猫になれたらよかった
楽しかったり怒ったり、気分が高揚すると頭に猫耳が生えてしまう特異体質の猫娘、倉島沙羅が、心に傷を負った黒澤美麗奈という女の子と友達になるまでのお話。
さくら学院2016年度卒業生のお二人を主人公にした軽いファンタジーです。
「沙羅、耳出てる。」
ママにキッチンから言われて、頭触ったら、ふわん、としたあったかい感触が手のひらに伝わる。いいじゃん別に。
「いいじゃん別に」思ったことがそのまま口に出た。「家の中なんだし。」
「朝っぱらから何ニヤついてるの」ママがお弁当箱におかず詰めながら言う。ふんっ、と鼻に力入れて、頭に出てるものを引っ込めた。「ベーコン目玉焼き好きなんだもん。」
「外では気をつけなさいよ」ママがパパの前にコーヒー置いた。パパがこっちを見ない振りして見てる視線感じる。心配症のパパ。娘がこんなでは会社でも気が休まらないでしょうねぇ。ちょっと前、3人で夜にテレビ見てて、偶然映ったキャットフードのCMで猫の顔がアップになって、パパがソファから転げ落ちそうになっちゃって、ママも私も気づかないフリするのが大変だったんだよなぁ。パパの慌てぶりに噴き出しそうになって、私の頭にぽよん、と真っ白な猫耳が生えちゃったから、余計に空気が気まずくなっちゃったしなぁ。すぐ引っ込めたけど。
私の通ってる秋桜学園女子高校の制服はベレー帽が特徴なのだけど、このベレー帽にはホント救われてる。気持ちがウキウキしたり、楽しくなっちゃうと頭に猫耳が生えちゃう、という特異体質が、通学中に顕現しても、帽子がモコッと膨らむだけでなんとかごまかすことができる。まあ、学校内では無帽なので、通学途中だけの安全装置ではあるんだけど。
自分なりにこの特異体質の原因は分かっていて、中学3年の時、近所の道路で車に轢かれそうになっていた白猫を助けようとして、思わず車道に飛び出して、猫もろとも車にはねられて以来、こういう体質になってしまった。車にぶつかった衝撃で空中に投げ出されて、クルクル回転する世界の景色を眺めながら、ああ、私はこのまま地面に叩きつけられて死ぬんだなぁ、お父さんお母さん、先立つ不幸をお許しください、なんて妙に冷静に考えてたのまではっきり覚えている。視界に地面が近づいてきた一瞬、ふっと体が軽くなって、私は四つん這いでふわり、と地面に軟着陸していた。助けたはずの猫の姿は消えていて、私の頭には白い猫耳がふわん、と生えていた。
あの時の猫が、私と一体化することで2人分の命を守ったんだと思う、とパパとママに説明したけど、パパはそんな説明が耳に入る状態じゃなく、私の頭ににょっきり突き出した猫耳を見てほぼ失神寸前になっていた。そのパパを尻目にママは、「そりゃまた律儀な猫だねぇ」と感心しながら、「まぁ一回取り憑いたのならいつか出ていくでしょう」とあっけらかんと言った。ママが超楽天的な人だったおかげで、我が家の平穏は保たれている。
あれから2年経つけれど、私に取り憑いた猫さんはまだ出て行く気はないらしい。確かにちょっと困った体質ではあるけど、感情のコントロールさえうまくやれば、周囲にはバレずに済むわけで、幸い今のところ、私を怪奇猫娘なんてネタで取り上げようとするテレビ局は来てないし、解剖して猫耳の出現プロセスを解明しよう、なんていう科学者の一団も現れてない。
「倉島さん!」
朝の駅の改札抜けたところで、でっかい声が背中からぶつかってきてつんのめりそうになる。ため息ついて振り返ると、改札から砲弾みたいに満面の笑顔が飛び出してきた。
