2 ちゃんとしたもてなし
「ぼくは、トゥイー・ドル・ダム!」
「ぼくは、トゥイー・ドル・ディー!」
目を開けるのと同時に、不思議の国のぼくらの家へようこそと勢いよく広げられた二対の腕に、最初のうちのっぺりした無表情だった客人がみるみる目を見開いて顔を青ざめさせる。
綺麗に切り揃えられたおかっぱの金糸の髪も一緒。くるりと大きな青い目も一緒。にこにこと笑う愛らしいその顔も一緒で、仕草も一緒。
名前以外はまるで図ったかのような見事なシンメトリーに圧倒されたのだろうか、間の抜けた音なき音を口から洩らしたっきりの客人を寝かせた、女には少し窮屈なベッドから勢いのままに引き起こし、双子はようこそようこそと無邪気に歓迎の意を告げる。
けれど、引き起こすために掴んだ手首からは筋の強張りーーーあと、どういうわけか、恐怖もーーーしか感じなくて、双子は不満げに眉を寄せた。別に珍しくはない。双子に会った住人は大抵同じ反応をするから。
だけど、ルイスはこうじゃなかった。
「なぜだろうね、兄弟。まさに曖昧模糊。つまり。なんだか納得できない」
こんな、この不思議の国にもありふれ見慣れた、困惑と恐怖の表情は。
「ぼくだってできない。もちろん当然、期待はずれというやつだからさ」
だって、こんな、この不思議の国ではありふれ見慣れた、驚きと恐怖の眼差しは。
せっかく苦労して運んだのに。
もっとも、自分ら以外の三対目の双眸に寸分たがわぬ自分たちの拗ねた表情が映っているのは不思議で珍しいのには違いない。
だけれど、期待したのは忘れ得ぬあの面白さだったのに。
風船よりもっと膨れ上がった喜びが、急激に冷えてつまらなく萎んでゆく。
「―――ああ、兄弟。きっとぼくら、ネジをおとしてきたのさ。断固、絶対そうにきまってるよ。もちろん当然、そうっと運んだけれど、少しはゆれたにちがいないもの」
「そうだね、兄弟。だけど、まさに単純明快。つまり、ネジがあるなら、やっぱりこれは『客人』じゃなくて『玩具』だということになる。ルイスとにてもにつなかい」
つまり、珍しくもなんともない。
「がっかりだね。ルイスみたいだと思ったのにさ」
二つの落胆が重なって、玩具箱をひっくり返したような極彩色の部屋に漂う。
それきり、しんと静かになった。
心なしか、部屋という部屋、家中全部がしんとして、暗くなったような気がする。
女の背筋がぞくりと震え、変な風に振り切れた脳がぐるぐると回る。
(ルイス? ……ルイス―――、キャロル?)
小首を傾げ、ふと連想したそれに一端は首を横にふったが、(あ)とひらめいて、女は内心で両の手を打ち鳴らした。
トゥイードル兄弟、不思議の国、そしてルイス。それは、誰もが一度は題名くらい耳にする、不思議の国の―――書籍ならば鏡の国の―――アリスでおなじみの登場人物、そして作者の名だ。
(不思議の国のアリスごっこが流行っているのかしら?)
もしも本名なら、両親はよほどの信奉者だ。
そして、もしもごっこ遊びでなく本名でもないのならーーーこの子供らにここは不思議の国で自分たちはその登場人物だと信じ込ませたその件の人物は、随分カリスマ性があって口のうまい詐欺師みたいな保護者がいる。
いや、狂人、あるいは世を捨てた変態かもしれない。
(この子たちのゴシックな服と喋り方は、その誰かさんの趣味かしら?)
