その1
もしも、あの時もう一方を選んでいれば、きっと違う結果になっていたのだろう。
そう思うと悲しくて悔しくて堪らないんだ。
だけど、もしももう片方を選んでいなければ、きっと今はない。
そう思うとやっぱり切なくて切なくて両目に涙を溜めていたんだろう。
そんなどうしようもない「選択」に私は小さな子供みたいな癇癪を起こす。
「なぁ、教えてくれよ。私はどうすればよかったんだ・・・」
無作為に八つ当たりをして泥だらけになってしまった両手を睨みつけながら涙声をあげる。
そのあふれ出した声は弱弱しく震えていた。
そして、その悔しさは夕日が沈んでオレンジからコバルトブルーに染め上げるのと同じように薄らいでいった。
ピピピピッという、恐らくは昨日設定しておいたスマホのアラームで僕、東雲 蓮は心地よいまどろみから叩き起こされる。
まだ半分眠っている脳みそへ鼓膜を伝って、遠くから聞こえて来る電車の走る音や五月蝿いばかりの蝉の鳴き声に支えられて
ようやく、身体がシャンとしてくる。
ただし、気持ちとしてはまだやんわりとベッドが恋しくなっている。
夏休みなので学校へ行かなくちゃいけないわけではない、そして同じようにバイトの出勤日であるわけでもない。
その僕の憂鬱の答えは別にあった。
「どこか出掛けるの?」
休日は昼近くまで寝ていて折角のハッピーデイを半分も台無しにしてしまう僕を不思議そうというか、どちらかといえば
驚いた様子で迎える母さんに対し僕は「んー」とだけ生返事をして朝食を求めて冷蔵庫を物色する。
昨日の晩御飯の残りの炒飯と、コンビニで衝動的に買って来たチョコチップパンを入手した。
「あんた、ご飯とパン両方食べるの?」
「腹減ってるからね。」
「そういう意味じゃないんだけど・・・、まぁ、いっか」
小食だけど、これくらいの量なら全然いけるだろうし、それに今日は少し多く食べるくらいがちょうどいいかもしれなかった。
きっと母さんは可笑しな食べ合わせだって言いたかったのだろうけどね。
そうして、僕がチョコチップパンを口につめているところへ、再度スマホが震えだした。
アラームを切り忘れてスヌーズでもしてるんだろうか。
とアラームを解除しようとポケットから取り出すと、しかしそれはアラームではなかった。
SNSから画面には送信者不明で送られてきたメッセージが表示されていた。
『ココハ ドコダ ナニモミエナイ』
『ミンナ ドコニイルンダ』
何かの広告かと思ってブロックなり通報なりしてやろうかと思ったんだけど
しかしどう弄ってもブロックできない。
最近はこういう広告も強化されてきているのだろうか。
それとも誰かの陰謀なのだろうか・・・。
そう思ったら一人の人物に行き当たった。
こんな事をする阿呆は一人しかいない。
一瞬だけこの通知にビックリしてしまったので、少しばかり怒りを込めてその通知に対し
怒った顔のスタンプを送信する。
「まったく、どうしてアイツはこういう事にばかり頭が回るんだろう。」
どうやってるのかは分からないが、アイツはそういう悪ふざけばかりしている。
悪いほうへの信頼だ。
溜息も朝食も、そして悪態も程ほどにさっさと出掛ける仕度を整える。
そして、僕はアイツ、天野美月の家に出掛けた。
自転車に乗り、長い団地の下り坂を一気に降りていく
まるでジェットコースターのように風を切って滑り降りるのは実に爽快で、遠くの光景が空気遠近で青白くなっているのが次第に
薄らいでいく。
これは朝早くで、しかも晴れている時にだけ味わえる醍醐味だ。
美月の手伝いをしなくちゃいけないっていう面倒くさい行事の日じゃなければ、もっと爽快なんだけれどな。
坂を下り終えると今度は長い平地で、その後は短い上り坂。その後、目的地まで下り坂上り坂が3回ほど繰り返される。
いつもなら、この上り坂を行く前にある駅で自転車を降りて各駅停車の電車に乗り換えて大学へ向かうのだけれど
それを横目に真っ直ぐ坂を登って行く。
「遅いなぁ。本当にお前は朝が弱いんだな。夜行性生物みてぇだな。」
「そっくり返すよ。」
到着早々、悪態をつかれる。
こっちはこっちで体力を奪われるような運動を強いられているので言い返す体力もない。
自動販売機で買っておいたコーラで体力回復を図る。
「よもぎなんて、お前がくる一時間くらいも前から居たぞ?」
転がっていた本に夢中になりながらも、緑ヶ丘よもぎは短く切った前髪を弄りながら困ったように笑って見せた。
予定の時間には間に合ってるんだから別にいいだろ。と言いたい。
「普段なら、お前の方が朝寝坊するくせによく言うよ」