「黒澤さん…」
「間に合ったぁ!」身体ごとぶつかってくるみたいに駆け寄ってくる。改札口はガンダム放出するカタパルトじゃないんだがなぁ。「同じ電車乗りたかったんだぁ!」
「黒澤さんって全部にびっくりマークついてるみたいな喋り方するね」スタスタ歩いて行くと後ろからすがるようについてくる。「エクスクラメーションマークね!」
「何?」
「びっくりマークの正式名称!」
そうか、そういえば英語の授業で習った気もするな。しかし、びっくりマークの正式名称を教えるときにもびっくりマーク付きでしゃべるのかこの子は。
二週間前に、突然うちのクラスに転校してきたこの黒澤美麗奈という子は、たまたまうちの近所に住んでいて、最寄り駅が一緒、というだけで、初日の帰り道が一緒になった私にやたらとまとわりついてくる。友達100人できるかな、ってタイプなのかもしれないけど、それにしては勢いがありすぎるんだよなぁ。
「なんかさ、本当に、以前会ったことない!?」またその質問か。初日、初対面の時から言ってくるなぁ。
「近所だから、子供のころ公園とかで一緒になったことあるのかもね。」
「それだけかなぁ!なんか、初対面って感じがしないんだよね!」
本当のことを言うと、私もなんだかこの黒澤、という子が気になってるのは確かだ。秋口という季節外れに転校してきたこの子が、黒板の前に立って、教室中に響き渡る声で、「黒澤美麗奈です!」と名乗った時、なんだか胸のなかがむずっとした。あの感覚は何だったんだろう。
「それにしても、倉島さんってさ!」相変わらずびっくりマーク付きで黒澤さんが言う。「クールっていうか、ほんとにいつも冷静だよねぇ!笑ったところとか、見たことない気がする!」
「そうかな」正面の車窓の外を流れる景色をぼんやり見ながら答える。そりゃそうだよ、笑ったり怒ったり泣いたりしたら猫娘顕現しちゃうんだから。
「意識したことないの!?」
「あんまり」・・・嘘です、むっちゃ意識してます。
「なんか、カッコいいよねぇ!沈着冷静のクールビューティって感じで!」
「そりゃどうも」軽く受け流したけど、黒澤さんが満面の笑顔こっちに向けてきて、また胸のなかがむずっとした。なんだろう、この感じ。
下駄箱開けたら、中に手紙が入ってた。またか。
「え、どういうこと!?」黒澤さんが目を丸くしてる。しかしこの人の目はでかいなぁ。大きな目を見開いてでっかい声で言うから、あんたの目力でムッチャ周囲から注目されちゃったじゃんか。
「ラブレター?!こ、ここ女子高だよね!そんなことあるの!?」
「黒澤さん、声がでかいです。」
「あ、ごめん!」両手で手をふさいでいる。いちいち挙動が派手な奴だ。おかげで周囲の生徒の視線が一斉にこっちに集まっている。やれやれ。
「女子高生ってのは動物園のコアラ並みに暇だからねぇ。こういう刺激に飢えてるんでしょ。」
差出人は書いてない。ピンク色の封筒にハートのシールで封がしてある。まぁかわいらしいこと。こりゃかなりのぶりっ子だな。
「読まないの!?」カバンにそのまま放り込むと、黒澤さんが言った。
「あんたのおかげで注目浴びちゃったからね」上履き履きながら言う。「ここで読んだら人が集まってきちゃうでしょ。」
「そっか、差出人への気遣いだね!倉島さん、優しいなぁ!」
お前はいちいち顔がうるさいなぁ。
