トイレの紙様
「ねえお兄ちゃん、『トイレの紙様事件』って知ってる?」
いつも通り、妹に目薬をさしてあげた後、妹は目頭を拭きながらそんなことを聞いてきた。
「なんかね、高校で昔から噂になってるんだって、お兄ちゃんも知ってる?」
「…………まあ」
「お兄ちゃん? どうしたの?」
「古傷に塩を塗らないでくれ」
まだあの話、語り継がれてるか。
「もしかして……その噂ってお兄ちゃんに関係してるの?」
「……ああ、そうだ。あの話は俺のことなんだ」
「へ、へーえ、私どんな話なのか聞いたことないんだけど……教えてくれる?」
妹に上目遣いで懇願されたら断ることはできない。どんなに言いたくない話だって。
「そう、あれは暑さが日に日に増してきた夏のことだった……ふぉわんふぁんふぁんふぁ〜〜ん」
「あっ、回想だ」
世の人々が薄着になり、それによって世の男どもが〝見えそうで見えない。そこがいい!〟そんなくだらないロマンをあちこちでつぶやくある夏休みの前日。
そんなのどうでもいいと思わせる事件が俺、皆瀬広貴に待っていた。
始まりは最近発育のいい、中学校に上がった妹に「立派なレディになれよ」と言ってしこたま牛乳をプレゼントしたが、お年頃の女の子に牛乳のプレゼントは不評で、結局全部俺ひとりで飲み干してしまったことから始まった。
そんなやりとりがあった日の午前の高校。
「うぉぉぉ! やべぇ、四年に一度のビッグバン来てるわこれ!」
体の生理的な事がオリンピックやワールドカップのような周期でやってくる訳がない。けどまあマジでビッグ便なのだったが、そんな冷静な判断を欠いていた俺は「すいませんっ、うんPですっ」と先生に告げ、ケツ穴を締めつつ今までに出したこともない早さでトイレに向かっていた。友達の呼びかけ、笑い声なんぞ見向きもせず、周囲の視線も気にせずただひたすら走った。
トイレにつくと幸いなことに誰も居なく、ここのトイレで唯一の個室に入り、便器にケツを出して座った。
便座は夏場でもひんやりしていて少し気持ち悪かった。
「うぐぅぅ……あぁ〜」
渾身の力を振り絞り、やたらと気持ち悪い達成感を感じ、大きいため息吐きながらペーパーホルダーに手をかけようとしたとき、俺はとんでもないものを見てしまった。
「Toilet paperがなひいいいいい!」
いきなり流暢な英語? が出てきたり、そもそも日本語がおかしかったりしてることは置いといて……
おいおいおい、ちょっとまてよ!
は⁉︎ なんで? なんでないの? ここにあるはずの、というかなければならないはずのペーパーがねぇんだよ! え? 何? それともあれですか? 俺はいじめにあってるんですか。神様のいじわるっ……ってか掃除当番誰だよ! ここに無きゃいけないトイレットペーパーぐらい補充しとけやゴルァ! ……マジで。
……てか……おい……どうすんの、俺……
考えろ考えろ考えろ! この状況を打破出来る方法を最善策を! 俺の中の知識を総動員させろ!
一 助けを呼ぶ
この状況を説明
笑われるorからかわれる
おもしろがってみんなに報告
残りの俺の学校生活……BAD END
冗談じゃねーよ! んな真似出来っかよ!
二 拭かない。何事もなかったように振舞う
「なぁ、なんか臭くね?そう言えばさっき広貴やたらダッシュしてなかった? もしかして、……まさか、漏らした?」
スーパーコンピュータ並の速さで広まる噂
残りの俺の学校生活……BAD END
って、結局結末一緒じゃねーかよ! けつだけにな!
三 昔聞いたことのある禁断の方法
〝手で取る!〟
トイレの個室から出たところでバッタリ☆ 俺の手には……
スーパーコンピュータ並の……以下略。
あれ?もしかして……もうBAD ENDしかない……だと……⁉︎ もしかして詰んだ? 詰んだ♪詰んだ♪
おい誰だよ? トイレにはそれはそれは美しい神がいるって言った奴は? いねーよ、つーかないんだよ紙が!
