運と解釈
「成功は全て幸運と行動力か?」
「そういう人も多いが、実力と論理の人もいるだろう。特定の人だけで論理と実力が関係ないと思い込むのは偏見だ。論理の力を獲得するのが運といえば……それはそうだが。
とは言え論理を兼ね備える脳はやはり大多数が持つものだ。つまり、論理力も運だろというのは正しいかもしれないが、自分が論理力がある可能性が多くあるのに否定するだけの場合は、どの立場からの言葉なのかという話になる」
「では、意思はどうだ。運か?」
「意思も運といえば運だが、幸運に恵まれていないと思うかは別だ。完全客観では確かにこの世は運であるというのは正しい。だが、現実問題人間であるのなら、運ではなく幸運が与えられていると解釈しても良い。幸運に恵まれたならそれを活かそうとするのは……まあ、普通の考えじゃないか?」
「幸運に驕ると?」
「偶然でも、幸運に恵まれたらそれを活かしたほうが、個人だけではなく全体としても幸福になる割合が増えるだろう。運が全てでも今の自分をその幸運に恵まれている側だと考えても良い。意思が運なら、自分は運に恵まれている側か、恵まれていない側か? 自らを恵まれている側だと定義してもいい」
「お前は幸運か?」
「そうだな……俺は幸運だ。だからそれを活かそうとするし、誰かに分け与えたらと思う。人間であることが幸運だ。幸運はいつだって自分にあると定義しても良いだろう」
「本当に幸運と自らを定義することに必ずメリットはあるのか?」
「どういう事だ?」
「確かに幸運を持つと解釈してもいいのかもしれない。だが自らが幸運であると解釈するメリットは有るのか? 幸運や不運とかは結局苦しみの解釈で、苦しみは単純な肉体精神環境によるものだ。幸運と解釈して幸せなのはお前らが疲れていないから。疲れている人は幸運と解釈することにメリットはない。苦しみが薄い人がそれで幸せになろうが幸運と解釈することが全ての利益ではない」