クールビューティを装わないといけなくなったことと、ボブカットで女子の中では上背のある外見のせいで(ボブカットなのは、猫耳のせいでヘアアレンジとかが面倒だからやむなくやってるヘアスタイルなんだが)、女の子に疑似恋愛感情持たれるのは初めてじゃない。まぁ嫌われるより好かれる方がありがたいけど、猫耳の本性知られても恋愛感情続くとは思えないので、お付き合いは遠慮する、というのは基本スタンスになっちゃうんだよなぁ。
「で、差出人は誰なの?」
「書いてないんだよねぇ。今日の放課後、北部児童公園に来てくださいって、それだけ。」
「その差出人に、こんな姿見られたら、色んな意味でヤバイと思うんですが。」
「いいじゃん、新谷と私の仲でしょ」新谷の膝に頬っぺたこすりつけると、猫耳の付け根のあたりをポリポリ掻いてくれた。ああああ。心地よい。猫娘になってよかったこといくつかあるけど、この快感はその最たるものだなぁ。
「倉島は私といる時ゆるみすぎなんだよなぁ。」
新谷柚子美と私がいるのは、音楽室の隣の楽器倉庫の隅だ。この季節、お昼休みの後半にはいい感じの日差しが差し込んで絶好のひなたぼっこエリア。確かにここに二人でしけこんでいる所見られたら、色んな意味でヤバイとは思うけど、ひなたぼっこしながらの猫耳ポリポリの快感には抗えないんだよなぁ。
「新谷は私に恋愛感情抱かないわけ?」私が言う。
「何をいまさら」新谷が言う。「気色悪いこと言わないの。」
新谷は小学校以来の私の幼馴染で、私が猫娘になった事故の現場に偶然居合わせた。あの時、猫耳生えてパニック状態になってる私と、慌てて車から飛び出してきた運転手さんを交互に見て、新谷が、「逃げるぞ!」と私の手を引いて駆け出してくれなかったら、私はどこかの大学病院に放り込まれて身体の隅々までスキャンされてたかもしれない。乙女の危機を救ってくれた恩人だ。
「倉島のクラスの転入生さ」新谷が猫耳ポリポリの手を少し止めて言う。ああああ、お願い、止めないで。
「黒澤さん?」猫耳ポリポリが再開されて喉ゴロゴロ鳴らしながら私が言うと、新谷は猫耳を丁寧に撫ぜて、「はい、今日はこれでおしまい」と頭をポン、と叩いた。なんで幸せな時間って永遠に続かないんだろう。
「黒澤さんがどうかした?」渋々身体を起こしながら言うと、新谷は立ち上がって窓際に歩み寄った。
「なんで今頃転入してきたのかな。転入試験の時期でもないのにさ。」
「海外からの帰国、とかじゃないの?」私は思いっきり伸びをしながら言う。
「そんな話したの?」新谷が言う。
「してない」
「今朝倉島と一緒に登校してたよね」新谷が窓の外を見下ろしている。「何の話したの?」
「別に大した話は」私は言う。「前にどこかで会ったことなかったかなって。」
「ナンパの決まり文句みたい」新谷が言う。「ちょっと猫耳引っ込めてこっち来て。」
ふんって耳引っ込めて窓際に寄ると、新谷が窓の下を指差す。校舎の裏の植え込みの近く。2つの人影が向き合ってるのが見えた。片方は黒澤さんだな。もう一人は誰だろう。
「いきなり校舎裏に呼び出すって穏やかじゃないねぇ」新谷が呟く。
黒澤さんに向き合ってた子が、何か大声で叫ぶと、そのまま駆け去っていった。黒澤さんは突っ立っているけど、その表情は窓からは見えない。背中だけが見える。また胸の奥がチリッとした。なんだろう。
「何ですかね?」私が言うと、新谷が、「原因はあんたじゃないですか」と言った。どういうことだ?
