賽の河原
ひとつ積んでは父の為、ふたつ積んでは母の為。
親より先に死んだ子どもは河原で石を積む。
医療の発達で7つまでに死んでしまう子どもは稀なので、現代基準で20歳まで「子ども」として扱う。
たまさかの事故、病気で亡くなってここに来る子どももいれば、親やまわりの身勝手な都合でここに来る子どももいる。前者はともかく、後者は見ているのもつらい。
夢とは黄泉路。
現世に遺る子どもの親の魂をここに招いて代わりに石を積んで貰ってはどうかと言う提案を受けてお試し期間にやって来た親はまるで子どもがそのまま大きくなった様な輩が多く、「どうして自分が石積みをしなければならないのか」とこちらに掴み掛かって来た。
「ただの小石を積み上げる事など簡単だ、と言ったのはどこのどいつだ?」
そういうと、だいたい押し黙る。
賽の河原の石はただの小石では無い、子ども達が現世で積む事が出来なかった「徳」を替りに積み上げるのだから、ただのひとつの小石でも十二分に重い。
そして、その小石には親を想う子どもの真心も詰め込んだ。
「重たい」と言うのであれば、どのような親であれ子どもは親の愛情を求めていたのだと理解するべきだ。...まあ、親になんの期待も無い子どももいるのか早々に積み上げ終わる親もいるのだが。
この呵責は、現世の時間に換算して30日掛けて行う。こちらの1日は現世の2~4倍程度なので、108つの小石を積み上げ終わる頃には最初は息巻いていた者も無言に黙々と積み上げ、時に獄卒に積み上げた山を崩されても文句も言わずに最初から積み上げ直すようになる。
飽くまで夢であるから、起きているうちは覚えてない者が殆どだが、無意識に刻まれている。
子どもに振るった「躾」をその身を持って味合わせる為にと八大地獄や八寒地獄に放り込まれていた親がただひたすらに謝罪の言葉を繰り返しながら小石を積み上げている事もある。
一応、私はそこまでやれ、とは言っていないのだが、浄玻璃鏡で子どもの人生を視た獄卒達は「目には目を、歯には歯を。真冬のベランダに子どもを放置して死なせた親には八寒地獄を」と言って聞かない。
仕事熱心なのは良い事だ、と言う事にしておこう。
さて、今日も賽の河原には活きの良い親が来た様だ。
あまりここで視察をしていても後で篁にねっとりとこってりと叱り飛ばされて釜茹で地獄の赤銅の煮え湯の一気飲みをさせられるだけなので帰るとしよう。