その9
充電したままになっていたスマホの音で目が覚めた。
いや、実は身体が熱くて寝苦しくて、少し早く目が覚めていたんだ。
だから、「はいはい、もう起きてるよ。うるさいな」とスマホに悪態をついていた。
階段を下りて麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けると空っぽの容器があった。
我が家のルールでは、家事は分担で夏だけ限定で最重要となっているルールがある。
これを破れば裁判沙汰のように犯人探しが始まってしまう事案なんだけど、
「麦茶の容器を空っぽにして仕舞うべからず!」である。
しかし、こんな暑い日にこんな下らないことでわざわざもめるのも嫌なので
僕はさっさとお茶を沸かして、がらんどうの容器にお茶を入れる。
「今日は早いわね。何か用事?」
「用事。ちょっと出かけてくる。」
2階から降りてきた母さんが冷蔵庫から降りてきて容器を取り出す。
当然まだ温いままだ。
「恐らく父さんだろ?たまには忘れることだってあるだろう。」
「忘れてはならないことは、この世の中には沢山あるの。」
面倒くさいなうちの母さん。
それともこれが普通なのだろうか?
変なところで神経質なくせに、妙なところで雑である。
面倒くさいから、さっさと食事を済ませて僕は家を出た。逃げ出した。
蝉の声とか鳥の声とかで鼓膜が大忙しだ。
その間を縫うようにして、車の音とか遠くでガタンゴトンと走る電車の音とか、
それに救急車やパトカーのサイレンとか、
まったく夏休みなのに忙しいな。どこもかしこも何もかも忙しいな。
「よお。今日もやってるな。」
目的地につくと、当然今日もそいつはいた。
彼女は僕に気付くと「おはよ」と返した。
「でも、図書館ではもう少し静かにね。」とすぐさまにお説教を食らってしまった。
「進捗は?」
「まぁまぁ。かな」
「そか、はやくサンタさんになれるといいな」
僕はそう言うとよもぎは「サンタさん『みたいに』」
と怒った口調で否定した。
「図書館ではもう少し静かにな」
どうも自分で言ったことに少しだけ照れを感じているらしい。後悔するなら言うな。
まぁでも、ようやく人並みに、というか天然が抜けてきたという感じなのか。
これからもこの調子で頼むよ。
「今はどんなお話を書いているんですか?」
そうまるでインタビューするような口調で聞いてみた。
教えてくれないだろうと思っていたが
「夢で見たことをお話にしようかなって思ったんだ。ああ、勿論そのままだと奇天烈で意味がわからなくなっちゃうから味付けはするけど・・・不思議な夢だった。」
よもぎは、その夢の話を浸るように語る。
表現した。
だけど、どれもこれも奇天烈で破天荒で聞いてて意味がわからなかった。
「だけどね。なんかさぁ・・・、」
よもぎはペンを止める。
「このお話は完成しないかも。」
「なんでだよ?完成したら見せてくれるって言ったじゃん?」
「完成したら、後悔するようなそんな気がする。というよりは完成させちゃダメな気がするんだよね。モヤモヤするんだよね」
頭を抱えるようにして彼女は悶える。
彼女にしては珍しい光景だった。ワシャワシャと髪を掻き乱す。
それくらいもどかしいのだろう。
「初めてだからそんなもんなんじゃないか?飽きたらでいいから僕に読ませてくれよ。」
「いや、でも完成させる。読んだら蓮、燃やしてくれる?」
モヤモヤというよりボヤボヤって感じだ。
「そんな、『ヨモギ・クロース先生』の初作品を燃やすなんて罪深いことできるわけないだろう?」
「勝手に名前をつけないで!」
「はいはい、図書館では静かにな。」
流石にからかいが過ぎたかもしれない。しかし、珍しいよもぎの憤怒面も拝めたからよしとするか。偉そうに。
「まぁ、折角だし完成したら完成したで、わざわざ燃やすこともないんじゃないか?後悔は成長に繋がるんだから大事に取っておこうぜ。」
そういうと肩の力を落としてくれたようだ。
いや、そもそもこんな怒髪衝天させたのも僕の発言でもあるんだけど。
完全には納得したわけではないようだけど、よもぎは「わかった」と承諾した。観念した。
「まぁ・・・」
「だから完成したら見せるよ」
繰り返すように言う。
行けたら行くよ。みたいな到底達成されない約束みたいで、なんだか寂しい約束だ。
僕の夏休みの課題みたいだ。
「それは終わらせなよ。」と叱られる。呆れた口調で。
「冗談だよ。」
「笑える冗談と笑えない冗談があるじゃない。課題は終わらせないとあとあと後悔するよ。卒業できないかもしれないし。卒業できないと遊べないよ」
「遊びにはいけるだろ。」
よもぎの中での許容できるボーダーラインはどうやら僕らとは違うらしかった。
だから、僕らが言う冗談は僕や美月の間で笑える話もよもぎにとっては地雷だったりする事もままあった。
「胸を張って遊びにいけるようにちゃんと課題はやっておいてよ。」
「はいはい。善処するよ。」
とはいうものの課題は全部自宅に置いてきてしまっていた。
「ところで、その本どうしたの?図書館の本じゃないみたいだけど・・・。」
「ああ、この前、美月の部屋の片付け手伝ってた時に借りた本。まだ途中だけど、もういいやって思ってさ。だから帰りに返してこようかなって」
「ふぅん・・・?」
よもぎは、僕の手から本を受け取るとパラパラと流し読みをした。
文字が掠れていて読みにくいだけの本、古めかしくてページとページが張り付いてしまっている本。
古本中の古本。
美月の本の扱いが悪いのか痛んでしまっている本。
難しい顔をしているので、よもぎはきっと怒っているんだろうな・・・。
そして、よもぎは僕の話を聞いて、こう呟いた。
「ミツキ・・・?って・・・・・・・・誰・・・?」
っと。
「・・・・・・・。」
外から侵入してくる蝉の声や、車の音、
図書館の中の人がささやく声や空調の小さな音、それらが一瞬凍りついてしまったように止まった。
「いや、美月だけど?天野美月。サンタさんって言った仕返しか何かか?」
冗談が嫌いって言ったのお前の方じゃなかったか?
「・・・・・・ミツキ・・・?思い出せない・・・。その人の家の片付けしてて借りた本って事?」
「そうだよ。お前もいたよな?」
「それいつの話?」
「・・・・・・・・・・」
「蓮・・・?大丈夫?」
世界5分前仮説というものがある。
しかし、その仮説が、僕にだけ皆とは違う記憶を植え付けられてしまったのかと思った。
まるで自分が可笑しいのかと、そう錯覚させられそうだ。
よもぎは不思議がるより、寧ろ心配した表情で僕を見つめる。
わかっているさ。
こいつは、こんな冗談を好むやつじゃない。
しかし、この辻褄の合わない気持ち悪さはなんだ。
不愉快で、そしてとても怖いと感じ、絶望した。
「ミツキって・・・・誰・・・・?」
脳に響くように、鼓膜に刻むように、
心の底に突き刺すように、その声は残った。




