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溺愛されてしまいました。後戻りはできないようです。

作者: 五十鈴 美優
掲載日:2026/05/21

 胸元で揺れる細いチェーンに手が伸びたのは、たぶん無意識だった。


「リリテア、お客様がいらっしゃる前に上着を」


 廊下を急ぎながら養母が声をかけてくる。私はネックレスに通した指輪を服の下に押し込み、手渡された上着に袖を通した。


 私はリリテア・ポーター。三歳の時に迷子になっていた所を、生物学者で名誉男爵のカルセリウス・ポーターに拾われ、養女になった。


 実の両親の記憶は朧げで、唯一の手がかりは、拾われた時に背負っていた鞄の底にあった、この指輪だけだ。

 顔すら朧げだが、母がよく身につけていたことだけは覚えている。


 私は上着を整え、玄関へと向かう。


「ありがとう、お母様。どのようなお客様なの?」

「軍のお方よ。お父様の研究についてご相談があるとかで」


 軍。その一言で、私は来客の素性を察した。


 十年前に終結したリュディール大戦以来、ヴェルザード王国の軍部は農業や物資の研究に多くの予算を割いている。生物学者である養父のカルセリウスのもとへ、軍の人間が訪れることはそれほど珍しくなかった。


 だが、玄関の扉を開けた瞬間、私の予想はあっさりと外れた。


 来客は一人だった。

 従者が数名、門の外で控えているのが見える。しかし扉の前に立つその人物は、護衛も侍らせず、ただひとりで立っていた。


 長身に、落ち着いた軍服。深い色の瞳が、こちらを静かに見下ろしている。年齢は二十代後半くらいだろうか。整った顔立ちは、絵画を思わせるほど完成されていた。


 その人物が誰であるか、私はすぐにわかった。


 ヴェルザード王国の公爵、ルヴィアス・アスキー。先の大戦を大勝利に導いた先代大将軍の後継者として、現在は自らが大将軍の地位に就く人物だ。

 高等学園の歴史の授業でも名前の出る、この国の英雄のひとりだ。


「君は、ポーター男爵の養女か」


 はじめに発された言葉がそれで、私は内心少し驚いた。挨拶でも自己紹介でもなく、確認から入るのか、と。


「はい。リリテア・ポーターと申します。公爵閣下のお越しを歓迎いたします」

「……物怖じしないのだな」

「失礼がないよう努めておりますが、もし至らない点があればお許しください」


 公爵の表情は動かなかった。ただ、何かを測るように私を見る視線が、一瞬だけ変わった気がした。


「男爵はいるか」

「応接室でお待ちしております。ご案内いたします」


 私が案内した応接室で、養父とルヴィアス公爵の話し合いが始まった。主に、軍が使う馬の飼育環境と体力の関係について、養父の研究成果を聞きたいということだった。


 養父はもともと外向きの話が得意ではない。資料を取り出す手が小刻みに震えているのを見て、私は静かに傍らに腰かけた。


「こちらの資料が、直近五年間の数値をまとめたものです。気候ごとの差については、この表をご覧いただくとわかりやすいかと存じます」


 養父の代わりに資料を整理して差し出すと、公爵は受け取りながらこちらを見た。


「よく把握しているな」

「養父の研究は長年手伝っておりますので」

「君は学生では? しかも主席だとか。研究にも興味があるのか」

「はい。幼い頃から見ておりますので」


 公爵は短く、「なるほど」とだけ言った。感情のわからない返答だったが、馬鹿にされた感じはしなかった。


 話し合いは一時間ほどで区切りがついた。帰り際、玄関で公爵が振り返った。


「次回また伺う。男爵に伝えてほしい」

「承知いたしました」


 私が答えると、公爵は一度だけこちらを見て、それから外へ出ていった。


 その夜。胸元のネックレスを指先でたどりながら、私はぼんやりと今日の会話を思い出した。なぜそうしたのか、自分でもうまく説明できない。ただ、あの深い色の瞳が、少しだけ頭に残っていた。


 ◇


「また公爵様がいらっしゃいましたよ」


 学園から帰宅すると、玄関で養母が少し楽しそうな顔で言った。「また」という言葉が引っかかる。思えば、最初の訪問から半月ほどの間に、ルヴィアス公爵はもう三度もポーター邸を訪れていた。


