6話
俺が婚約破棄した聖女、セシリア・エラフィーナが1枚の手紙だけを残して大聖堂を出て行ったという報告を受けたとき、正直なところ、俺はどうでもよかった。
「まあ、逃げたくなる気持ちはわかるけどさ……」
ぽつりと呟く。婚約破棄を告げたときの彼女の表情を思い返すと、今さらながら少し可哀想だったかもしれないとは思う。いや、正確にはあの驚きと悲しみが入り混じった顔がそんなにショックだったのかと、なんというか可愛さもあったな。
もっとも、それを理由に婚約を続けるなんてことはあり得ない。彼女の存在は政治的なものでしかなかったし、王子たる俺にふさわしい未来の伴侶は今、隣に座っている彼女だ。
「ねえ、アレクサンドル様。これでやっと私たちの婚約を公表できますわね」
俺の隣にいるクラリス・ベルシュタイン令嬢が満足げに微笑む。彼女は名門貴族の娘で、何よりも俺の理想の伴侶だった。聖女セシリアの様な清楚な女よりも気品があり俺を支える能力もある。
「そうだな。これでスッキリしたよ」
セシリアのことを思い返すと、どこか疲れた顔をしていたような気もする。王や貴族からの依頼が本当に耐えられなかったのかもしれない。まあ、仕方のないことだ。
国のために役割を果たすのが彼女の立場だったのだから。そんなことを考えていると、いきなり父である国王から召喚を受けた。
「セシリアを連れ戻せだと……?」
王の厳しい声が大広間に響く中、俺は思わず眉をひそめた。
「確かにあれは聖女でしたが、もう婚約も破棄した身です。それに、彼女がいなくても代わりの者は……」
「あの力は、代わりが効かないのだ!」
父の声には苛立ちが混じっていた。
「あいつが抜けたことで貴族や他の王族から不満が大量に寄せられている。大聖堂の秩序も崩れ始めた。何より、国民の間で王族への批判が増してきたではないか!」
「……では、聖女がいないとどうにもならないと?」
「その通りだ。まったく、お前がちゃんと管理してないからだろ。さっさとセシリアを連れ戻せ。いいな!」
内心、ため息をつきながらその命令を聞く。
(なんで俺が怒られないといけないんだ……。そもそも、俺はセシリアに逃げられた様な言い方しやがって。あっちのほうが勝手に消えただけだ)
もちろん王命は絶対だが、俺にそこまでやる気があるわけではない。
「分かりました。騎士団長のレオナードを使います」
その言葉に、父も納得したように頷いた。
「レオナード・ヴァルハルトを呼べ」
俺はそう命じると、すぐにその大男が目の前に立った。
「アレクサンドル様、ご命令を」
相変わらず無表情で、あの威圧感は何なんだろう。おまけに何を考えているのかさっぱり分からない。だが、忠誠心だけは厚く、王族の言うことには逆らわない優秀な駒だ。
「すでに聖女捜索の指示は出しているが捜索網を強化して、必ず聖女を連れ戻せ。お前自身が指揮を取るんだぞ!」
「承知いたしました」
彼は素直に返事をした。その態度には何の迷いもなかった。安堵する一方で、やはり何か気味が悪い。まあ、あいつに任せておけば問題ないだろう。どうせまた何とかしてくれる。
レオナードが去った後、俺は肩を撫で下ろした。王も納得したのか、すぐに席を立った。
(これでよし、と。あとは任せておけばいい)
俺はクラリスの待つ部屋へと戻りながら、今夜はどこで飲もうかと考えていた。
◇
レオナード様が初めて私の家を訪ねてきてから、早くも一週間が経った。
騎士団長という立場にあるはずの彼が毎日のように私の家に足を運んでくる。最初はプロポーズも私を油断させる為の作戦かと疑っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「セシリア様、今日の天気は最高ですね!こんな日は畑仕事が捗りますよ!」