考えただけで眩暈がするようだ。
昏倒しないのは、目の前に自分と同じかそれよりひどい境遇が推察される子供たちがいるからだ。
考えをまとめようと思索にふける間にも、本気でネジの外れた部分を探そうとでもしているのか無遠慮に伸びてくる小さな掌を、ひどく引きつる口元と共に押し返す。
「……、あのね、私はネジなんか外れてないわ。だって元からないのよ」
言いながら、自分の口が吐き出した言葉に力が抜けた。
「あなたがディーで、あなたが……ダム? かしら?」
挨拶もそこそこに指さしながら問えば、「そうだよ」と可愛らしい応えが返る。
「ここはどこかしら? 君たちはどうしてここにいるの?」
「どうして? ぼくらの家にぼくらがなけりゃ、そんなのあべこべ、おかしいよ。だって、ぼくらの家なのにさ」
「ぼくらの家にはぼくらがなけりゃ。つまり、住んでいるっていうことだよ。家ってそういうものでしょう?」
「あなた達の家?」
「そうだよ。正真正銘、ぼくらの領域にあるトゥイー・ドル兄弟の家。迷いの森にぼくらの家がないなんて、そんなのあべこべ、おかしいよ」
「もちろん当然、そうにきまってるよ! 迷いの森にはトゥイー・ドル兄弟の家があるべきだからね。つまり、迷いの森がぼくらの領域って意味でさ」
「…りょういき?」
「そうだよ! ぼくらの、えーと、なわばり?」
女を比喩でなく、本気の眩暈が襲う。頭も痛い。
「あのね、聞きたいのだけど、お父さんかお母さんか……、だれか大人の人っていないのかしら? だれが私をここに運んだのか知っている?」
止まぬ鳥肌が自身に発する警告に、けれども女は忍耐強く微笑む。
そんなものよりもずっと、自室で眠っていたはずの自分が陥った悪夢の謎を解明しなくてはという強迫的な使命感の方が強かったから。
だのに、傾いだ首をさらに傾げて肩を竦める双子は、わからない知らないとふるりと首を横に振る。
「わからないんだ。ほんとうだよ。ぼくらはいいこだもの。嘘はつかない」
嗚呼、心臓が早鐘の鼓動を打っている。
「オトウサンとかオカアサンはわからないけど、でも、お客人がこの家にいるのはぼくらにまねかれるよていだからさ。」
「まねかれる予定?」
「まさに白河夜船。つまり。よくねていたからね! それも、ぼくらの広場でさ」
こうやって運んだのだと嬉々として説明されて、眩暈がする。
「……私、広場でなんて寝てないわ」
そのはずだ。自分の部屋の自分のベットにちゃんと入った。
「もちろん当然! ぼくらが運んだんだもの。ぼくら、いい双子さ! だから、ちゃんとベットにはこんだんだよ」
「ちゃんとベットにいれなけりゃ、そんなのあべこべ、おかしいよ。だって、ぼくらはいいこだからね!」
不思議の国にようこそ!
にこにこ笑う双子に、そうじゃなくてと言ったきり、二の句が継げずに押し黙る。
すっかり振り出しに戻ってしまった。
何と言ったら通じるのか。いや、それとも、どう言っても通じないのかもしれない。
頭痛を耐えるように眉間に深く皺をよせ、頭を抱えた女の横で、奇怪そうな顔をわっと嬉しげなそれに変えた双子が歓声を上げる。
「こんなのルイスみたいに奇々怪々、わけがわからないよ! やっぱり『これ』は、正真正銘、はじめての『お客人』だ。わけがわからないもの!」
「そうだね、兄弟。ネジがないなら『これ』は、『玩具』じゃない。もちろん当然、『お客人』に決まっているよ。広場に玩具じゃないものが落ちてるだなんて、ぼくらはついてるね!」
ルイスと同じだ、ルイスみたいだ、ときゃっきゃとはしゃいだ両の手に片方ずつ握られ跳ね踊られて、目が白黒する。
いっそ、面白がられてからかわれているのだったらどんなに良いかしれないが、変だ変だと口々に喜ぶ様も、興味津々の様子にも一切演技らしさがないのが余計に得体の知れぬ恐ろしさを募らせるようで、女は青い顔を白くして息を飲んだ。
無意識、双子の握る手を振り解こうと力を込めたが、小さな体からは想像もつかぬほどしっかりと握られたその手はどちらも振り解くことはできずに、再三の待っては遠慮と天井が見えない底なしの高揚に呑みこまれる。
「やめなさい!」
それは、ほとんど絶叫だった。
女の混乱も恐怖も不信も有耶無耶に押し流してしまおうとしているかのような無邪気な傲慢さが恐ろしくて、声が神経質に引きつる。