「研究の確認とのことで、今日もお父様とお話しになっています。リリテア、お茶を持って行ってあげて」


 お盆を受け取り、応接室へ向かう途中で気がついた。いつの間にか、足取りが少し弾んでいる。私は立ち止まって、廊下の窓から外を一度見た。


(……別に、公爵が来たから急いでいるわけじゃないから)


 そう自分に言い聞かせながら、応接室の扉をノックした。


「失礼いたします」

「おお、リリテア。ちょうど良かった」


 養父が顔を上げる。公爵はソファーに座り資料を手にしていたが、私が入るとその目がこちらへ向いた。


「今日も来てくれたか」

「……お茶をお持ちしました」


 テーブルに茶器を並べていると、公爵が紙の包みを差し出してきた。


「君の好きな菓子屋のものだと聞いた」

「え」


 私は包みを見た。王都で評判の洋菓子店の包装紙だった。学園の友人と一度食べに行ったことがある店で、確かに好きだと思った。だがそれを、なぜ公爵が知っているのか。


「……ありがとうございます。でも、どちらでお知りになったのですか」

「男爵に聞いた」


 隣で養父がわずかに目を逸らしていた。養父も養父だ、と思いながら、私は「ありがとうございます」とだけ言って包みを受け取った。


 それから数回の訪問を経て、いつの間にか庭園でお茶を飲む時間が習慣のようになっていた。養父が一緒にいることもあれば、私が庭に出ると公爵が既にそこにいて、自然と話が始まることもあった。


 話す内容は、不思議なほど多岐にわたった。学問のこと、国の食料事情のこと、王都と郊外の暮らしの違い。公爵は口数の多い人間ではなかったが、こちらの言葉をきちんと聞いて、的確に返す人だった。


「公爵閣下は、学問はお好きですか」


 ある日私が問うと、公爵は少し考えてから答えた。


「好きかどうかより、必要だから学んできた。だが……お前と話していると、必要でないことにも価値があるとわかってくる」


 それがどういう意味なのか問い返す間もなく、公爵は庭の花に視線を移した。表情は変わらないが、その横顔に冷たさはなかった。


 冷徹と噂される大将軍が、庭の木漏れ日の中でこんな顔をしている。学園の友人たちが聞いたら信じないだろうと思いながら、私は自分の胸がじんわりと温かくなっているのに気がついた。


 自覚したのは、その日の帰り際だった。


「来週も来てよいか」


 問われた瞬間、「はい」と答えた自分の声が、思ったより明るかった。


 公爵が去った後、胸元に触れると、チェーンが服の上からでもわかるほどしっかりと感触があった。いつもより心臓の音がうるさい気がして、私はしばらくその場に立ったまま、夕暮れの空を見上げていた。


 次の訪問の日、庭でお茶を飲んでいると、公爵の視線がふと私の首のあたりで止まった。


「そのネックレスは、いつも着けているな」

「ええ」


 私は自然に胸元に手を当てた。服の下に隠れているから、指輪は見えない。チェーンだけが外に出ている。


「大切なものか」


 少し間があった。こういう話をすることは、あまりない。親しい友人には話してあるが、それ以外の人間に語ったことはほとんどなかった。


 でも、なぜか隠す必要を感じなかった。


「はい。顔もほとんど覚えていない実の両親の、唯一の形見です。服の下に、指輪を通してあります」


 公爵は何も言わず、静かな目でこちらを見ていた。


「ずっと持っていたのか」

「はい」


 短い沈黙の後、公爵は視線を庭の向こうへ向けた。その横顔に、何か言葉を呑み込んだような気配があった。

 私は何も訊かなかった。訊かなくても、伝わるものがある気がした。


 それからの日々は、穏やかで、そして少しずつ甘くなっていった。公爵は来るたびに何かを持ってきた。珍しい植物学の古書、外国の焼き菓子、王都では手に入らないような香り高い茶葉。

