのところに持ってきた。
「動くなよ……」
矢じりの先端が額に触れるか触れないかのギリギリの所で揺れた。
「このクロスボウは、お前の部下が持っていたものだ。もちろん矢も、お前が部下に持たせた毒入りだ。どうやら即効性の劇毒のようじゃないか……額にかすり傷を負っただけで、あっという間に全身に毒が回って死んでしまうのだろう?」
言われて、ザンギムは顔じゅうの毛穴からギラギラした脂汗をたれ流した。
一拍間を置いて、ゾルが続けた。
「言い訳か、命乞いでもしてみたらどうだ?」
ザンギムは一瞬言葉に詰まったが、すぐに出まかせのデッチ上げを言い始めた。
「あ、あの親子は、重罪人なんだ……そ、そうだ……殺人犯なんだ! 虫も殺せねぇ顔してるが、な、何人も殺してるんだよ……それを俺たちは追いかけてただけだ。ま、町の治安を預かる者として、と、当然だろ?」
「そうか……それは済まなかったな……お前の部下を皆殺しにしてしまった……このクロスボウは返すよ」
ゾルは御者台に弓を置き、マントを翻してザンギムに背中を向け、御者台から降りようとした。
警備兵士団隊長は慌てて御者台のクロスボウを取り、ゾルの背中に向けた。
「はあっはっははぁ! この俺様に背中を向けたのが運の尽きだ! いかに貴様の反射神経が高かろうとも、この至近距離で背中を狙われれば避ける術も無かろう! 毒の矢を受け痛みを感じる間もなく死ねぇい!」
そして引き金をひく。
矢じりに毒を塗った矢がゾルの背中めがけて飛んだ。
しかし、灰色のマントに守られた剣士の体を貫くことは出来なかった。
マントの直前数センティ・メドールで高速の矢は勢いを失い、ぽとり、と御者台の足置き場の上に落ちた。
「忘れたのか? このマントは、どんな弓の名手も、どんな狩の名人も射殺せなかった『ヴァリアダンの牡鹿』の皮をなめして作ったものだ。矢による攻撃は効かん。どんなに近くで撃とうとも、な……さて」
灰色の剣士が振り返り、あらためてザンギムの顔に冷たい青灰色の瞳を向けた。
「ひっ」と悲鳴を上げたザンギムの手からクロスボウを取りあげ、マントの中から矢の束を取り出して、そのうちの一本をクロスボウの上に置いた。
「これは俺の自前だ」
ゾルが、警備兵士団隊長の腹に狙いを定めて言った。
「警備兵士団隊長様から頂いた矢と違ってな……毒を塗っていない只の矢だ……痛みを感じる間もなく死ぬような便利な品ではない……さて、その少々太り気味の腹に、いったい何本の矢を撃ち込んだら隊長様はお亡くなりになるかな? ゆっくりと一本ずつ撃ち込んでやるから、できるだけ耐えて見せろ」
街道の周囲の森に、カールン警備兵士団隊長ザンギムの悲鳴が反響した。何度も、何度も、反響した。
* * *
灰色の剣士ゾルは、全滅したカールン警備兵小隊の死体を森の中に投げ捨て、幌の無くなった幌馬車を路上で何度か切り返して鼻先をカールンに向け、御者台に乗って手綱で馬の尻を叩いた。
馬車がゆっくりと動き出し、徐々に速度を上げながらカールンの町を目指して走った。
* * *
薄い霧の漂う街道をしばらく走っていると、後ろから迫ってくる蹄の音が聞こえた。
「……この音……グランニッグか……」
振り向きもせず、馬車の上でゾルが呟いた。
「案外、早く追いついたな……」
この男の聴覚は、愛馬の音を聞き分けられるというのか?