途端、あれほどに騒がしかった空間が急にしんとして、表情を無くして立ち竦む双子の姿に、女ははっと口を押えて眉を下げた。
「ごめんなさい、怒鳴ったりして。怒ったわけじゃないのよ? でも、お願いだから少し静かにして、あなた達の面倒を見てくれてる人を呼んでちょうだい。どうしてもお話がしたいの」
慰めるように二人の名を呼び、「誰かいるでしょ?」と懇願する。
双子は一寸間何に驚いたのか目を丸めて顔を見合わせ、それからゆっくりと口を開いた。
それは、まるで、幼子に言い聞かせるようにゆっくりと。
「いないよ、いない。ぼくら以外のだれかなんて、断固、絶対ないにきまってるよ。もちろん当然、ルイスはかえってしまったからさ」
「ルイスはもうかえってしまった。だから、ここにはぼくと兄弟ふたりだけ。お客人はとくべつで、そのほかは、みんなあべこべ。だって、いらないんだ」
ぞっとする。見た目だけはとても可愛く、けれどソファに座っていてさえ身長のために自然と上目になる双眸には、底知れぬ奈落がちらついている。
「いらないって、そんな……。だけど、だれかはあなた達のお世話をしてくれているでしょう?」
だって、きっとコンロに手すら届かない。あんな小さな手では包丁だって満足に扱えないだろうし、こんなに白く細い腕では鍋だってフライパンだって重たくて持ち上げるのもやっとだろう。
箒は大きすぎるし、糊のきいたシーツなんて夢のまた夢に決まっている。
だけれど、部屋には塵一つ落ちていないし、リネンは清潔で、双子は全く健康そのものと言った様子で、肌もつやつやしているのだ。
なのに、双子は揃って首を傾いだ。
「なんだかへんだね、兄弟。ぼくら、なにかまちがったみたいだ」
「そうだね、兄弟。なにをまちがえたのかな?」
丁寧に運んだ、ベットに寝かせた、と小さな掌が指折り数えて確認するのを女はただ呆然と見ていた。
ようこそも言ったし、無理に起こしたりもしなかった。
「ああ、だけど兄弟、ぼくらウェルカム・ティーを出さなかったね! 失礼千万、もてなしに欠ける。これって、差別になっちゃうんじゃないかな?」
「差別だなんて! 兄弟はおおげさだよ。こどもはうっかりするものさ。もちろん当然、ウェルカム・ティーは今から出せばだいじょうぶ。そうにきまってるよ。こどものもてなしにおそすぎるってことはないよ、兄弟」
差し出された小さな掌にどこからともなくソーサーとティーカップが降って、いよいよ愕然と見開かれた目の前で、瞬く間に紅茶の源泉がカップの中にあるかのごとくカップの中に紅茶が湧いた。直で。
脳みそが内側から真っ白になる感覚を、女は初めて味わった。
誤解なんだ。差別したわけじゃないよ。機嫌を直して。言われた言葉が、音の侭耳の穴を右から左に抜けた。
信じられない。とても。
だって、どこにもないのだ。どう考えても、こんなにも大掛かりな種と仕掛けが作りつけられそうな空間がどこにもない。
「おかしはまだかな? 兄弟」
気をもむ片割れに、「こどものお楽しみはおくれてくるものだよ」ともう一方が笑う。
気絶しそうな意識を現実から逃避させたくて上げた目に、見つけぬものが飛び込んでぎょっとする。
自分たちをめがけて四本の足を器用に動かすそれは、確かにティーテーブルだった。
カップケーキやクッキー、タルトは勿論、ご丁寧に、シュガーポットやミルク入れまで完備したそれが、ベッドサイドに―――自主的に位置を探り、ちょこんとおさまる。
眩暈がする。だって、種も仕掛けもありそうもないのだ。
テーブルは木で、そして双子は驚きもしなければ喜びもしない。まるで、何時ものことといった調子で。
「ここは、どこなの?」
問いかけた声が、自然と震える。
「不思議の国だよ!」
ディーが皿からタルトを一つ取って、女に渡す。
そうして、その次の瞬間には、まるで植物が芽吹くようなさりげなさで、ケーキスタンドの同じ場所に寸分たがわず同じケーキが湧いたのだった。
「……すごいのね。なんだか、魔法を見ているみたいな気分よ、私」
そうして、今度こそ本当に、ひどく呆気なく女の意識は途切れた。
女の手から毀れたタルトは、床に落ちることもましてや寝かされたふわふわのベッドを汚すこともなく、空気に溶けるように霧散して、初めから何もなかったかのように消えたのだった。
きっと、夢だ。それ以外ない。