 どれも私が喜ぶものばかりで、それが意図的であることは明らかだった。


「公爵閣下はお忙しいでしょうに、よく足を運んでくださいますね」


 ある日、なんとはなしに私が言うと、公爵は短く答えた。


「忙しいから来る」

「……それはどういう意味ですか」

「ここに来ると、余計なことを考えなくて済む」


 その答えに、私は何も返せなかった。


 その夜。布団の中で、私はずっとその言葉を繰り返していた。もう、認めないわけにはいかなかった。

 私はルヴィアス・アスキー公爵に、恋をしている。



 初夏の陽光が庭に降り注ぐ、穏やかな昼下がり。

 高等学園の卒業まで、あと半年を切っていた。学年主席の私は、国の機関や物流商会から声が掛かっていたが全て断り、養父の研究補助をすると決めていた。


 養父は今日、そのことで王都の学術院に呼ばれて出かけていた。養母も病床の知人の見舞いで午後は留守にしている。


 公爵が訪ねてくることは知っていたが、まさか今日に限って養父母が両方いないとは思っていなかった。


「男爵に連絡が入っているのか」


 玄関で事情を話すと、公爵は眉をわずかに上げた。


「はい、今日は二人とも外出しておりまして……出直していただくか、よろしければご用件があれば私が伺っておきますが」

「いや、せっかく来た。お前と話したい」


 私は一度瞬いた。


「……私と、ですか」

「庭に出てもいいか」


 断る理由もなく、私は公爵を庭へ案内した。いつもの石造りのテーブルに向かい合って腰かけるが、公爵はテーブルには着かずに立ったまま、庭の向こうを見ていた。


 しばらく沈黙が続いた。風が木の葉を揺らして、小鳥の声がどこかから聞こえてくる。


「リリテア」

「はい」

「俺は、遠回しな言い方が得意ではない」

「……存じております」


 公爵が振り返った。その目が、今まで見たどの表情とも違った。まっすぐで、深く、そして揺らぎがない。


「お前に会いに来るたびに、帰りたくないと思った」

「……」

「お前の聡明さに惹かれた。そして、その愛らしさに溺れた」


 溺れた、という言葉が胸に落ちた瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 公爵は私の前に一歩踏み出し、視線をまっすぐに向けたまま、そっと手を取った。大きな手だった。武人の手だ。でも今はひどく丁寧に、指先を包むようにして握っている。


「身分違いだなどと誰にも言わせるつもりはない。お前が嫌でなければ、俺の妻になってほしい」


 部屋の中の音が、全部消えた気がした。

 鳥の声も、風の音も、何も聞こえなくなって、ただ目の前の人の声だけが鮮明に残っている。深い色の瞳が、真剣にこちらを見つめている。


 返事を急かすような素振りは一切なく、ただ静かにこちらを待っていた。


 ずっと、この人のそばにいたいと思っていた。庭でお茶を飲むたびに、この時間が終わってほしくないと思っていた。好きだと、胸の中でなんども認めながら、口には出せないでいた。


「……私は、名誉男爵の養女に過ぎません」


 声が少し震えた。


「それがどうした」

「公爵閣下のそばに立つには、あまりにも」

「リリテア」


 公爵が私の名前を呼んだ。それだけで、声が止まった。


「俺が選んだ。それ以外に何がいる」


 その言葉は、潔いほど単純で、だからこそ揺るぎがなかった。言い訳も、説明も、何もない。ただ、自分が選んだと言い切るその声は、私の迷いの全部をひとつずつ片付けていった。


 目の前が少し滲んだ。


「……私も、公爵閣下のことが」


 最後まで言えなかった。

 言葉が続く前に、腕がそっと引かれて、気がつくと胸に抱き込まれていた。強い腕だった。大将軍とは思えないほど、壊れ物を扱うように丁寧で、それなのに離さないという意志がはっきりと伝わってきた。


