10 女王の招待状7 処刑裁判
もう間もなく裁判が再開する。
円形の法廷に設えられた円形の傍聴席は、今日も二階席までいっぱいに紳士淑女の皆々さまが埋め尽くしている。
ある者はオペラグラスを片手に、またある者は口元を派手な羽扇で隠してひそひそと語らう。
美しく着飾った貴婦人方は、頭に思い思いの飾りが付いた帽子を被り、レースの編み目も美しい手袋や、色とりどりの華やかなドレスでさながら傍聴席の花のようだ。
燕尾服姿の紳士もそれぞれの社交に興じている。
処刑裁判がはじまると言われるよりも、よほどオペラの第二幕や競馬の第二レースがはじまると言われた方がしっくりくるような雰囲気だが、彼らが見つめる先にあるのは間違いなく被告席であり、裁判員席であり、証言台だった。
無理からぬことかもしれない。
裁判長席があるべき法廷を全て見据える一番高い場所に設えられたのは厳かさなどまるでない豪奢な椅子で、艶やかな赤の生地に烏の濡れ羽色と呼ばれるのに不足ない黒いレースをあしらった退廃的なドレスを、少女らしい凹凸のない中性的な体で艶然と着こなした女王が、ひじかけに足を投げ出して悠然とかけているのだから。
法廷内には真っ赤な薔薇が咲き乱れ、黒壇の内装には黄金の装飾がなされている様は、まるで舞台装置のようだ。
議長席で槌を握るのは、ノリがよく効いたパリっとしたスーツを着こなした細身の白兎で、銀のモノクルを鼻先に押し上げて背筋を伸ばす様は年若い女王よりよほど裁判官らしいようだった。
白兎は傍の紙束にざっと目を走らせ、槌でダンダンダンと台を叩いた。
「静粛に! 静粛に!」
「次の被告人は前へ」
とても兎から出たとは思えない冷たく厳しい声を合図に、トランプの兵隊が枯れ枝のようになった罪人を被告人席へ引き立ててくる。
罪人はおどおどと進み出、肩を小さくすくめ、足をもつれさせながら所在なさげに証言台へ立った。
弁護人はいない。
陪審員もいない。
唯一の裁判官は裁判長たる女王ただひとりであるが、たたずむ罪人の暗く澱んだ目を一瞥し、綺麗に紅が引かれた唇であくびをこぼし、足をしどけなく組み替えた。
罪状を読み上げようとした白兎を制し、
「飽いた」
と、よく通る声で告げる。
傍聴席が息を呑む。
薔薇の枝のようにすらりと伸びた白い爪先の上で、行儀悪く脱げかけになった深紅のハイヒールがプカプカと退屈そうに揺れた。
「罪状など読まずとも構わぬだろう。どうせまた『罪を覚えておらぬ罪』に相違あるまい」
「またそのようなお戯れを」
白兎が眉間にしわを寄せるのを見ても、「なんだ。違うのか」「あの顔はそんな顔だと思うたが」と爪をカチカチ弾いて遊ぶのに興じているきりだ。
「どうだ、兎?」
重ねて尋ねられて、白兎は「…確かに陛下のおっしゃることに相違ございませんが」と渋い声で応じた。
「つまらぬ」
罪人のみすぼらしく落ちくぼんだ目が動揺に揺れるのを視線の端で横目に見下ろし、フンと鼻をならす。
男とも女ともつかない、骨がゴツゴツと浮き出た体が汚れた囚人服の破れ目から見えた。
瑞々しさなど忘れた枯れきった肌とあいまって土気色に頬がこけた罪人は今にも倒れそうに哀れだったが、女王はただ柳眉を歪め、「つまらぬな。興が乗らぬわ」と吐き捨てた。
傍聴席が騒然とする。
「まあ、どうしましょう」
「ごきげんを取らねば」
「クローケーはいかが?」
「それより茶会を催しては?」
「温かい紅茶を!」
相次いで取り落とされたオペラグラスが、耳障りな甲高い音をさせて割れる。
あちこちから聞こえる音に怯えた罪人は、ヒェッと引きつった悲鳴をあげて腰を抜かしかけ、黒光りする証言台の木枠に指先が白むほど強くすがりついてその身を小さくした。
またはじまったとふわふわの前足でグニグニと眉間を揉み込んで、白兎は「静粛に! 静粛に!」と木槌を叩きつけた。
苛立たしげな乾いた音と底冷えするような赤い目に睨めつけられた傍聴席が水を打ったような静けさを取り戻すと、うんざりとした様子で女王を見た。
「では判決を急がれたらよろしいでしょう。ご公務をお忘れですか?」
「常々忘れたいと思うておるところだ」
物憂げに目を細め、フンと息を吐く。
「またジャックをお召しになりますか?」
「我のパイを盗んだかどでの出廷か? 気が乗らぬな」「それはもう一万と千回ばかりも裁いたのではないか」
「恐れながら、語るべき罪を語れる罪人はそう多くはございません」「ジャックの他はないでしょう」
「では休廷ならばどうだ。構わぬはずだぞ。此度の法廷では、すでにいくらか罪人を減らしておる。牢にも多少なりと余裕ができたはずだ」「ーーー兎よ。我はこの罪人を裁かぬわけではない。ただ、今ではないと言うておるだけだ」
どうだ?
