26話
「マスター……」
構成員たちの中の一人が、その場にへたり込んだり、剣を下ろしたりする。
「な、なんでマスターがここに……」
(『マスター』……誰?)
私は混乱したまま、レオナード様を見上げた。
「レオナード様、マスターって誰なんですか?」
「……情報ギルドを束ねる人です」
ただの構成員や傭兵ではない。この荒くれ者たちまとめ上げ、情報を操り、全ての裏取引を掌握している人物。
馬車の扉から降り立ったのは、漆黒のブーツを履き、長い黒のマントをひるがえす一人の男だった。
(この人は……誰?)
顔には黒い仮面がつけられているが、ただ者ではない威圧感が全身から放たれている。
「お久しぶりだな、レオナード団長」
低く落ち着いた声。だが、その声にはどこか人を見下すような響きがあった。
(この声……聞いたことがある?)
胸がざわつく。何か大事なことを思い出しかけている気がするのに、どうしても思い出せない。男はゆっくりと顔を上げ、仮面越しの視線を私たちに向けてきた。
「……随分と大人しくしていたと思ったら、こんな所でかくれんぼか?」
彼の口元が僅かに歪む。
「な、なんでマスターがここに……」
構成員たちが動揺し始めた。顔を真っ青にする者、剣を手放す者、恐怖に震える者。それぞれの反応が、彼の存在の大きさを物語っている。まるで、猛獣の前に立たされた小動物みたいだ。そんな彼らをよそに、マスターはゆっくりと歩き始めた。
「ごきげんよう、聖女様」
声のトーンが変わった。先ほどまでの冷たい声音が、やけに滑らかで上品な響きに変わる。優雅な一礼とともに、彼は貴族の挨拶を捧げた。
その動きはまるで社交界の舞踏会で行うような、完璧な動作だった。一瞬、私の頭が真っ白になる。
(どうして、この人が貴族の作法を……?)
その疑問に答えるように、彼の仮面の下の口元が僅かに動いた。
「あなたに直接お目にかかるのは、これが2度目ですよ」
彼の鋭い目が私を射抜く。
「我が名は、クラウス・フィオルド。今はフィオルド家の公爵をしている」
その名を聞いた瞬間、場にいた全員が凍りついた。
(フィオルド……公爵!?)
公爵。それは、王国内でも最上級の貴族に与えられる称号。だが、フィオルド公爵は“ただの公爵”ではない。彼は、王の腹違いの兄であり、かつて王座の継承権を巡って争った相手だ。
結局、正妻の子である今の王が即位することになったが、今なお公爵を支持する貴族勢力は根強い。そんな彼が、どうして情報ギルドの『マスター』になっているのか。その疑問が頭の中でぐるぐると回った。
(こんな辺鄙な村に、公爵様が自ら来るなんて……)
彼の視線が、私の体をじっくりと品定めするように撫で回した。
「なかなか良い村だな。空気も美味いし、静かだ」
彼の視線が私の背後、家の方へ向く。
「ふむ、あれがあなたの住まいか?」
嫌な予感がした。
「中でお話しさせていただいてもいいかな?」
それはお願いではなく、命令のような響きだった。視線が私を捉えたまま、彼は小さく口角を上げた。
(断れない……)
圧が強すぎる。彼の目は、どんな反応をしても全てを見透かしてくるような、そんな威圧感があった。
室内は静寂に包まれていた。その中で、異質な存在が一人。フィオルド公爵が、無遠慮に椅子に腰を下ろしていた。
「ふむ、素朴だが趣のある家だな」
彼は悠々と辺りを見回し、上品に足を組む。
「田舎の暮らしも悪くないかもしれないな。聖女様が留まる理由がわかるよ」
その態度はまるで、自分の家のような振る舞いだ。私の体は、ぎゅっと固まったままだった。
(どうしてこんなことに……)
私の隣には、震えるエマが立っている。彼女は紅茶を入れたお盆を、ガタガタと震える手で持ち上げていた。
「ひぃ……っ、」
お盆がかすかに揺れ、カップがカタカタと音を立てる。
「エマ、大丈夫よ。深呼吸して」
「は、はい……!」
エマは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、何度か深呼吸をして震えを抑えた。それでも、手の震えは止まらない様だ。
(無理もないわ……だって、さっきまで情報ギルドに殺されそうになって、その長が目の前にいるんだもの)
紅茶のカップを公爵の前に置く際、「す、すみません!」と謝罪するように声を上げてしまった。公爵は何も言わず、紅茶のカップを手に取り、口に運ぶ。
「いい香りだ。素朴な香りがまたいい」
彼はまるで貴族の茶会を楽しむような顔で、優雅に一口すすった。
「……美味しいな」
彼の言葉にエマはさらに震え、今にも崩れ落ちそうだった。
フランツさんがいれば、エマを支えてくれただろうに、今は彼がいないことが不安で仕方なかった。
(フランツさん……どうして今この場にいないの?)
不安は募る一方だ。目の前の公爵は穏やかな表情をしているが、彼の背後には明らかな不気味さと恐ろしさが漂っていた。彼の一挙手一投足が、場の空気をねじ曲げているような、そんな錯覚を覚える。
私は彼と机を挟んで向き合い、その視線を受け止めた。
(……怖い)
だが、ここで目を逸らすわけにはいかない。私のすぐ後ろにはレオナード様が立っている。そのさらに後ろには、数名の騎士団員が控えていた。外にも騎士たちが見張りに立っている。でも、それでも安心できなかった。
(この人は……何をしに来たの?)
考えを巡らせる。さっき情報ギルドの構成員が言っていたように、もし彼らがここから帰らなければ、私の居場所はあっという間に王宮に知れ渡るだろう。
(でも、それだけなら、この人がわざわざ来る必要はない……)
公爵自らが来る理由がわからない。私を連れ戻すため? それとも、私を処分するため?
(……何か、もっと別の理由がある。でも、それが何かがわからない……)
私が頭の中で不安を巡らせていると、唐突に公爵の声が響いた。
「では、話を始めようか」
彼はカップを静かに置き、こちらを見据えた。
「私と取引をしようじゃないか。レオナード騎士団長」