放課後、教科書片付けてたら、視界の隅に黒澤さんが入った。なんだか青い顔をして、机の周りでゴソゴソやっている。また胸がムズッとして、目が離せなくなる。なんだこの感覚。
「なんか探し物?」私が声をかけると、机の下にかがみ込んでる姿勢のままこっちを見上げた。怯えた小動物みたいな視線。「パスケースがないんだ。」
おや、びっくりマーク付きじゃないんだね。そりゃ定期券なくしちゃったら大損害だから落ち込むのは分かるけど。
「朝は普通に改札抜けてたもんね」私は言う。「家に忘れたわけじゃないよね。」
「カバンの取っ手にチェーンでつけてあるから…」語尾が消え入りそうになる。なんだ。パスケースなくしたぐらいでこんなに動揺するのか?胸の中のムズムズが激しくなる。この子もよく分からんが私自身もなんだかおかしい。
「教室に着いた時は確かにあったんだよね…」声だけじゃない、大きな目が潤んでる。胸の中のムズムズがバタバタ暴れ出す。なんだなんだ。
あ。
なんか今、頭の中で色々つながったぞ。
「黒澤さん、まず職員室に行こう」私が手を差し伸べると、潤んだ目のまま、微かに微笑んで手を握ってきた。また胸がギュッとなる。普段元気な子がこんな無防備な泣き顔見せるから、ギャップ萌えでキュンとしてるのかな。私にそんな乙女な側面あったとは思えないんだが。
「職員室なんか行ったらオオゴトになっちゃうでしょうに」新谷が楽器用具室のいつもの隠れ場所で腕組みして言う。
「だってそれしか思いつかなかったんだもん」私が言う側で、黒澤さんはまだうなだれている。まあでも、さっき教室で見せていた混沌と絶望の表情は少し和らいでいるかな。
黒澤さんの手を引いて教室を飛び出した出会い頭に、新谷が居合わせたのはラッキーだった。私はかなり殺気だった目をしていたらしくて、新谷が慌てて頭を指差してくれなかったら、怒りに逆立った猫耳が飛び出してしまっていたかもしれない。
「黒澤さん、転校の理由はイジメですか?」新谷が言った。
「…多分向こうは、イジメ、とは思ってなかったんだろうけど」黒澤さんは微かに微笑んで言った。「毎日必ずモノがなくなるんだ。」
本当に小さなモノばかり。消しゴム、鉛筆の類から、教科書、体操着、上履き。ごっそりなくなるわけじゃない、毎日一つずつ、必ず何かがなくなる。小さなモノだから、先生にも言えない。家族にもなかなか言い出せない。
「…最低だな」吐き捨てるように新谷が言う。新谷が先に言ってくれてよかった。さっきから猫耳が飛び出したがってウズウズしているのが分かる。毎日毎日、少しずつ小さな傷をつけられて続ければ、いつか心は壊れるだろう。パスケースを盗まれたという出来事で、辛い思い出がフラッシュバックしちゃったのも無理はない。
「私って、声もでかいし、空気読むの下手だしさ。なんか思ってることが全部顔に出るから、顔がうるさくってウザいって言われてさ。うまく自分コントロールできない私も悪いんだよ。だから、学校代わっても、やっぱり何かがなくなるんだなって。」
黒澤さんの大きな目からぽろぽろ涙がこぼれ始めた。「倉島さんはいいなぁって。しっかり自分コントロールできてて、周りも自分もちゃんと見えてて。でも、友達になりたいなんて思っちゃいけなかったんだ。こんなウザい私が。」
「自分のことウザいなんて言うな」声と感情ぐっと抑えて、膝の上で握りしめた黒澤さんの手に自分の手を重ねた。「あんたは何も悪いことしてない。顔がうるさいのは個性でしょ。褒め言葉だと思いな。」
涙でぐしょぐしょになった大きな目で見上げてくる。確かに思ってることが全部真っ直ぐ顔に出る子だなぁ。
「犯人のあてはついてる」新谷が言った。「落とし前つけてもらおやないの」
「新谷さんって、迫力あるよね」黒澤さんが囁いてくる。
「普段はもっとぽやんとしてるんだけどねぇ」私も小声で言う。「親が関西出身らしくて、怒ると関西弁出るんだよ。むっちゃ怖い。」
