結
次の土曜日、俺はスマホを頼りに歩いていた。
“南区”の“焼き鳥屋”で、名前は“とりのもり”。
何度も表示させた検索結果で、店の情報は頭に入っている。開店は夕方五時らしいから、今は仕込みでもやっている頃だろう。
手の中で表示させていた地図に従い、角を曲がると、目的地の前にトラックが止まっていた。“精肉店”の文字が見えるということは、鶏肉でも持ってきたのだろうか。
「ありがとー」
懐かしい声が微かに届き、どくん、と心臓が鳴った。
俺に言ったわけではない。精肉店の人に向けた言葉だ。
それでも、その声が聞こえたことが嬉しかった。
トラックが走り去り、小さめの段ボール箱と、エプロンをつけたちっちゃい先輩が姿を見せる。
……なんか、いつも段ボール箱と一緒だな。
もはや、あの人と段ボールはセットなのではないだろうか。
そんなことを考えながら、ゆっくりと近づいた。
「あれ? イケメンくん。――食べに来てくれたの?」
感動の再会なんてものをこの人に望んではいなかったが、それにしても淡泊な反応にがっかりした。
「……そこ、“逢いに来てくれたの?”って訊きませんか?」
目をしばたたかせた先輩が俺の言葉を繰り返す。
「“逢いに来てくれたの?”」
棒読みかよ。
「……そうですよ」
え?
さらにがっかりしながら返した俺の耳に、その一文字が届いた。
ちっちゃいくせに態度はでかい先輩から発せられたとは思えないような気弱なか細い声に驚き、背けた視線を慌てて戻す。
俺の目の前で、先輩の顔がみるみる染まっていった。
――え? 嘘だろ!? この人、こんな可愛い反応するのか!?
戸惑っていたら、染まりきった顔の先輩が口を開いた。
「……い、イケメンくんらしくない台詞だねぇ。変なものでも食べた?」
しかもそこで強がるのか!
もう勘弁してくれと脳が悲鳴を上げる。台詞の内容自体は想像の範囲内だが、そんな顔で言われるのも、その破壊力も想定外だ。なんだこの可愛い生きもの。
顔が熱くなり、心臓が早鐘のように鳴る。
期待して、いいのだろうか。
一時間も電車に乗って、振られること覚悟でここまで来た。
俺は所詮、荷物運びの“イケメンくん”で、アドレスの交換もしなかった。久しぶりに会った第一声も「食べに来てくれたの?」だ。
それでも、こんな反応をしてくれるのなら――
「……“イケメンくん”って呼ぶのもやめてもらえませんか。俺には、司って名前があるんです」
少しだけ治まりかけていた先輩の顔が再び赤みを増した。息を呑み、泣くのを堪えるように顔を歪める。
返事は、なかった。
けれど、真っ赤に染まったその顔が、答えのようなものだ。
「……“苑乃”」
俺の声に、落とされていた視線が持ち上がる。
「――って呼んでもいいですか?」
泣くかと思った。瞳から水滴がいつ零れ落ちてもおかしくないと思った。
しかし先輩は瞳を潤ませただけでなんとか耐え、こくこくと首を上下に振る。
――まいったな……。
返事はもらったようなものだと思う。また、自分が“その言葉”を口にするのは恥ずかしく、できたら言わずに済ませたいと思ってた。
しかし――
困った。どうしても、きちんとした返事が欲しくなってしまった。
深く呼吸をし、高鳴る心臓を無理やりに抑えつける。
ゆっくりと瞳を開くと、呼吸をする前と同じ場所に先輩のつむじが見えた。
首を上下に振ってから下げられていたままの顔を、「苑乃」と呼んで上げさせる。
「好きです。つき合ってください」
絶対に自分には言えないと思っていた台詞。なんの飾りもない、想いだけを乗せた言葉。
まっすぐに見つめた瞳が、再び潤み始めた。
「――はい」
かろうじて聞きとれるくらいの小さな声。
それでも――よかった。ちゃんと、返事が聞けた。緊張で心臓が止まるかと思ったが、その甲斐はあった。
