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1.インスパイアあげない

 朝、ホテルのベッドで目が覚めた。すると辺りはどうだろう。中身の吹き出した縦縞ソファ、横倒しになったガラス製のテーブル、ケーブルの切れた灰色テレビ、石鹸の泡を纏ったエレガントコート、死海へと繋げた狭いバスルーム……。そして唯一安全なベッドの中、乱暴に荒らされた室内を見渡していても特に驚く気力すら湧いてこないのは、これらすべて、昨晩オレがやったからだ。古い白黒映画にさえ極彩色を塗り付けてしまう強烈過ぎる幻覚剤の痺れが、まだ顔の裏で渦巻いていた。たしか……オレは……出かける必要のある用事が……。出かける必要のある用事も、ぱっと思い出せなければオレという人間の頭の中に漂う一介の宇宙ゴミに過ぎない。タイム・イズ・ブラックホール! オレは好きなだけ寝ていてよかった。

 昼頃、オレは全身をテニスシーンにおける無難な服装で纏め、上を緑と赤のデニムジャケットで決め込んだ。加えて黄色い尿みたいな透明度のハンター用グラスが、オレの辟易とした壮年顔によくハマっている。いつも通りの恰好。いつだってポケットにはブルドッグマークのコンドームとコールガール専門のアイフォン17がせめぎ合い、足下から立ち昇る夕焼けに似た赤い性的電離体。新品同然の真っ白なゴルフシューズを鳴らしながら、オレはあれやこれやを考えていた──[崇高な思想][未踏の発明][卓越した話術][強靭なニューロン][歴史遺伝学][発光体の顛末][有袋類ポータル説][全文学][記号領域の誤解][スタック式空間論][時間の可逆性を利用した大地震の消去法][エロい事][脳委縮快楽物質]……。

 目に付いた中規模の薬局で、菓子パンと総菜パンを一つずつ買う。こういったたまに食べるからこそ美味く思えるものを、日々替えながら暮らしたら、幸せだろうか? 朝と比べて視界が正常に戻りつつある。目の裏の圧力もかなり楽になった。天気はあまり優れない。徐々に日常を取り戻しつつある感触が、今日はやけに美しく思えた。一度取り戻してしまえばそこまでだが、完全に元に戻るまではこの微々たる退行を楽しんでいたい。無論、そんなオレのことを邪魔する者など誰もいないから、好きなだけ楽しめばよかった。

 駅前を、B.B.Kingが歩いているのを、オレは見逃さなかった。

 ──太陽の陰を一身に背負う超高層ビルの麓、そのホテルのようなオフィスのようなカジノのような……階級の神々しさを目の前にし、オレは見っともなく腰が抜けそうになる……ひれ伏したくなる……。オレは朝起きたときに頭をよぎった、どこか行く必要がある用事というのを、こうして偶然に訪れてみてまざまざと思い出すこととなった。一瞬で背筋が冷たくなるのを感じる。だがこうして場所だけは判明したとしても、では何故ここへ行く必要があるのか、その目的だけは全く思い出すことができず、妄想と恐怖とが却って獰猛化してしまう。当然、実際に対面してしまえば、それもまた強制的に記憶から引きずり出されるだろうが……はっきり言って気が乗らない。そんな気が乗らないオレの退路を塞ぐように、髪を油でなしつけた同一身長の二人の男が現れる。その男たちはオレの肩を軽く持ち上げると、身の毛もよだつほど上品なロビーの中へと、オレという一流の宇宙を連れ去ってくれた……。

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