北部児童公園のベンチに新谷が腕組みして座っている。タコの形の滑り台の影に、私と黒澤さんの2人で身を隠して様子を見ているのだけど、新谷の周りにどす黒い怒りのオーラがメラメラ燃えてるのが見えるようだ。
朝、私の下駄箱に手紙入れた子が犯人だと思うって、新谷は言った。校舎の裏に黒澤呼び出したのも同一人物らしくて、「結構行動力あって思い込み激しそうだし、黒澤さんにターゲティングしてるのもはっきりしてるからさ。
「倉島は肝心な所で優しくなっちゃうから、私が話つける」新谷は言い切った。「ガツンと言ってやって目覚ましたらなアカン」
「穏便に済ませてほしいなぁ」黒澤さんが呟く。「そもそもやっぱり、私が空気読まないで、あんなでっかい声でみんなの注目集めちゃったのがいけないんだしさ。多分自分の手紙読んでもらえるか、ドキドキしながら隠れて様子見てたんだと思うんだよね。私だって彼女の立場になったら、頭来ると思う。」
「頭来たとしても、やっていいことと悪いことがあります」私は言う。「パスケース盗むのは窃盗です。警察呼ばれても仕方ないことなんだよ。」
「倉島さんはいいなぁ」と、黒澤さんは微笑んだ。「はっきりモノが言える勇気があって、なんでも話せる友達もいる。私にないものばっかりだ。」
「『ない』ものじゃなくて、『なかった』ものでしょ」私は言った。「友達とか、相談相手いなかったの?」
「話し相手はいたんだけど」と、黒澤さんは小さく微笑んだ。「急にいなくなっちゃった。」
「転校でもしたの?」私が言うと、微笑みはそのままに首を横に振る。「何も言わずに、急にいなくなっちゃったの。」
「あんた、誰?」尖った声がして、私たちは揃って首をすくめた。ベンチに腕組みして座っている新谷の目の前に、やっぱり腕組みして仁王立ちになってる子がいる。切長の意志の強そうな目。結構な美人だな。確かに、昼休みに校舎の裏で黒澤さんに喧嘩売ってた子のようだ。黒澤さんの方を見たら、確かにそうだと頷いた。
「2年B組の新谷柚子美」新谷が顔色変えずに言う。「あんた、1年A組の岡田恵美だね。」
「なんであんたがここにいるの?」岡田さんが負けじと声を張ってる。でも明らかに貫禄で負けてるなぁ。やっぱり新谷の裏番感凄えわ。
「倉島の代理で参りました。倉島はあんたみたいな性格ブス相手にする時間も惜しいってさ」いや、新谷さん、あたしゃそこまで言ってない。
「なんなの、みんな倉島先輩の親衛隊か何かなの?」岡田さんの声が震えて、ちょっと甲高くなる。「みんなして、倉島先輩独り占めにして!」
「誰も独り占めなんかしてへん」新谷はベンチから立ち上がった。岡田さんが思わず一歩後ずさる。「独り占めしたがっとるのはあんたの方や。子供が自分だけのおもちゃ欲しがってるんと変わらへん。さっさと帰ってお母さんにリカちゃん人形でもおねだりしたらええ。」
岡田さんの顔が真っ赤に染まるのが見える。新谷と一瞬睨み合ったけど、気迫で明らかに負けて、そのまま駆け出そうとする。「ちょっと待ちぃ!」新谷がすかさず声かけた。
「盗んだもん返しな。警察沙汰になる前に。」
岡田さんの顔から血の気が引いて、今度は紙みたいに白くなった。唇噛み締めて、カバンからパスケース取り出して、投げつけるみたいに新谷に放ってよこした。
「待て!」すぐ駆け出そうとする岡田さんの足を気合いで止めて、新谷がパスケースの中をあらためている。首を傾げた。「このポケット最初から空やったんか?」
「定期返せばいいんでしょ?」岡田さんが言う。
「なんか抜いたんと違うか?」新谷が相変わらず関西弁で凄むと、岡田さんは泣きそうな顔でカバンから一枚の紙みたいなものを出した。なんだろう。
「チェキか?」新谷が言う。
「私、ネコきらいなんだよね!」岡田さんは言うなり、自分のカバンを足元に放り出して、両手でそのチェキを持って、縦に真っ二つに引き裂いた。黒澤さんが私のそばで、あっと声を上げた瞬間、私も見てしまったのだ。黒澤さんが見たものを。
チェキに写っていたものを。
それは私だった。
白い猫だった。