やがて、誰も乗っていない粕毛の馬が単騎、霧の中から現れ、幌の無くなった馬車と並走した。
灰色のマントを羽織った剣士は、手綱を離して御者台に立ち、タイミングを見計らって粕毛の馬の鞍に横っ跳びで乗り移った。
「ハイヤッ!」
ゾルの掛け声とともに、粕毛は本来の主人である灰色の剣士を乗せて速度を上げカールンへ向かう街道を走った。
誰も乗っていない二頭立ての荷馬車は、みるみる粕毛馬に引き離され、霧の向こうに消えた。
* * *
かつて帝国は、支配下にあったほとんどの町や村に城壁をめぐらせ、さらにその外側を堀で囲って、盗賊などの不法集団に対抗した。
帝国が滅亡して二十年。堀には、ある種の魔力を有した液体が定期的に垂らされ、町を〈妖魔〉から守っていた。
城壁には最低二か所、大きな町では四か所から八か所の城門があり、それと対になるように、城門前の堀には「跳ね橋」が掛けられていた。
通常、日の出とともに城門は開けられ跳ね橋が下され、日没とともに城門は閉められ跳ね橋は上げられる。
「おい……そろそろ日が暮れるぞ……」
カールンの町を取り囲む城壁に何か所か設けられた城門の一つ。
門の両側に立つ二人の衛兵のうち、右側の男が反対側に立つ男に向かって言った。
顔には僅かに焦りと恐怖の色が見える。
「ザンギム様たちは、まだ帰って来ないのか? 俺たちはどうしたら良いんだ? 夜までこうして門を開けおけ、なんて事には……」
「まさか!」
左側の男が叫んで、ブルブルと首を横に振る。
「いくら一人息子が〈妖魔〉に取り憑かれたからって、行政長官ゼレキン様も、そこまでとち狂っちゃいねぇだろうさ」
「……だと良いんだがな……で、どうする? 万が一、日暮れまでにザンギム様たちが帰って来なかったら……」
「そ、そんな事、俺に聞くな!」
再び、左側の衛兵が叫び、それから右側の男と自分自身をなだめるように言った。
「だ、大丈夫さ……手配書にあった……灰色のマントの男、だったか? その男がどれ程の剣技の持ち主だろうと、まさか、あのカールン警備兵士団格闘術顧問、人呼んで四枚刃戦斧のギード大先生に勝てるわけがない……」
「じゃ、じゃあ、なんで何時までたっても帰って来ないんだ?」
「だから、そんな事を俺に聞かれたって分かるわけねぇ、って……」
「ま、まさか……森の中で〈妖魔〉に……」
門を守る二人の衛兵は、背中を昇ってくる悪寒にゾゾッと体を震わせた。
「え、縁起でもねぇこと言うな……きょ、今日は朝から霧の濃度も薄かったじゃねぇか……だ、大丈夫だって」
しかし、ついに辺りが薄暗くなっても、ザンギム率いるカールン警備兵団の小隊は帰って来る事はなかった。
「も……もう駄目だ……限界だ!」
門の右側に立つ男が叫んだ。
「これ以上、閉門を引き延ばせば、最悪、〈妖魔〉がこの町に侵入しちまう! な、何があってそれだけは避けにゃならん!」
「そ……そうだな……もう限界だ。ジャギルス警備兵団長さまには、そのようにご報告申し上げよう」
二人の門衛は、大急ぎで跳ね橋の滑車に飛びつき、大きな金属製のハンドルをゆっくりと回し始めた。
……ガラガラガラ……
滑車の原理を利用して、大人二人だけで重い跳ね橋を持ち上げられる仕組みが、ゆっくりと鎖を巻き上げ、それに連動して徐々に橋が上方に傾き、持ち上げられていく。
跳ね橋を完全に上げ、堀の外側と内側を繋ぐ通行手段を断ったあと、門衛たちは両開きの城門を急いで閉じ、内側に大きな角木の閂を渡した。
夜……〈妖魔〉が活動する時間……直前に、カールンの町は自ら外界との接触を断ち、孤立した。