問われた白兎がため息を吐く。
何かを言おうとしたその時、「お慈悲を!」と潰れたのどから無理やりしぼったようなひしゃげた声が静寂を破った。
細く震えた嘆願が思いの外大きく響いたことに発した本人が一番おののき、ずっと道ばたの小石ほどにも気にされていなかった我が身に急にいっせいに数多の視線が突き刺さってきたことにたじろぐ。
声を上げたことを恥じ入るように体を強張らせながら、なお「どうか」といっそう身を縮めながら細く囁いた。
ふむと頷いた女王の体が椅子の上でくるりと半回転し、ヒールの先が床につく。
いかにも面白い趣向を思いついたと言わんばかりに赤い唇が弧を描いた。
正面から見られる威圧感に耐え切れず地に伏せた罪人がなお卑屈な上目で見上げてくるのを睥睨し、女王は王杓の先に飾られた薔薇を指先で弄ぶ。
「発言を許す。述べよ」
無慈悲な趣向を理解した罪人の額に玉の汗が浮かんだ。
傍聴席は固唾を呑み、白兎はやれ面倒なと息を吐いて額を揉んだ。
「まだ罪状を読み上げておらなんだな。なんなと申すが良い」
女王自らに促され、罪人ののどが大袈裟に上下する。
卑屈な眼差しは救いを求めて、傍聴席、白兎、空の弁護人席を順繰りに行き来し、最後に女王の元へ戻った。
あちらこちらから情け容赦なく注がれる忍び笑いと好奇の眼差しに追われて息があがる。
ひび割れた唇がわなないて、あだかうだかわからぬ音を立てる。
庇うものはない。弁護人席は空だ。
「パ…パイを盗みました…」
罪人はやっと言った。
「ある夏の暑い日、窓辺から、陛下のパイを、わたくしは」
あえぎあえぎ証言するそれが終わるか終わらないかのうちに、「異議あり」と白兎がそれを遮り、罪人は「あ…」と絶望に口をつぐんだ。
「被告は嘘をついている」
「あ…まちがい…間違いです」「わ、わたしの罪は…」
罪はとそれきり言葉が続かない。
わなわなと体を震わせ、青ざめる。
「もう良い」
王杓で床を一突きし、女王が言った。
「法定での偽証は、我が国の法に触れる重罪」
女王の冷たく厳かな声に、汗か涙か鼻水か、グチャグチャに濡れた罪人の顔がパッと上がる。
女王はやおら悠然と立ち上がると、王杓を白兎に預け、裁判長席を降りた。
細くしなやかな左手が右手側の手袋をするりと脱がす。
ああと感嘆に息を呑んだのは、傍聴席の観客か、それとも証言台の罪人だったかもしれない。
女王は、その肘から先、まるで夜空のような透明感さえ感じる黒に染まった腕を優雅に晒し、咲き乱れる薔薇を一輪つんだ。
先ほどまで罪人に向けられていた忍び笑いさえ静まり、耳鳴りがしそうなほどしんと静まりかえった法廷に、カツリカツリとヒールの音だけがゆっくりと響く。
罪人の眼前、法廷の真ん中で、女王の黒く輝く指先に時間を吸われた薔薇は見る間に変化し、やがて罪人の目の前に差し出された時には枯れ果て、花びらがほたほたと落ちた。
目の当たりにした被告の目が羨望に潤むのを、近くにいた傍聴席の観客は確かに見た。
「お前は、今後二度と我が法廷に立つことまかりならぬ」
冷たく言い捨てられ、「そんな!」と叫ぶ。
今日が終わらない日々の終わりになるはずだったのに…!
手ずから時間を摘んでいただこうなどと文不相応なことを考えたわけではなかった。
ただ、一思いに刈り取ってもらえればと思えばこそ、見世物にもさらし者にも甘んじたのだ。
「お慈悲を!」
心から叫んだ悲痛な調べは、しかし女王には届かない。
女王はいかにも不思議そうに首を傾げた。
「お前は我が法に反したのだ。我が法に従わぬ者にどうして我が法廷が裁きを下せようか」
「そんな…そ、そのようなことは、けして…」
「だが、事実それは起こった。お前は我が法にとっさに反したのは明白のこと。お前が従う者は我ではない。ならばその者に縋るが良い」
女王が踵を返した。
枯れた薔薇は見る間に消えて、もうどこにも見当たらない。
白兎から王杓を受け取り、いつもの椅子に座る。
女王の威厳に満ちた空気に気圧されたか、それともただ事実だけを述べられたそれに打ちひしがれたか、罪人は忘我の表情でへたり込んでいる。
「閉廷!」
白兎が台を叩いた。
トランプの兵隊に引きずられて、罪人は法廷を去った。
牢へすら、戻されなかった。