そう言って農具を手にする彼の姿を見て、私は思わずため息をついてしまった。彼は積極的に私の生活に関与しようとしてくる。
「……本当に私の監視ではないんですよね?」
「監視だなんてとんでもない!私はただ、セシリア様のお役に立てればと、それだけです」
言葉の裏に嘘はなさそうだが、その情熱的すぎる行動にどう反応すべきか分からない。愛の言葉を伝えられるたびに私の心はただ困惑するばかりだった。
それでも、彼の手際の良さには感謝している。私が家で洗い物をしている間に彼は菜園の手入れを済ませてしまう。土いじりが終わった後は、庭の掃除までしてくれる徹底ぶりだ。
「セシリア様、ここの草むしりも終わりました!」
「……ありがとうございます。でも、そんなに働かなくても」
「いえいえ、これくらい私にとっては息抜きみたいなものです。気にしないでください。なんだかこうやって二人で過ごしていると夫婦の様な…」
にこやかに妄想が弾む彼を無視し、目の前の本に視線を戻した。
レオナード様との奇妙な生活にも少しずつ慣れてきたある日の事、食料が少なくなってきた。田舎暮らしに必要な食料品は村の中でも比較的栄えている商店で購入することができる。
「今日は買い物に行くんですけど……」
「それなら私もご一緒します!」
私が言葉を終える前に、彼はパアっと明るい表情をしながら即答した。
「でも、ただの買い物するだけですよ?」
「そんなことは関係ありません。セシリア様と一緒に出かけられるなんて、嬉しい限りです」
初めて彼と一緒に商店に行くという状況に妙な緊張感を覚える。村の人々は親切だが、厳格な騎士団長という立場の人間がこの田舎で買い物に同行する姿をどう思うだろうか。
「……目立たないようにしてくださいね?」
「承知しました!」
彼の明るい表情に私の心配は不要だったと感じさせる。そんなやり取りをしながら、私たちは村の商店街へと向かう。
歩き始めて約30分が経った頃、商店の前に子どもたちが集まっているのが見えた。元気よく遊ぶ子どもたちの笑い声が響く中、ひとりの少年が転んでしまったようで膝を抑えて顔をしかめている。
「大丈夫?」
私は駆け寄り、少年に声をかけた。近づいて見ると、膝に小さな擦り傷ができていた。
「……痛いけど、大丈夫です」
涙をこらえる少年の姿に、私はそっと微笑んだ。
「ちょっと待ってね」
持ってきた布で傷を優しく拭き、薬を塗る。
「これで大丈夫。あとは無理しないでね」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
少年が元気にお礼を言う姿に、私も心が温かくなる。そんな様子を少し離れた場所から見ていたレオナード様が静かに近づいてきた。
「セシリア様、優しいですね。それと…」
「……聖女の力は極力使わない様にしています。力を使えば今のキズなんてすぐに治せますが、どこでバレるか分からないですから」
「だから、薬を持ち歩いているのですね。聖女だからではなく、セシリア様の人柄こそ人々に愛されるのです」
その言葉に、私は少しだけ顔を赤らめた。彼の真剣な眼差しにどう返していいか分からず、視線をそらしてしまう。
「それより……買い物を済ませましょうか」
「ええ、そうですね」
レオナードは微笑みながら、子どもたちに手を振ると、私の後について商店の中へと足を踏み入れた。
店内は田舎らしい温かみのある雰囲気で、地元の農産物や手作りの雑貨が所狭しと並んでいる。ここでの買い物は、大聖堂での生活では決して味わえない自由そのものだ。
(こうして普通の生活を送れることが、本当に幸せだ…)
心の中でそう思いながら、私は必要なものを選び始めた。隣で黙って付き添うレオナード様の存在がいつの間にか自然に感じられるようになっていることに気づき、少し驚いた。
こんな風に彼との日常が続くのだろうかと考えながら、私は買い物かごを手に次の商品に目を向けた。