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旅立ちの日に

作者: 越前

「稔、もう行くよー。出る用意できたー?」

 一階から響いてきた母の声に、稔は「はーい」と間の伸びた返事をする。

 物が減ってさっぱりとした自室を見回し、稔は晴れやかな表情を浮かべた。

「ついにこの時がきたか」

 誰にともなく口にした。


 大学の入学式を明日に控えた今日は、稔の引っ越しの日だ。この春から地元を離れ、首都近郊の国立大学へ通うことになる。

 高校までの十八年間、稔はずっとこの片田舎の実家で過ごしてきた。一面に広がる田んぼや畑、零細な交通インフラ、つながりの強い地域内の人間関係。特段ここでの生活が嫌いというわけではなかったけれど、何となく窮屈さを感じていたことは否めない。

 親元を離れて、都会で自由気ままに暮らしてみたい。年頃の男子らしく、そんな気持ちが日に日に募っていった。そんな稔にとって、大学への進学は願いを叶えるためのまたとない機会であった。

 高校二年の秋頃、稔は思い切って両親に頼み込んだ。

「都会の大学に進学させてほしい」

 実家は貧乏というわけではなかったけれど、決して裕福でもない。下に妹が二人いることを考えると、あまり贅沢を言うのは正直気が引けた。両親の反応も芳しくなかったが、「国立の大学なら」との条件付きで許してくれた。それから受験当日まで必死に勉強し、そのかいあって希望した大学に見事合格することができた。最初は難色を示していた両親も、息子の頑張りが報われたと喜んでくれた。

 それからほどなくして、一人暮らしで住む物件の内見に行った。大学生協の紹介で選んだアパートはお世辞にも綺麗とは呼べなかったけれど、それでも稔には輝かしい未来への前線基地のように思えた。必要な家具家電を一通り買い揃え、電気・水道・ガスを開通させ、実家から持ち出す荷物の半分を新居に移し、着々と準備を整えてきた。

 そして今日、待ちに待った新しい生活への一歩を踏み出す時がやってきたのだ。


 窓際に近づいて外の景色を見下ろした。家の前では稔の父が出してきた車が、エンジンを鳴らして出発を今か今かと待ちわびている。小高くなったあぜ道に沿って咲き誇る桜が、晴れ渡る青空によく映える。時折り吹きそよぐ春風が花びらを舞い散らせ、ほのかに甘く湧き立つ春の匂いを運んでくる。どこからか響いてきた鶯のさえずりに、思わず心をほころばせた。

 まさに門出の日にふさわしい。世界は喜びに満ち満ちて見えた。


「稔ー、最後出るとき玄関の鍵ちゃんと閉めてきてねー」

 一足先に外に出たらしい母が、窓の下から稔に呼びかけた。

「わかったー」と返事をして、開いていた窓とカーテンを閉めた。忘れ物がないかもう一度バッグを確かめた後、部屋を出て少し段差のきつい階段を降りる。

 玄関の式台に腰を下ろし、新品のまっさらなスニーカーの靴紐をキュッと結ぶと、かすかに気持ちが高揚するのを感じた。

 これからどんな出会いや出来事が自分を待っているんだろう。

 新生活への期待に胸を膨らませ、稔は玄関の扉を勢いよく開いた。


 ふいに――

 後ろ髪を引かれた気がして、稔は家を出ようとした足を止め、後ろを振り返った。

 特に変わったところはない、普通の家の玄関口。けれども、いつも見慣れたはずのその景色に、いつもとは違う雰囲気があるのを確かに感じる。まるで長い映画のエンディングを思わせるような、そんな静けさがあたりに漂い、稔の心を捉えて離さなかった。その静けさの正体を探るべく、稔は注意深くゆっくりと玄関を見回した。

 姿見、一輪車、傘立て、木彫りの人形、金魚の水槽、自転車の空気入れ…。目の端で何かがきらりと光る。手元に程近い靴棚の上に、サッカーボールのキーホルダーがついた家の鍵が置いてあった。

(危ない、鍵閉め忘れるとこだった)

 ついさっき母から頼まれた重要任務を忘れていた。自分のうっかり加減に苦笑し、鍵を手に取って再び扉に手をかける。

 そのときふと、一抹の寂しさが胸の内をよぎった。

「そっか、これで最後か」

 ポツリと呟いた。

 それまで感じていた違和感の正体にはたと思い至り、稔はもう一度玄関を眺めた。


 一日の始まりに「いってきます」で玄関をくぐる。友達とケンカして半べそをかきながら帰った日、部活でくたくたになって帰った日、初めて彼女ができて舞い上がりながら帰った日。晴れの日も、雨の日も、風の日も、雪の日も。どんなことがあった日も、「ただいま」と言って帰ってくれば、いつも変わらない温かさで迎えて入れてくれた。この家で過ごしたこれまでの月日が、稔の頭を走馬灯のように駆け巡った。

 自分は今日この家の日常から飛び立ち、明日からは異なる毎日を生きていくことになる。この日常の一部でいられるのは、今日この時が最後になるのかもしれない。

 故郷を離れて暮らすということが、確かな実感となって稔の胸に押し寄せた。十八年間の取るに足らない毎日が急に愛おしく思えてくる。

 これが今生の別れというわけじゃない。お盆とか正月とか、はたまた大学を卒業した後で、またここに帰ってくることもあるだろう。

 それでも…


 半分開きかけた扉をそっと元に戻し、居住まいを正して家の中に向き直る。

 そして、誰もいない家に向かって一人、頭を下げた。

「今までお世話になりました」

 聞き取れないくらいに小さな声で、しかし万感の思いを込めて、感謝の言葉を口にする。

 どれほど離れていようとも、どれほど時が経とうとも、この故郷で過ごした日々は心の中の原風景として、自分の寄る辺であり続けるのだろう。

 いつかまた帰ってきたとき、この家の一員として迎えてもらえるように。

 いつかまた「ただいま」と言って帰ってこられるように。

「いってきます」

 小さく呟き、確かな足取りで扉の向こうへと歩き出す。


 新たな一歩を踏み出した稔の背中を押すように、暖かな光を纏った一条の風が吹き抜けた。

 微かに両目に浮かんだ涙は、春風が目に染みたせいだろうか。


お読みいただきありがとうございました。

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