オーケーオーケーわかったぞ。つまり『紙は死んだ』ってことだろ? さすがニーチェ先生、わかってるわ。
とりあえず今はこのトイレに誰もいない。そしてもしかしたらトイレ内のどっかにトイレットペーパーがあるかもしれない。……よし、下半身フルパージでも大丈夫だろ。
よし、出るぞ。もう出るぞ。大丈夫だみつからない。そう自分に言い聞かせてロックを解除し、個室から出てトイレペーパーを探している時だった。
「きゃっ!」
妙にソプラノの声がトイレ内に木霊した。まさかと思い、入り口を見るとそこには、両手で扉を押さえて青ざめている女生徒の姿が…………なんぞ? いや、なんで女の子が?
思考が追いつかず、頭の上に疑問符を浮かべていたところ女の子はおもむろに口を開く。
「なめくじ……」
はっ、と我に返り前を手で隠す。……この女、俺のどこを見てなめくじっていった?
すると女の子はおもむろにスマホを取り出しパシャりと音をたてる。
「ごめんなさい、女子トイレと間違いました……」
スーと後ろに下がり扉を閉めようとする女の子。
「ちょっと待って!」
ビックっとして女の子の動きが止まる。
「な……なんですか?」
「拡散希望はしないでくださいっ」
切実な願いだった。昨今の日本人は何でもかんでもおもしろがりやがって……写真撮ってる暇あったら助けろよと思わずにはいられない。
「まずは話を聞いてくれ。これには事情があってだな……決してバカッターとかではなく……」
おかしいな……古今東西女の子のお風呂覗いちゃったり、着替え途中の部屋に入るというお約束のネタなのに、何で男女逆になっても男のほうがあやまってるのだろう。マジ女尊男卑。
「はあ、わかりました。拡散希望はやめます、ネットにもあげません」
なんだ、ただの女神か。
「じゃあ、私失礼します」
「待ってくださいっ!」
俺にはやらなきゃいけないことがあるっ、どうか俺のトイレの神様に……
「トイレットペーパーを持ってきてくれませんか?」
「えっ?」
「えっ?」
なんだろう、この距離感……まあ下半身フルパージだからなんだけどさ。
とりあえず恥を捨て、その場で土下座する。
「もしかしてズボン履いてないのって……」
「おしりがマックロクロスケだからであります」
「帰ります」
女の子が無表情でまたしても出て行こうとする。
慌てて女の子を追いかけようとしたとき、俺はあることに気がついた。というか気付いてしまった。
「ここにペーパー……あったやん……」
その間に女の子は大スクープを掴んた新聞記者のように廊下へと走っていった。
女の子にはその後、あの件についてはトイレのごとく水に流そうと言ったのだが、彼女は約束を破り、噂は学校中に広まった。俺はウォシュレットの水を浴びたような、冷水を浴びたような気分だった。ネットに上がってないだけマシだったけど。
それ以来俺は、「やーいお前のケツ、マックロクロスケ〜』と言われからかわれ続けるのだった。
これが後世に語り継がれる『トイレの紙様事件』である。
「というくだらない話だよ」
少し懐かしい感情に浸りながら話おわると急に苛立ちがこみ上げる。
あの女だけは絶対に許さない。
「……真梨?」
妹が妙に静かなのに気づき、声をかけると顔を真っ赤にして両手で顔を隠していた。
「どうかしたか、具合悪くなった?」
汚い話でごめんねー。
すると妹はボソッと言葉をもらした。
「……なめくじ……」
そこっ⁉︎ やめてやめて恥ずかしいから!
妹は発育こそ良かったが、随分とませた女の子に育ってしまった。
お尻がマックロクロスケは一生妹を養う決意を強固にした。
お読みくださりありがとうございました






