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6 女王の招待状3 奇妙な馭者

 せっかくの夢なのだからと気を取り直し、蒼い顔をして這う這うの体で御者席に腰を下ろした女の目の前をすごい速度で矢印だらけの木々が通過していく。


「本当にぶつからないのね」


 まるでーーーいや、まさにと言うべきか、双子の言葉を肯定するように、矢印だらけの大木も、まだ成長過程と思わしき若木も、苔生した岩ですら、みんなまるでそれが当然のように左右に避けて兎車に道を譲っては、億劫そうに元に戻ったり新しい位置に陣取ったりを繰り返している。

 鬱蒼と茂っているように見えて、暗いと思える場所が一つも見当たらない森。

 木漏れ日とは明らかに違う単一な光に照らされた森をぼんやりと眺め、息を零した。


「すごいわ」

「森が、で御座いますか? それとも双子か、あるいは領域という制度それ自体がで御座いましょうか?」


 恐怖とも放心とも感心ともつかぬ呟き。独り言のはずだったそれに応えがあって、女の目が瞬く。


「『どれも』よ。どれもすごいわ」


「解りかねますな」

「そうでしょうね」ここではこれが普通なのだろうから。


 女の顔に浮かんだ微苦笑を横目で見、今は迎えの使者から御者役に転身した男が難しい顔で唇を結ぶ。


「ねえ、あなたの女王様はどんな方?」

「私の?」


 男が胡乱気に眉をしかめた。


「ええ。だって、これからお会いする女王様は、あなたの女王様なのでしょう? だから」


 瞬間、化粧の上からでもそれと知れるほど、男の口の端が皮肉びた風に歪んだ。


「嗚呼! それは大いなる過ち。私には女王はおりませんよ」

「え? でも……」

「誤りなのです。先程も、僭越ながら、少々気に成っておりました。貴女様は『私の』と仰せになる。しかし! 貴方様は『私の』女王とは御会いに成り得ない! 何故なら、私に女王は居らず、貴女様は『ハートの』女王と接見なさる御予定が御有りでいらっしゃるから」


「どうぞ御間違え下さいませんように」


 背筋にぞくりとした怖気が這った。

 穏やかな、しかし有無を言わさぬ声と流し目とは思えぬ強い視線に、ただこくこくと頷くことしかできない。


「結構」


 それきり、沈黙が落ちる。すっかり会話を続ける気がなくなってしまって、代わりに女の胸の内に黒い雲がもやもやと広がる。


「―――だけれど、ルイス氏には―――ルイス氏には、既に王が御有りだった」


 ふいに男の声が沈黙を裂いた。

 振り仰げば、化粧で隠した能面の奥の瞳が懐かしげに細まるのが見える。


「ルイス氏って、ルイス・キャロルのことかしら?」

「御存知で?」

「有名人だもの」


 確かめるようにかけた声に、「如何にも」と満足げに男の頭が上下する。


「彼の方は、暫く御滞在の後、『彼の』王の元に御戻りに成られた。王の為、王女への手土産を求めて一時御寄りに成られただけだと仰せで―――」


 一瞬だけ、風が凪いだようだった。


「―――だから、彼は『私の』王には成って下さらなかった」


 長い手足を窮屈そうに折り曲げて無表情に五羽の兎を走らせる御者の頭の上で、風にあおられた道化帽が忙しなく鈴を鳴らす。


「成って下さらなかったのです…」


 黒だとばかり思っていた男の瞳が、朧月を映したような深い緋色をしているのに気付くほど、ひたすらにじっと見据えられて困惑と不安が綯交ぜに混じる。


 異様な緊張感。目が縫い付けられる。


 ざわりと肌が泡立つ感覚がして、

本能がそっと鳴らした警鐘は、背筋を這い上がる寒気として女に届いたが、悲しいかな自分の肩を抱こうにも体がちっとも動かない。


「貴女が―――成って下さいますか? 私は欲しい。とても欲しいのです」


 ふいに、男が問うた。ひどく陶然とした目をして。


 何にかしらと無邪気に尋ね返すのが戸惑われて、女が唇を微かに結ぶ。

 その時なぜそれに目がいったのか、どうしてそうしたのか、よく分からない。


「―――帽子が、脱げてしまうわ」


 ただ、風にあおられるままの道化帽が男の頭から脱げてしまいそうになっているのがどうしても気になって、女は不安定な御者台の上で中腰になると、男の帽子に手を伸ばした。


「これでいいわ」


 少し目深になった道化帽にすっかり満足して、女の顔に微笑が浮かぶ。


「それから、手綱はしっかり前を見て握るものよ? いくらぶつからないからと言っても、やっぱりちょっと不安だわ」


 男は、一寸間、何が起きたか分からない風に虚を突かれたような顔をして女を見つめていたが、三度男の目が瞬く頃、その瞳からは陶然とした光は影をひそめ、やがてすっかり消えてしまった。


「然様で御座いますね。失礼を」


 ゆっくり首肯を示した男の頭が、ぐるりと回って前を向く。


「ねえ、『ハートの』女王様はどんな方なの?」

「程々に慈悲深く、そして此の国の誰よりも無慈悲な御方でございます」


 前を見たままの女の前を木々が避けて、その度に幹の矢印が行先を変える。


「やっぱり死刑裁判はよく執り行われているのかしら?」


 ルイス・キャロルが書いた『不思議の国のアリス』を思い出し、女が尋ねる。


「勿論で御座いますとも」

「判決はやっぱり死刑ばかりで、罪状は即断なさることが多いのかしら?」

「然様で御座います。死刑裁判で御座いますので。裁判の判決を言い渡すまでが御公務。公務を熟せぬ女王など、女王とは誰も呼びますまい」


「そう。……そうよね」


 物語の中で『首を撥ねよ!』とヒステリックに叫ぶハートの女王と理不尽極まりないとアリスが呆れた滅茶苦茶な裁判が脳裏を過って、女は自分の首筋をそっと撫ぜた。


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