私の中で、何かが爆発した。
あれは私だ思い出したあれは私だ白い猫だった頃の私だワタシダワタシダワタシダ
頭の猫耳だけじゃない、全身の毛穴から白い毛が湧き出すような感覚がする。体の奥から、私じゃないものが膨れ上がって、喉から獣の唸り声が漏れる。
そうか、そうだったのか。黒澤さんが言っていた、たった1人の話し相手。急にいなくなってしまった相談相手というのは、私と一体化したあの白い猫だったのか。黒澤さんに会ったとき、胸の中でキュンと震えていたのは、白い猫の私の記憶だったのか。猫としての私の想念と肉体が、倉島沙羅としての私と肉体を凌駕していくのを感じながら、倉島沙羅は必死に猫の怒りを抑えようとする。とてももう立っていられない。唸りながらぶっ倒れて地面で転げ回る。口に土が入る感覚が不快で、でも身体の中から湧き上がってくる獣の怒りが止まらない。黒澤さんが呆然と私を見つめているのが分かる。立ちあがろうとする私の身体の半分以上が猫に操られているのが分かる。新谷と岡田さんも気付いた。私の背中から噴き出した真っ白い毛が逆立って、岡田さんに向かって私が飛びかかろうとする。
あいつは私を引き裂いた私を殺したもう一度殺した私を殺したワタシをワタシヲワタシヲ
「倉島さん、ダメ!」横から黒澤が私に組み付いてきて、私はよろける。感情のコントロールも身体のコントロールも全然効かない。ただ猫の怒りの激流に押し流されて、身体がジタバタ暴れるのを、身体の中の倉島沙羅と、外の黒澤さんで必死に抑える。と、私の喉から声にならない咆哮が迸って、私のそばからふたつ、みっつ、よっつと、小さな塊が岡田さん目がけて飛んだ。
「猫が」黒澤さんが呆然と呟いた。「いつの間に。」
気がつけば、岡田さんと新谷の周りを十匹を超える猫が取り囲んで、背中を丸めて毛を逆立てながらジリジリと輪を狭めていく。新谷が岡田さんを庇ってうずくまるのが見える。10数匹の猫が、その背中に向かって飛びかかろうと跳躍の準備をする。ダメだ、そこまでやっちゃいけない。
私の中の猫の怒りが突撃の叫び声を上げようとしたその瞬間、目の前に黒い塊が覆いかぶさってきて、構わず私はそれに渾身の力で噛み付いた。声にならない悲鳴がして、静かな声が、私の猫耳のそばで呟いた。
「ミルク、もうやめて」
ミルク。
そうだ、私はこの子に、ミルク、と呼ばれていた。
気ままな野良猫だったけど、近所に何人か可愛がってくれる人間がいて、彼らが分けてくれる食べ物と、近所の残飯で私は生きてた。
そんな私のお散歩ルートの通り道、河川敷の野球グラウンドのそばの土手に、この子はいつも座っていた。
夕暮れ近い空を眺めながら、食べ残しのパンやミルクを分けてくれた。
私を、ミルク、と呼んでくれた。
いつも、大きな瞳に哀しげな笑みを浮かべて、私にはよく分からない話を聞かせてくれた。
どうしたら人に嫌われずに生きられるんだろう。
どうしたら人を傷つけずに生きられるんだろう。
どうしたら自分は愛されるんだろう。
どうしたら自分は信じてもらえるんだろう。
こんなにしんどいなら、こんなに苦しいなら、私、いっそ猫になれたらよかったのに。
自分は猫だから、何を問われても答えることなんかできない。
ただ話を聞いてあげるだけ。
あの日、突っ込んできた車の前で立ちすくんでしまった時、真っ先に思ったのは、この子のことだった。
あの問いかけを投げかける先を無くしてしまったら、
私という話し相手を無くしてしまったら、
この子は一体どうなってしまうんだろう。
そして思った。
どうしても生きたい、この子のために生きねば、と。
人間と一体になってなんとか心だけ生き延びて、人間の知恵を手に入れた今でも、この子の問いに答えるのは簡単じゃない。
人と人はどうやったら愛し合えるのか。
どうやったら信じ合えるのか。
どうやったら許し合えるのか。
でも、こうやって、私たちはまた出会えた。
また、ミルクって呼んでもらえた。
だったら、また問いかけてもらおう。
同じ問いを。
