6.ラスト・ザドッグ
夜の街は背の高い建物が並んでいた。街灯が等間隔に灯っているのと比べ、どの窓も明かりが点いておらず、オレとその隣を歩く彼女以外に人の気配がない。雪が降っているのに、不思議と寒さは感じなかった。
「綺麗でしょう。」
「ここがオレ専用の天国?」
「貴方を呼んだのが私だという話は聞いていますか?」
「……ああ、言われた気がする。」
「さっきも言った通り貴方には私を助けて欲しいんです。」
「つまりオレが何か経営に口出しすればいいの?」
「いえ、その点に関しては任せられません。むしろ、私個人の問題について協力してもらいます。」
「……さっきあの人に説明してるときから思ってたけど、君はなんでそんなに強制的な言い方をするんだ?」
「すみません。ただ、山本直之さんの場合は強制というか、彼には命じる必要がありました。」
「それね。しかも褒めてるようでめちゃくちゃ失礼なこと言ってた。」
「彼は平たくいえば植物であり機械です。どこまでも自然で、単純な物理のような人格です。人の形でこそありますが、中身はほとんど無なのです。」
彼女は鉄板にある付け合わせの人参をデミグラスソースに浸しながら言う。オレはパンケーキを割って口に運ぶ。明かりのない店内が、雪の降る窓にお互いの表情を浮かべる。
「彼は命じられたことは何でもします。そしてもしも指示が適切ならほぼ100%成功します。プログラムコードのような指示を出してくれる人が側にいれば、彼は社会でもそれなりに重宝されたでしょうが、そう甘くありません。社会では自己判断によって、自力で動きだす性格が試されます。彼にはたまたま、それを備えてくれる人がいませんでした。無能として扱われた半生でしょう。でも今日でそれも終わりました。」
「ふーん。君はいい奴なんだな。」
「できるだけそうありたいと思っています。でも別に親切心で彼を迎え入れた訳ではありません。そもそも彼は自分の人生について何の感想も持っていないでしょう。それと我々は天国を創っていますから、天国にはそれなりの人格を持った人間が必要です。山本さんはかなり自然に近い、神聖な人格の持ち主です。」
「へえ。じゃあ一緒に来たオレはどんな人格だと思う?」
「貴方はある意味、私と似ています。今のところ全く異なる人生を歩んでいますが。」
彼女は言いながら、気になった服を次々オレに手渡していく。さらにオレは非常用懐中電灯まで持って、彼女の見たい服を照らしていた。この辺りにある服はどれも少し前の流行りのものらしかった。
「そもそもそれが理由ですから。山本さんが無であるとするなら、対する私たちは無限です。無と無限の差についても、今日貴方たちと対面してから気が付きました。山本さんの中からは何も生まれませんが、私たちの中からは感情もアイディアも限りなく生まれます。それこそすべてが一瞬です。そうやって社会的時間を超越することで私は自分の会社を急速に成長させました。社会のため、人間関係のために時間が生まれていることについては理解できますか?」
試着室のカーテンが揺れる向こうから聞かれた。大量に服の入れられた買い物カゴをもう片方の手に持ち直す。
「まあまあ分かる。本来人が一人なら時間は必要ないって話だろ? 朝も夜も関係なく寝たり起きたりすればいい。」
「はい。二者以上の関係、社会には共通の最小単位が必要です。その最小単位の正体は不明ですが、その積み重ねによって時間が形成され、時間に沿って全てが動きます。空間も時間に従わせます。そうでなければ約束ができません。そういう意味で言えば、本来全ての人は無時間性を持っていたはずですが、社会に組み込まれる早い段階で本来の姿を維持できなくなります。私の場合は圧倒的な才能でしたから、社会の圧力があろうが自分の無時間性は維持できましたが。」
試着室のカーテンが開く。オレたちは屋根の付いたベンチに座り、歯触りのいいたい焼きを齧っていた。カップコーヒーもすする。対して彼女は餡子よりも甘いコーヒーを選んでいた。
「しかし貴方は私とは決定的に違います。才能も体力もありません。それでも貴方が貴方の無時間性を守り通すには、ほとんど社会から、人間関係から切り離される必要がありました。でも普通これはできません。どこかで無理が生じます。しかしどういう訳か貴方は今までこれを成し遂げて来た。社会からの、つまり外部からの圧力ではなく、自らの負の感情や五感の苦しみ、つまり内圧への耐性が強かったのでしょう。」
「そんなスゴイものじゃないけどね。」
「はい。スゴイものじゃないです。社会もそれを才能とは呼びません。でも私はある意味才能だと思います。私は内から湧いてくる無限通りの案から選択をし続けることで今の地位を手に入れましたが、貴方は無限通りからの選択を放棄することで現在の生活に堕ちました。山本さんの場合では、誰かに制御されて初めて人格を認められますが、貴方はあらゆる制御不能な人格の中で自分勝手な、社会の頂点に立ったのです。」
「あのさ、なんか助けて欲しいって話じゃなかったの?」
夜目が冴えて本の文字も読めるようになってくる。
「別に今私の目の前にいるのは貴方でなくても良かったのです。貴方みたいな人は少なからず存在しますから、今日貴方が呼ばれたのは単に偶然です。」
電源の入らないクレーンゲームの取り出し口から手を伸ばして取ろうとしてみる。
「偶然とか言い出したら全部そうだろ。」
雪が積もり過ぎて、街の中で行ける場所はどんどん狭まってきていた。そのままオレたちはある薄暗い一室へと辿り着く。
「調子に乗らせないために言ったまでです。貴方なんてロクに人から認めてもらったことがないだろうから、いきなり誰かから賞賛を送られれば何か絶対に勘違いします。そんなのは見ていられないので止めてください。」
「ねえ、このボタンなんなの。」
部屋の中央には特別製のボタンが取り付けられていた。
「それこそが貴方を呼んだ理由です。」
彼女は背後のベッドに身体を投げ出す。オレは近くにあったソファのひじ掛け部分に腰を乗せる。
「……私は最近、自分に限界を感じ始めています。今までの私を私とするなら、私は私じゃなくなりそう……。私はもっと時間から自由であるべきです。しかしそうできないのは、時間から自由な人間が周囲にいないからです……私は、貴方みたいな天涯孤独の非社会人が必要になりました……私と貴方は似ています。だからお互いに居ても無時間性を侵し合う心配はありません。もちろん嫌になったときはしばらく離れて暮らすでも構いません。さあ、どうか一緒にこのボタンを押してください。私と一緒に自由になって欲しいです。」
「押したら何が起こるんだ?」
「社会から解き放たれます。肉体からも解き放たれます。」
「単純に死ぬってこと?」
「いえ、ただ幽霊よりも自由になるだけです。私たちは普遍存在になります。」
「乗った!」
オレと彼女は手を合わせてそのボタンを押した。
──微かに声が聞こえてくる。それはいくつもの温かい声だ。言葉を知らない者でさえ幸せの意味を理解するだろう。意味は発音に従属する。以前のオレは願望と義務を持たない寂しい人間だったが、それはまだ自分が何も知らなかったというだけで、根本的な問題はどこにもない。オレは今、自分とよく似た彼女を二重に孕むような構造を取ってどこにでも存在していた。青と黄色の家に挟まれた、路地にある細い階段から海が覗いている。海岸沿いにヤシの木の立ち並ぶビーチに、男のヴィンテージアロハが、女の髪とモノクロスーツが、子供たちの淡いセーラーが、他に誰もいない静かな砂浜の上で点になって動いている。