張り詰めていた糸が、ふつと切れ、全身で安堵の息を吐く。
告白というのはこんなにも緊張するものだったのか。今まで好意を告げてくれた人たちは、なんという勇気の持ち主だったのだろう。
悪いことしたなぁ――と反省しながら、苑乃に向き直る。
返事を境に気が抜けたのは苑乃も同じだったらしい。背筋を伸ばして、先ほどよりずっとはっきりした声で俺に告げた。
「よろしくお願いします」
芝居がかった礼をする先輩に「こちらこそ」と返し、顔を見合わせて二人で笑う。
少しだけ恥ずかしそうな笑顔は、最高に可愛かった。
◇―◇―◆―◇―◇
「えっと……、司くん」
「“くん”は要りません」
即座に返した俺に、苑乃が不服そうに口を尖らせる。
「人を呼び捨てにしたことなんてないんだよ。自然に呼んだら“くん”はついちゃうから、そこは諦めて」
「そういう人が俺だけ呼び捨てっていうのが嬉しいんじゃないですか」
苑乃の顔が再び赤く染まった。
「……じゃあ、頑張ってみるけど、そっちも敬語やめてよ?」
指摘され、敬語で話していたことに気づいた。いちおう先輩だからと使っていたの、そのままだ。
「……えーっと、前向きに善処します」
「善処できてないよ」
その通りなのだが、すでに癖のようなものなので、いきなり直せと言われても難しい。
「……頑張る」
なんとかそう言うと、苑乃の顔が嬉しそうに綻んだ。
「うん。二人で頑張ろう」
「――おう」
はい、と言いかけたのを呑みこんで、そう返した俺に苑乃がくすくすと笑う。
赤みは、いつの間にか消えていた。
「……そういえば、なんでし……なんだった?」
「ん? ――あぁ。仕込みも手伝ってね、って言おうと思ったの」
呼ばれた理由を訊いた俺に返ってきたのはそんな言葉で、なんとも先輩らしかった。
あの、赤くなった顔も可愛かったけどなぁ……。
そもそも逢いに来たのはこういう先輩だ。思いがけず可愛いところが見れたのは嬉しかったが、こちらの方が気分は落ち着く。
「エプロンは……予備、あったかな」
「大丈夫です。持ってきました」
うっかり敬語で返してしまったが、先輩は指摘はせず、目をしばたたかせてから頬を緩めた。
「準備がいいねぇ」
そして、鶏肉の入った段ボールを持ち上げた俺の隣に寄りそう。
「閉店までいると電車なくなるけど……泊ってく?」
なかなか大胆な発言だな、と思いながら、「苑乃さえよければ」と返した。
「布団ないよ?」
「一緒に寝ればいいでしょう」
泊ってく発言をしたくせに、なにを言っているんだろう。
「狭いよ?」
「問題ありません」
小さなその体が邪魔になるとは思えない。それに、たとえ小さくなくとも“邪魔”と思う気はない。
しかし――
「両親いるよ?」
その一言で、会話が微妙に噛み合っていなかった理由に気づいた。
「……それは……ちょっと、問題かも……」
顔を引きつらせた俺に、苑乃がくすくすと笑う。
「もしかして、両親いるって考えてなかった?」
的確な指摘にこくりと頷く。本人に会うことしか考えてなかった。我ながら阿呆すぎて泣けてくる。実家に来たんだから、両親に会う覚悟くらい決めておけ。間違っても“抱ける”なんて甘い希望を抱くな。
しかし俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、苑乃は店の中に入るなりこう叫んだ。
「お父さん、お母さん! 私、この人と結婚するから!」
心の準備くらいさせてくれ!
悲鳴を上げたくなった俺の顔に、両親の視線が突き刺さる。
冷や汗を流しながらなんとか自己紹介を終えると、カウンターの向こう側でお義父さんがゆっくりと声を紡いだ。
「そんなら……そのイケメンくんに肉の切り方から教えるか」
<了>