「愛しているよ。リリテア」


 耳元に落ちた声は低く静かで、私は胸元に顔を埋めたまま、小さく頷いた。頬が燃えるように熱かった。



 公爵邸は、私が想像していたよりずっと大きかった。

 王都の一角に建つ石造りの邸宅は、高い鉄柵に囲まれ、門を入ってから玄関まで馬車でしばらく走るほどの広さがある。


 養父が「立派なものだ」と窓から身を乗り出し、養母が「あなた、はしたないですよ」とたしなめる声を聞きながら、私はずっと胸元のネックレスを指先でなぞっていた。


 あれから三週間が経っていた。「正式な形でご挨拶させていただきたい」という公爵からの書状に、養父も養母も顔を見合わせ、それから二人そろって私を見た。


「リリテア、公爵様に何をしたんだ」

「何もしていません、お父様」

「でも、嬉しそうね」


 そう言った養母は正しかった。私はきっとその時、隠しようもなく顔に出ていたと思う。


 玄関で出迎えたルヴィアスは、今日は軍服ではなく、落ち着いた色合いの礼装をしていた。

 いつも通り表情に大きな変化はないが、こちらへ向ける視線だけは穏やかで、それを私だけが知っていることに、胸の奥がじわりとした。


「よくいらしてくださいました。ポーター男爵、メリアーヌ夫人」

「これはこれは。立派なお屋敷で」


 養父がまた感嘆の声を上げ、ルヴィアスは小さく口角を上げた。あの公爵が微笑んでいる、と私は内心驚いたが、よく考えれば最近はこういう顔をよく見ている。


 邸内へ通され、応接の間に案内された。食卓に並んだ料理の品数に養父母が目を丸くする。給仕の者たちがきびきびと動き、まるで晩餐会のような雰囲気だった。


 食事と歓談の時間が続き、やがてルヴィアスが立ち上がった。その動作がいつもより少しだけゆっくりで、私は何かを予感して背筋を伸ばした。


「ポーター男爵、メリアーヌ夫人。今日こちらにお越しいただいたのは、リリテアのことについて正式にお話ししたかったからです」


 養父母の顔が引き締まる。ルヴィアスは二人と向き合ったまま、まっすぐな声で言った。


「リリテアを、私の妻として迎えたいと思っています。どうかお許しいただけますか」


 沈黙は、一瞬だった。


「……公爵閣下が、本気でおっしゃっているのでしたら」


 養父がゆっくりと口を開いた。


「リリテアが望むなら、私たちに否と言う理由はございません」

「カルセリウス」


 メリアーヌが静かな声で夫の名を呼び、それから私を見た。目が少し潤んでいた。


「リリテア、あなたはどうしたいの」


 私はルヴィアスと目が合った。


「私は……」


 少しだけ、声が震えた。


「この方と、一緒にいたいと思っています」


 養母が口元に手を当てた。養父は何か言いかけて止め、ただ深く頷いた。


 ルヴィアスがこちらへ向き直った。懐から、小さな箱を取り出し膝をついた。私は思わず息を呑んだ。


「リリテア」

「……はい」

「この地位をかけて、君の過去ごと全てを愛し、守り抜くと誓う」


 箱が開くと、繊細な細工が施された指輪が現れた。中央の石が灯りを受けて静かに輝いている。シンプルだが品があり、見た瞬間にこれ以上のものはないと思った。


「俺の妻になってくれ」


 声が出なかった。


 過去ごと、という言葉が胸に刺さった。廃村になった故郷のこと、あまり覚えていない両親のこと、幼い頃から一人で胸に抱えてきた空白のこと。

 全部を知っているわけではないのに、それでもその全部を受け取ると、この人は言っている。


 目が熱くなった。泣くつもりはなかったのに。


「……はい」


 声はかすれたが、しっかりと答えた。

 ルヴィアスが指輪を手に取り、私の左手の薬指にそっとはめた。温かい指先が、私の手に触れている。


 静かな部屋に、養母の小さな泣き声が聞こえた。


 指輪が収まるのを確かめてから、ルヴィアスは私の手の甲に視線を落とした。そのまま、ゆっくりと唇を寄せる。


 手の甲への口づけは、羽のように軽くて、でも確かな温もりがあった。

 顔が上がり、深い色の瞳が柔らかく私を見ている。初めて会った日には想像もできなかった表情だ。


 私は今、世界一幸せだと思った。


 指先の指輪が、灯りを受けてまた静かに光った。胸元のネックレスを通った形見の指輪と、新しく左手に収まった婚約の指輪。


 ふたつを持つ私の人生が、これから始まる。



 夕食後に通された、公爵邸の客間は美しかった。

 天蓋つきのベッド、薄絹のカーテン、磨き抜かれた窓枠から見える夜の庭園。燭台の炎がゆらゆらと揺れるたびに、室内の影が柔らかく揺れて、部屋そのものが静かに呼吸しているようだった。


 養父母は隣の客間に案内されていて、今ごろ豪華な調度品に圧倒されているだろう。


 私はひとりで、ベッドの端に腰かけていた。


 左手の薬指に視線が落ちる。婚約指輪が燭台の灯りを受けて静かに輝いていた。ほとんど無意識に胸元のネックレスに指をかけ、服の下に隠していた指輪を引き出した。


 幼い頃からずっと、この感触だけを手がかりに生きてきた、母の形見。実の両親は今どうしているのだろう。


 掌の上にふたつの指輪を並べた瞬間、息が止まった。


(細工が、似ている……?)