そう言うと、美月はフンっと鼻息交じりに偉そうな顔をしてみせる。
「それはちょっと前の私だな。今の私はもう過去の私ではない。お前等が大学で空調の効いたぬるま湯で甘やかされている間、
私は荒れ狂う職場否、戦場で心身共に研ぎ澄まされているのだ!」
彼女は小さなちゃぶ台に足をドカリと乗せて語る。
立ち姿だけ見るとなんだか行儀の悪いクラーク像って感じだ。職場で研ぎ澄まされた精神はこの女にマナーというものは実装してくれなかったのだろうか。
「そういうのは、容量の問題で実装不可能だった。人間ってやつは身の丈にあった生き方しかできないようになっているんだよ」
そういうもんだ。と、これまた偉そうに語る。
というか、いいから早くその足をちゃぶ台からどけてやれよ。可哀想だろう。
本来、このちゃぶ台は美月の就職祝いという事で仲の良かった先輩がプレゼントしてくれた物で、何かのブランド物だと聞いていたんだけど
先輩も、まさか足を乗せるために使われるとは思っていなかっただろう。
「案外、先輩もこうなるだろう事を見越してたかもしれないよ?」
「言いえて妙って感じだな。」
「お前等、ひょっとして私の事馬鹿にしてるのか?」
さぁな。というジェスチャーをしてみせるが、もちろん馬鹿にしている。
さっきの美月の『身の丈』というキーワードを借りるようだけど、まぁ、まさにその通りで
美月は僕とよもぎとは違って、お世辞にも大学へ進学するようなタイプではなかった。
勉強自体は、まさに『やれば出来る子』ってやつで幼稚園から一緒である美月は僕達と同じ高校に行きたいからっていう理由で
頑張って勉強して見事に受験に成功したわけだけど、
まぁ、その逆も然りで『頑張らなかったら酷い子』であった。
怠けると留年すら危ぶまれ、毎年担任の教師の手を焼き尽くした。
その癖、態度だけは一丁前なので教師の顔も真っ赤になること請け合いで、美月の両親どころか僕やよもぎにまで迷惑をかけるという有様だった。
「仕事は?楽しい?」
「くそだな。毎日忙しいし覚えること多いしな。」
よもぎの質問に対し、眉間に皺を寄せて即答する。
が、それでも美月はこう付け足した。
「でも、出来なくはない。少なくとも勉強よりかは楽チンだな」
「意外だな。僕はもっと早く辞めると思ってた。辛くなると毎回言ってたしな『やべぇわ。これ死ねるぅ!!』ってさ」
「モノマネ似てねぇ」とご本人直々に低評価。
「まぁ、強くしてニューゲームを繰り返してるんだよ私は。」
幼稚園から一緒である僕達だけれど、高校卒業で遂に美月だけが別の道に進んだのには訳があった。
それに関してのエンジンは実は詳しくは分からないんだけど、急に独り暮らしがしたいと言い出したのだ。
そして、地元の自動車製造工場に就職してつい最近、その野望が叶ったという事だった。
しかし、もちろん美月のその野望はただ独り暮らしがしたいというものではなかった。
「自分で稼いだ金で、漫画喫茶みてぇな部屋で生活がしたい!」という事だった。
で、本日はその野望の手伝いで部屋に大量に本棚を取り寄せ、組み立て、マンガの本を詰め込みにきたという塩梅だ。
マンガの本とは言ったが、どうやら本人としては別にマンガじゃなくて小説とか参考書とかでもよいらしい。
漫画喫茶『みたいな』部屋というオーダーなので、つまり雰囲気が大事なのだとか。
実に適当な性格をしている。
「わかんないかなぁ。こういうのは気分が大事なんだよ。インストの曲とかそういう雰囲気で。って感じでよく聴くだろ?」
「わからなくはないんだけど・・・」
参考書とコミックスの間に無理矢理分厚い小説をギチギチと差し込みながら言う。
こんな雑な性格をしているが、聞いて驚けこの女の血液型はA型である。
「確かに、雰囲気って大事だよね。」
いつの間にか棚一つ分、本を仕舞い終えてよもぎは新しい本棚を組み立てに掛かっている。
「悲しい雰囲気の曲聴いてると悲しくなるし、楽しい気分の曲聴いてるとウキウキしてくる。トランスっていう感じだよね」
「・・・あぁ、まぁ、そんな感じ。ところで後でトランプやろうぜ。昨日ちょっと面白いデザインのトランプ買ったんだよ。」
「へぇ、いいよ。じゃぁ早く終わらせなきゃね」
明らかにトランスというキーワードで思い出したのだろう、そんな飽き性の美月を早々に仕事に戻させる。
「よもぎって何か、幼稚園の先生とか似合いそうだよなぁ」
ちょっと違うけど、介護士とかもいけそうだ。
「負けた奴は勝った奴にジュース奢りだな。」
定番の罰ゲームの提案だ。ただゲームするんじゃつまらないから、やはりちょっとしたスパイスは必要だ。
