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1話

 月明かりが差し込む大聖堂の一室。この国で最も神聖な祈りの場であり、昼間は祈りを捧げる人々で溢れるこの場所も今はただ静寂に包まれている。机の上に置かれた一枚の手紙が、その静けさに小さな違和感を与えていた。


「……これは、セシリア様の……?」


見回りをしていた神官見習いのひとりが、それを見つけた。手に持っていた燭台を机に置き、封を開けると端正な筆跡で綴られた文面が目に飛び込んでくる。


『私は聖女を辞めます。これまでお世話になりました。』


それだけが書かれた簡潔な手紙と言葉。それ以上の説明はどこにもない。それでも、この一枚の紙切れで彼女がここを去ったことを確信させるには十分だった。



 古びた馬車にガタガタと揺れる音が響く。凸凹道のせいで座席は不安定で腰に負担がかかる。窓の外には、どこまでも続く田舎道と月明かりに照らされた草木ばかりが映っていた。


「こんな場所に居るなんて、少し前の私には想像もつかなかったわね……」


独り言が馬車の振動にかき消される。外の景色に目を向けながら、自然と過去のことを思い返してしまう。


セシリア・エラフィーナ。私の名前であり"神に選ばれた聖女"の名前は、国中が知っている名前。魔物を討伐し、宮廷で神託を伝え、民の平穏のために祈る毎日。けれど、これが本当に私が望んだ人生だったのだろうか。


かつて、宮廷で催された盛大な宴会の最中、私は豪華な装飾が施された舞台の上に立たされていた。

煌びやかな衣装をまとわされた私は、周囲から讃美の声を浴びながらもまるで見世物のように扱われていることに嫌悪感を覚えていた。


「これが我が国が誇る聖女、セシリアだ。彼女の祈りはどんな魔物も退け、病を癒す」


王の誇らしげな声が広間に響き渡る。その言葉に宿るのは、私への敬意ではなく、あくまで"聖女"という肩書きを利用しているだけだった。王族や貴族たちは、私が壇上で微笑むたびに拍手を送り、次々と私に近づいてきた。


「私の薬草園に祝福をお願いしたいのです。これが成功すれば国民の役にも立ちますし、我が家の財政も潤うことでしょう」

「私の領地で近ごろ疫病が広がっておりまして、聖女様のお力で鎮めていただければ幸いです。最近、領地の民から不満の声が溢れているのです」


彼らの目はまるで、私を便利な道具を見ている様だった。それは、この国の王族も同じだった。


ある日、私は王宮の奥にある秘密の間で一枚の地図を差し出された。


「セシリア、神に祈りを捧げ、これを成し遂げてくれ」


その地図には、隣国との国境上にある鉱山が赤く印されていた。


「今は隣国がこの鉱山を所有しているが、我々の国にとっても重要な資源になりうる。この地に住む魔物を討伐し、領有の正当性を示してほしい」


言い換えれば、隣国から鉱山を奪い取るために私の力を利用しようというのだ。私は一瞬ためらったが、王の鋭い目がそれを許さなかった。


「聖女の力は国のためにある。この国を守ることが君の使命だろう?」


そう告げられると私は反論することもできず、ただ神に祈りを捧げて力を発揮するしかなかった。

鉱山が浄化され、魔物が出現しなくなると王は満足げに笑い、私を褒めるどころかそのまま新たな任務を命じた。


疲れていようが、傷ついていようが、私に休息は許されずいつも新たな責務を押し付けられる。心が擦り切れていくのを感じながら、それでも国のためにと自分を奮い立たせて務めを果たしてきた。


 唯一の救いになればと期待していたのが婚約者である王子、アレクサンドルの存在だった。政治的なつながりで結ばれた縁だとは分かっていたけれど、それでもお互いに支え合える関係になれればと何度も努力をした。私が差し伸べた手を、いつか彼が取ってくれると信じて。


だけど、彼から返ってくるのは冷たい言葉ばかりだった。


「聖女としての務めを怠らないこと。それだけがお前の役割だ」


彼のその一言は、私の心にさらに深い傷になり、何度も繰り返し脳裏に蘇る。私は誰かと愛し愛される存在にはなれない。そう突きつけられたのだ。


私が大聖堂から抜け出す数日前に決定的な出来事が起きた。滅多に無い王子からの呼び出しがあり、何事かと思い急いで彼の部屋へ向かった。中に入ると、彼の隣にはまるで当然のように他の女性がいて、そこで私は"婚約破棄"を告げられた。


「君との婚約はこれまでだ。国のために、より適した相手を選ぶ必要がある」


その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。決して彼からの婚約破棄に傷ついたからではない。国のため、民のためにすべてを捧げてきた。私の今までの努力や苦労がただ不要だと言われた気がした。今まで貯めていた不安や疲労が弾けて溢れ出た。もう私の心には、何も残っていなかった。


あの日の事を思い出すと自然と眉間に皺が寄る。私を嘲笑う王子の顔と我が物顔で見下す女性の視線が忘れられないトラウマになっていた。

あの場から逃げ出した今でも、彼らのことを考えると心臓が痛い。


 それでも神は見放さなかったのだろうか。元婚約者から別れを告げられたまさにその日は、私にとっての転機でもあった。私はあの後の出来事を思い出す。


王子の部屋から出てきた後、放心状態で気付いたら向かっていた大聖堂の庭園で商人のフランツさんとたまたま出会った時の事。


フランツさんとは、昔に彼の母親が流行り病にかかった際、無償で治したことがきっかけだった。それから、会うたびに声をかけてくれ私を気にかけてくれている。彼は陽気で人懐っこい性格で、私の目を見て話す数少ない存在だ。


そんな彼がこっそり耳打ちしてきた。


「セシリア様、こんなところでお過ごしになるべきではありません。お逃げになるなら、私がお手伝いします」

「……どうして、そんなことを?」

「あなたは他の誰でもなく、ひとりの"人間"だからです」


 私があまりにも酷い状態だったから声をかけてくれたんだろうか。同情だとしてもその言葉に私は思わず涙ぐんだ。誰かが私を"聖女"ではなく、ただの"同じ人間"として見てくれた。それだけで、救われた気持ちになった。


荷物をまとめるのも簡単だった。元から自分のものなんてほとんどなかったから。


 あの日から数日が経ち、フランツさんの手引きで私は古い貨物馬車に乗り込んだ。夜明け前の薄暗い道を揺られながら、心の中で感謝を呟いた。薄暗い霧の中から抜け出した様な気分で大聖堂を後にした。


今まさに向かうのは、僻地の小さな村。あの喧騒から離れて、平穏な暮らしを手に入れるために。誰にも知られることなく、ただのひとりの人間として生きていければ、それでいい。


「もう、あの生活には戻らない」


誰にも聞かれることのない言葉を口にする。自分に言い聞かせるように、何度も繰り返した。大きく息を吐き出すと、心が少しだけ軽くなる気がした。


まだ見ぬ未来を想像しながら、私は目を閉じ、馬車に身を預けた。

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