 単純な意匠の類似ではなかった。

 細い金属の線が幾重にも組み合わさり、花とも葉ともつかない複雑な紋様を形成している。線の走り方と交差する角度まで、ルヴィアスが選んだ婚約指輪の側面と、母の形見の側面はよく似ていた。


 実の両親を知る手がかりかもしれない。


 居ても立っても居られず廊下へ出ると、控えていたメイドがすぐに向き直った。掌のふたつの指輪を彼女に差し出す。


「あの、この細工様式って何か分かりますか? どこの店とか、職人だとか」


 メイドはしばらく指輪を眺めてから「リュディールの伝統的な細工技法です」と静かに答えた。


「今はもう作られませんから……婚約指輪の方は、綺麗にリメイクしたもののようですね」

「…………そうですか。ありがとう、ございます」


 扉を閉めて、窓に背をつけ、ゆっくりと目を閉じた。


 奥深くに封じ込めていたはずの記憶が、堰を切ったように流れ込んでくるのを感じた。



 私が三歳くらいだから、大戦の末期。ヴェルザードの軍が国境を越えて勝利を重ねていた。その当時、リュディールの血を引く者は「適性民族」と呼ばれ、匿うことは重罪とされていた。それは夫婦や親子であっても同じことだった。


 そう、歴史の教科書には書いてあった。


 扉を叩く音が聞こえたのは、夜の深い時間だった。父が血相を変えて私をクローゼットに押し込んだ。


「音を立てないで。何があっても出てきてはいけないよ」


 そう耳元で囁く声が震えていて、その震えが私にも恐怖として伝染した。扉が閉まり、木の匂いの中で、私は膝を抱えて暗闇に座っていた。


 それからすぐ、慌ただしい足音と怒鳴り声が響いた。板の隙間から見えたのは、父の革靴と、知らない男たちの足だった。


「フェリオン・ラドゥー。貴様、リュディール人を匿っているだろう!」


 男の声には怒りと、正義を行使している者の無感動な確信があった。


「妻をリュディールに送ったと見せかけていたようだが、ここにいるのは分かっている! 連れてこい」

「彼女は何も関係ありません、妻はこの国で生まれ育った。ヴェルザードの民として……」


 父の声が途切れた。どさりという鈍い音がして、それから父が咳き込む音がした。

 殴られたのか、あるいは突き飛ばされたのか、幼い私にはわからなかったが、父の足がよろめいて壁際へ後退したのが板の隙間から見えた。


「エミリア・ラドゥー、またの名をエミリア・フィラン。リュディール南部の出身、現在二十八歳。お前のことは全てわかっている」


 母の名前が呼ばれた。聞き慣れた声が、それに答えた。


「行きましょう。大丈夫よ、あなた」


 静かな声だった。震えていなかった。


「エミリア、エミリア……!」


 父が縋るような声を上げた。


「放せ、妻を放してくれ、頼む、頼む、どうか見なかったことに……!」


 続く声は、やがて嗚咽に溶けていった。男たちの靴音はただ、整然と玄関へ向かっていた。


「リュディール人のくせに、生意気な。フェリオン、お前にもじきに処分が下る。逃げることは許されない」


 男がそう吐き捨て、扉が閉まった。


 父が床に膝をついているのが見えた。肩が激しく動いていた。


 どのくらいの時間が経ったのか、父がクローゼットを開けた。目が赤く腫れていたが、顔つきは別の人間のように固まっていた。そして私の鞄に手当たり次第に荷物を詰め込んだ。