いつか、答えは見つかるかもしれない。
この子と2人で、答えを見つけることができるかもしれない。
体温がすうっと下がっていくのが分かる。口の中に血の味がして、気がつけば、美麗奈が肩口を押さえて顔をしかめていた。
「美麗奈、大丈夫?」聞くと、こっちを見上げて微笑んだ。その瞳に涙が浮かんだ。
「ミルクがいたよ!」私の瞳を覗き込んで言う。「沙羅の中に、ミルクがいた!私に話しかけてきた!2人で答えを見つけようって!」
「盛り上がってる所悪いんですが」新谷が疲れ果てた声をかけてきた。「倉島、あんたの正体この2人に知られちゃったけど、どうしますかね?」
立ち上がるとまだ地面にしゃがみ込んで、岡田さんが呆然とこっちを見上げている。見つめる視線が怯えている。歩み寄ると、ガタガタ震え出した。そりゃそうだよな。完全に化け猫妖怪の本性見せちゃったんだから。
「岡田さん」しゃがみ込んで、目を見つめた。「私の正体を他の人に喋るなら、あなたは私の敵になる。私はあなたを、今日よりもっとひどい目に合わせなきゃいけなくなるかもしれない。そんなこと、私はやりたくない。
「もしあなたが私の正体を黙っててくれるなら、あなたは私の味方だ。あなたの恋人にはなれないけど、友達にはなれる。新谷は体を張ってあなたを守ってくれた。美麗奈は、自分が傷ついても、暴走する私を止めてくれた。2人とも、私とあなたの恩人だ。私たちはみんな、友達になれる。」
岡田さんが立ち上がった。顔が真っ赤になってる。「友達にはなってくれるのね?」
「岡田さんのおかげで、昔の友達を思い出すことができた。岡田さんも恩人だもの。」
岡田さんの目に涙が浮かんだ。「パスケース盗んで、ごめんなさい。」
「いいよ!」美麗奈が言う。「私こそ、手紙見て、大きな声出しちゃってごめんね!」
「チェキ破っちゃってごめんなさい」岡田さんがしゃっくり上げながら言う。
「いいよ!」美麗奈が微笑む。「お陰でミルクにまた会えた!それに、倉島と友達になれたなら、ひょっとしたらいつか恋人にしてくれるかもしれないし!」
岡田さんの顔が紅潮を通り越してトマトみたいになった。「黒澤さんのイジワル!」と叫んで、駆け出して行ってしまった。あーあ。
「黒澤さん、ああいうことは大きな声で言わない方がいいと思うよ…」新谷が呆れ声で言った。ああ、と美麗奈が頭を抱える。
「まぁいいんじゃない、美麗奈らしいし」私がいうと、新谷が、あれ?という顔をした。「倉島、黒澤さんのこと、美麗奈って呼ぶの?」
「そういえば!」美麗奈が言う。「私もいつのまにか、沙羅って呼んでる!」
多分、私の中のミルクのせいだな。2人の距離がぐんと縮まった気がする。美麗奈が側にいるなら、多分ミルクも居心地よくて、私の中に腰据えちゃうだろうなぁ。
「新谷は私のこと、沙羅って呼んでくれないの?」私が言うと、新谷はベーっと舌を出した。「今更気持ち悪いこと言わないで。」
「じゃあ私の方から柚子美って呼ぼうかな。」
「気色悪いからマジやめてくれ。」
「沙羅、耳出てる!」
「いいからそれ、びっくりマーク付きで大声で言うのやめて。」
街には夕暮れが迫っていて、私たち3人の影が、足元から長く伸びているのが見える。私の影の頭にぴょこん、と出ている猫耳の影を、ふんって鼻に力を入れて引っ込めた。
おしまい
さくら学院2016年度卒業生の倉島颯良さんが、2018年度卒業生の新谷ゆづみさんとやっていたSaraYuzuTakeという配信番組があり、その中で、クイズに負けた方が猫耳のカチューシャをつける、という罰ゲーム付きクイズ企画がありました。
結果は・・・新谷さんの全敗。新谷さんの猫耳姿も可愛かったのですけど、倉島さんに一度猫耳をつけてほしかったなぁ、という妄想が暴走して、こんな小さなお話が出来上がってしまいました。
一応、さくら学院のことを知らない方も、お話として楽しめるようには書いたつもりです。
最後まで読んで下さった方がいらっしゃったら、本当に嬉しいです。