暗闇より暗く
「しまった。腕時計洗っちゃった…」
脱水の終わった洗濯物に紛れていた腕時計をつまみ上げて溜息を吐く。
ハイブランドではないが、社会人になって数年経った自分へのご褒美として買った、私にしてはお高めの時計だ。
秒針は当然ながら動いていない。しばらく乾かしたら大丈夫…とはいかないだろうか。
職場では携帯端末が使えないので地味ながらも重宝していた腕時計。なによりデザインから値段までこだわりにこだわったお気に入りだ。
(お気に入りならもっと大事に使いなさい…ってね)
イマジナリー母からお説教を頂いて苦笑いして…いや笑えないよとまた落ち込む。
乾かしてみて、動かなかったら時計屋さんに持って行ってみよう。道路沿いにポツンとある個人の時計屋さんが掲げる看板に、修理の文字が並んでいたのを憶えている。
「…ごめんね。」
畳んだタオルの上にそっと置いて、他の洗濯物を片付けてその日は早く眠ることにした。所謂ふて寝というやつだ。
真っ暗闇の中。横たわった針のように細い道の端に立っていた。
なんだか見覚えがあるようで、見覚えがない。ただ、この針の上からは落ちないという確信があるだけ。
ざざ
ざざ
何処からか水の流れる音がする。
ざぶ
ざぶ
満たされた水の跳ねる音。
他人事のように水の音をただ聴いていると、思い出した。
―――――ああ、これは時計の針だ。
そう思った瞬間、景色が右から左へと回り出す。いいや。景色でなく、正しくは私と針が回っているのだ。
ぐる
ぐるぐる
真っ暗闇が回る。暗闇、薄い暗闇、深い深い、黒を塗り重ねたような暗闇。
ぐるぐる
ぐる
ざぶ
ざぶ
ぴちゃり
足元の針が水を切りながら、尚も回り続ける。
時計には休みがない。止まる事はない。
ざざ
ざざ
ざざ ぐる
気付けば水は足首まで浸っていた。それでも私は無感動に回る暗闇を眺めている。
時計の針は水が重そうに、少しずつ、少しずつ回るスピードを落としていた。
ぐる
ぐ る
ざぶ
ぐ
る
水は腰まで浸っていた。
ざぶ
ざぶ
回っていた暗闇が、ゆっくり、ゆっくり移動して、
止まった。
水は頭まで浸っていた。
とぷん
とぷん
時計は時を刻むもの。時計の針は、回るもの。
【 ま わ セ 】
沈んだ身体は足場を失って水中を漂い、ゆっくりと落ちていく。
暗闇からもっと、暗い闇へ。その暗闇よりもっと暗い闇へ。それよりもっと、もっと暗い闇へ。
黒からより黒く塗り重ねて、何も分からなくなった時、両手に硬い金属が触れた。歯車だ。
まわせ
回セ
水の重みで動かない歯車を両手で掴み、回した。全力なはずなのにちっとも力が入らない。
歯車は悲鳴を上げて、時計が動かないと嘆いた。
ギギ
ギギ
お前 の せいだ
真っ暗闇の中、私の全身も真っ暗になった。
ああ
アァ
わたシ の セい ダ
水に揺蕩う真っ暗闇
だんだんその手は動かなくなった
だんだんその足は動かなくなった
黒から黒へ 黒よりずっと黒へ
黒より黒く黒よりずっと黒く黒より黒くずっと黒く黒く黒く黒より黒く黒よりずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと
黒くなって
動かない
壊 レ
た
「はっ…………はぁっ、はぁっ」
よく分からない夢を見た。私が時計に?いいや違う。違うのだろうか
寝る前にテーブルの上に置いたタオルに目を向けると
「………時計がない」
確かにタオルの上に置いていた。
無造作に散らばっている髪をかきあげようと右手を上げると、その手首には腕時計が装着されている。
ヒュッと息を吸い込んだ。
「…急いで、直す…直してもらいます、から」
外そうとして、思い直す。開店と同時に修理してもらおう。今後もこの腕時計を使うかは分からないけど、直さなきゃ、大変な事になる気がする。
急いで準備をしなくちゃとベッドから飛び出て支度する。
「一体どんな洗濯物を洗ってたんだね」
昔から時計屋を営むおじいさんが、老眼を頭の上に掛けてそう問いかけた。
「え…どんなって、普段の…」
「開けて中の水を拭こうとしたら真っ黒い水でいっぱいだったよ」
「真っ黒な、水で…」
頭の中に響く、水の音
ざざ
ざざ
暗闇より暗い闇へ
暗い闇よりもっと暗く
暗く
黒く
黒く
ぽちゃん。