「裏口から出て、裏通りを西に行く馬車に乗り込みなさい。西に向かう馬車はみな隣街へ行くから」


 小さな鞄を私の肩にかけてくれながら、その手が私の頬に触れた。


「お父さんは?」

「大丈夫。すぐ追いかける」


 その返事が嘘だと、わかっていた。それでも私は裏口から走った。父が「行け」と言うから走った。振り返らなかった。振り返れば動けなくなるとわかっていたから。


 気がついたら、私は知らない街の路地に立っていた。そこで、養父母と出会った。



 目を開けた。


 窓の外の庭園は、変わらず整然としていた。整えられた生垣、噴水、等間隔に並ぶ街灯が夜の闇に浮かび上がっている。何一つ乱れていない、美しい庭園だった。


 私は指輪を握りしめて、部屋を出た。


 ルヴィアスの私室の前まで来ると、扉の向こうに灯りがあった。ノックすると、すぐに「入れ」と声が返ってきた。


「リリテア? 眠れなかったか」


 机に書類を広げていたルヴィアスが立ち上がるのを待たず、掌の指輪を差し出した。


「この指輪について聞かせてください」

「婚約指輪か? 気に入らなかったなら別のものを……」

「どこから手に入れたものですか」


 ルヴィアスは少し間を置いてから、「リュディールの奴隷が持っていたものだ」と答えた。


「細工が珍しかったから、こちらの職人に頼んで磨いてもらった。お前のために選んだものだ」

「……奪った、と?」

「彼らは奴隷だ。指輪など必要ない」


 背中を冷や汗が伝った。


「私の……私の実の母も、リュディールの出身でした」


 沈黙が室内に落ちた。

 ルヴィアスが私を見た。驚いた顔だった。それからすぐに立ち上がり、私のそばへ歩み寄り腕を伸ばしてきた。


「そうか。だが、関係のないことだ」


 抱きしめられた。いつもと同じ温もりで、いつもと同じ匂いで。だからこそ今は、その腕の中にいることに耐えられなかった。


「リュディールの血は卑しい。だが、君だけは違う。君は特別だ。愛していることに変わりはない」

「……違う。そうじゃなくて」


 反射的に腕を押すと、ルヴィアスは抵抗せずに離れた。不思議そうな顔をしていた。


「母は。両親は、今どこに」


 ルヴィアスは答えなかった。答えないことが、答えだった。

 「リリテア」と彼は静かに私を呼んだ。


「君が使ってきた教本も、口にしてきた食事も、着ていた服も、全部あの者たちが作ったものだ。これまでの君への贈り物も。だが優れた人間と、そうでない人間の生活が異なるのは、当たり前だ」


 私は一歩下がった。だが、ルヴィアスは不快に思った様子もなく笑いかける。


「賢明な君なら分かるだろう? 君くらいの年のリュディール人は、働き盛りだ。奴らは劣った種族ゆえ、君のようには生きられない。だから私たちの管理下で土や炭を被ることが最善で、最も生産的だと。今さら、何を怖がっている?」


 ルヴィアスは何も責めていない。彼は脅しでも説教でもなく、目の前にある当然の事実を説明しているだけだ。


 高等学園で本を読めたのは。三食を食べられたのは。養父の研究室で学問に触れられたのは。この国が大戦に勝ち、活気に満ちていたのは。


 全てリュディールの同胞が、母と同じ場所に生まれた人々が流した血と涙の上に、この国の豊かさは建っていた。


 学園で才女と呼ばれることを、誇りに思っていた。しかしその知性を育てた土台が何でできていたか、一度も問わなかった。問う必要がなかった。


 この国の恩恵を当たり前に受け取って暮らしてきた私に、今さらこの人を責める資格があるとは、思えなかった。


 膝から力が抜けた。

 だが床に崩れ落ちる前に、ルヴィアスの腕が私を支えた。涙が出ていた。何に泣いているのか、自分でも整理できなかった。


「リリテア」


 ルヴィアスの声は、変わらず柔らかかった。


 昔、母が読んでくれたおとぎ話のお姫様のように、丁寧に抱き上げられた。ベッドへ運ばれる間、私は彼の胸に顔を埋めたまま、何も言えなかった。


 シーツの上に横たえられて、ルヴィアスが顔を覗き込んだ。その目は本当に心配そうで、そこに本物の愛情があることは疑いようがない。


「大丈夫だ。君の過去は、この地位をかけて俺がすべて隠す。誰にも知られない。君はここで、俺の愛だけを食べて生きていけばいい」


 温かい手が、私の髪を撫でた。


 窓の外の庭園は、夜の中でも整然としていた。

 私はその美しさを見つめながら理解した。この扉を出ることは、できる。でも、どこへも行けない。


 学園の友人の元へ戻っても、養父母の家に帰っても、この国のどこへ行っても、私は今夜知ってしまったことを知ったままで生きていくことになる。


 そして知っていることで、何かを変えられるわけでもない。この国の構造は私ひとりが叫んでも揺らがない。それを動かすほどの言葉を、私は持っていない。


 何より、彼は私を愛している。その愛が本物であることが、一番、逃げ場をなくしている。


 ルヴィアスの手が髪を撫で続けている。


 左手の薬指には、リュディールの誰かが作った指輪が、静かに光っていた。










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