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小説

指輪の箱を閉じたあと

作者: ちりあくた
掲載日:2026/01/29

 日付は確かに覚えています。

 十一月二十八日の夜、ちょっと高級なホテルの上階にある、フランス料理店にて。


 あなたが結婚を申し込んできたのでしたね。


 あのとき……私の中には「保留」という選択肢が真っ先に浮かびました。それは決して、差し出された指輪に対して嫌悪感を覚えた訳ではありませんでした。私の常套手段だったのです。物心ついてから、小学校の自由研究テーマを考えるときも、中学で入るべき部活を選ぶときも、高校で文系・理系、あるいは志望校を決めるときも。


 ですから、私にとって「保留」は「呼吸」と同じでした。あなたも私と交際していて、その習性は良くご存じだと思っていました。今考えれば、私への理解を前提として求めるのは、あまりの不遜、またはあなたを軽んじる行為だったでしょうか? しかし、まあ、当時の私は大学三年生でしたから、学生の身分で結婚などとしていいものか、という理由は用意できます。……前述の通り、これはあくまで建前にしかなりませんが。


 私は息を吐くように、「ちょっと考えさせてください」と返しました。「しまった」と思ったのは返した後です。あなたは一瞬、虚をつかれた表情を浮かべた後に、指輪の箱をそっと閉じ、いつも通りの困ったような笑みを向けてきたのでした。


 そうして、ディナーはいつものように進んでいきました。日常というフィルムの中に、一フレームだけ、非日常的なノイズが入ったに過ぎません。映画はそのまま続いていくかのように思われました。私はもちろん、そう信じていましたよ。今までにも、選択を避けた瞬間は幾度とあれど、決定的に何かが変わることはありませんでしたから。人生というものは、意外と逃げ道があったのです。


 しかし……私たちには最悪の道だったようです。

 その言い方は他人事すぎるでしょうか。


 私は口では「保留」と言いながらも、それに必要な「熟考」の過程を、半ば放棄していました。立ち止まったのではなく、逃げ出したのです。いつもそう、という訳ではありませんでした。そうでなければ、私は高校にも大学にも入れていなかったでしょう。結局、最後は「決断」という過程を拒絶する気にはなれなかったのです。


 それでも、今回ばかりは違うように思えました。


 結婚。

 それが意味することは、当時の私にはよく分かってませんでした。中学、高校、大学と、敷かれた人生のレールを歩いているだけで良かったのに、いきなり自由な世界に投げ出されて、自分の意志でレールを築け、と迫られた気がしたのです。私は単語の重さではなく、「自分で決めてしまうこと」の不可逆性に、ひどく怯えていました。


 だから私は、決めなかった。

 いいえ、もっと正確に言えば、決めないという選択を、無意識に選び続けたのです。


 あなたは急かしませんでしたね。

 それが、あなたの優しさだったのか、あるいは諦めの兆候だったのか、当時の私は区別がつきませんでした。指輪の話題は出なくなり、私たちは以前と同じように会い、食事をし、笑い、眠りました。私はそれを「猶予」だと思い込み、あなたの沈黙を「理解」だと都合よく翻訳していた。


 考えれば考えるほど、私は考えることをやめていきました。結婚後の生活を想像しようとすると、頭の中が霧がかかったように曖昧になり、「まだ早い」、「今じゃない」、「そのうち自然に答えは出る」という、便利な言葉だけが浮かび上がってくる。私はその言葉たちに、浮き輪のようにしがみついていました。


 そして、気づかなかったのです。

 あなたが、少しずつ、しかし確実に、こちらを見るのをやめていったことに。


 目が合わなくなったのは、いつからだったでしょう。

 私の話に相槌は打つけれど、そこに以前の熱がないことに、なぜ私は安心していたのでしょう。衝突がない、問い詰められない、結論を求められない。それは、私にとってあまりにも居心地が良すぎました。


 ある夜、あなたはぽつりと言いましたね。


「君は、何も選ばずに生きていけると思ってる?」


 私は笑って誤魔化しました。

 冗談めかして、「そんな大げさな」と。

 その瞬間、あなたの中で何かが静かに切り替わった音を、私は聞き逃したのです。


 別れ話は、あっけないものでした。

 ドラマチックな言い争いも、涙もありませんでした。ただ、あなたは「疲れた」と言い、私は「そうなんだ」と答えました。そこには、私が恐れていたはずの「決断」が、いとも簡単に転がっていました。皮肉なものですね。自分で下す決断から逃げ続けた結果、他人の決断によって、全部が終わったのですから。


 けれど私は、そのときですら、思ったのです。

「まあ、これも保留みたいなものだ」と。


 あれから何年が経ったでしょうか。

 私は就職し、転職し、また迷い、どこにも深く根を下ろせないまま、選択肢の間をくねくねと揺れ続けてきました。どれも悪くない道で、どれも決め手に欠けていました。


 そしてある日、鏡に映った孤独を見て、ようやく理解したのです。


 選ばなかった人生は、白紙のまま残るのではない。

 選ばなかった分だけ、輪郭を失い、曖昧に溶けていく。


 のらりくらりと決断を避け続けた人間の末路は、破滅でも悲劇でもありませんでした。ただ、誰の記憶にも強く残らない、都合のいい余白になるだけです。


 あの夜に閉じられた、指輪の箱の中身よりも。

 今の私の方が、よほど空っぽなのですよ。

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