しかし
「おいおい、私達はもう高校生じゃないんだぜ?折角だし、もっと罰ゲームのレートを上げてもいいんじゃねぇか?」
カードを配りながら悪戯者のようなニヤリ顔でそう呟く。
「お前は社会人になったとはいえ、こっちはまだ金のない大学生だぞ?」
「安心しろ。私だって金はない。」偉そうに言う。
「だから、敗者は勝者の言う事を何でも聞くとかにしよう」
酷い無計画者だった。安心なんて一瞬で消し飛ばし絶望しか残らなかった。
「程ほどにしてね」と困ったように笑うよもぎは、また読書に夢中だ。
そんなに困ってるわけじゃないんじゃないだろうか。
実際に、開催されたババ抜きでは当然というか何と言うかさっさと自分だけあがってしまい、
勝負は僕と美月の一騎打ちとなっていた。
「どうしたよ。さっさと選ばないと日が暮れちまうぞ?」
歪なデザインのカードに睨みつけていると、その奥から水を差すような声を響かせる。
「ひょっとしたらイカサマでもしてるんじゃないかと思ってさ。実際、やりかねないしな」
そういう変な事にばかり頭が働くので、やはり信用が無い。
そう思うと歪なデザインのカードが余計に可笑しなものに見えてくる。疑心暗鬼というかおおかみ少年というかだ。
ただし、相手取っているのは社会人の少女なんだけど。
「イカサマしてたら、一番にあがってるだろ?」と言われて「確かに。」と納得する。
いやいや、これも美月の作戦とも取れるんじゃないか?
敢えてよもぎには勝たせて、2番手にあがり僕をビリにして信憑性をあげようという。
疑心暗鬼も泥沼に陥ればどこまでもだ。
本当に日が暮れそうだ。
右か・・・左か・・・
いや、というかよもぎが一番であがってるんだし、正直なところ僕がビリになったところで美月みたいに可笑しな命令はしてこないだろう。
だから、別にここで負けてもいいんだろうけど、何となく美月に負けるのが単純に嫌だというか、腹立たしいだけなんだよな。
まぁ、これもただの我侭みたいなもんだけどね。
「蓮くんよ。」
「なんだよ。」唐突な君付けに違和感を覚えながらも返事を返す。
視線をカードから美月の方へ移すとやはり偉そうなニヤリ顔をしていた。
「人生ってやつは二者択一であると思わないか?どんなに重要であってもさ。そして、それは常に逃げられないものなのだよ。」
また可笑しな語りをはじめた。
美月はなんだか偉そうになると役者口調になる。それが癖なのかわざとなのかは分からないが、大袈裟で飽きないのだろうか。
「例えば、私とよもぎが全身をガッチガチに拘束された状態で海に沈められそうになっているとしよう。そんな場合どっちを助ける?」
「バラエティー番組のセットみたいだな。いや、それは二人とも助けるしかないだろ。」
と言い切るか言い切らないかというところで美月は「ブブー!」と唾を飛ばすような勢いで遮る。
女子としてはしたない。
「お前人の話し聞けよ。二者択一って言っただろうが。」
「もうトランプに集中させてくれよ頼むから。」寧ろ、そんな精神攻撃してでも僕に負けたくないのはお前の方なのか?
「じゃぁ、私とよもぎ、両方からプロポーズされたらどっちとる?」
「ブフッ!」妙な声で口の中のお茶を噴出しそうになったのは僕ではなくよもぎの方だった。
「は?そんなのよもぎに決まってるだろ?ふざけんな。」
ちょっと面白かったので、僕は畳かける事にした。
一人勝ちした後で、ずっと無表情で読書しているもんだから少しだけからかってやろうと思ったのだ。
すると、その無表情は期待を裏切ることなくお茶で咽たりと慌てふためいていた。可愛いなコイツ。
「いやぁ、ふられちゃったぜ。残念だな」
「ま、仕返しだよ。仕返し」
大根役者もいいとこと言える様な棒読みに対し、しばらくの間僕らはそうして嘲ていた。
帰りは美月が僕とよもぎを途中まで見送ってくれた。
幼馴染だとはいえ、成るほど社会人になって成長したというのは嘘ではないらしかった。
「手伝ってくれたのには、まぁ素直に感謝してっかんな。これなら貸し借りなしになんだろ?」と言った。
そのセリフさえなければ百点満天だったのだろう。
「ま、次もまた頼むかもだから、よろしく頼むわ。焼肉くらい奢ってやるし。」
「むっちゃ上から目線!焼肉好きだけど。」
「そこまでは気にしなくても・・・」
遠慮がちなよもぎも含めて、あーだこーだと次の予定を立てる。
二人と別れて、さて夕暮れでもお構い無しに泣き喚く蝉の声や首を絞めるような暑さ、そして遠くから聞こえる救急車の音よりもさきに
一日の疲れが一気に襲い掛かってきて僕はベッドに倒れこむとすぐに眠ってしまった。