ちょろりん✩ちゅるりら✩ちょろぴっぴ
うどんをテーブルに置く。そして椅子に腰掛ける。目の前でほかほかと出汁の薫りを漂わすうどんの前に対峙する。
そのとき人は、人でなくなるだろう。ぱんっと割り箸を割ってしまえば最後、人は人としての機能を失って、ただうどんを食べる為だけの木偶の坊になる。
すべての意識、視界をシャットアウト。ただその目に映るのはうどんだけだ。食欲をそそる天かすの油っぽい香りの中、ネギを掻き分ければ白くツヤツヤした麺が姿を現す。さっと絡めて、ズズズッ。噛まずに飲み込むのがうどんの流儀。嘘。ちょっと噛む。ふわりとした優しいイリコの風味に合わさったのは、絶妙なコシと小麦の薫り。ゴクゴクと一度、絶妙な熱さの出汁を飲みつつ、またズルリとすする。
「んんぁ、うっまい」
思わずこぼれた独り言、いかんいかんとまたうどんの世界に戻っていく。ずるずる。
ただの社会人、ただのOLになった私のランチは全くオシャレじゃない。もっぱら常連客になったのは、会社の近所にある、地味ぃなうどん屋。さっきからひっきりなしにサラリーマンやら学生やら、とにかく老若男女が入店し、うどんを受け取り、無言で座る。席を立った人が「ごちそうさま」と言いながらどんぶりを返す。のんびりとした香りの中、異常に回転率が早くて慌ただしい矛盾が愛おしくて仕方ない。
人はうどんと向き合うとき、ただうどんを食べるだけの木偶の坊になる。そこにはなにもいらなくて、ただ目の前のうどんと二人きりの世界。白い湯気の中、二人きりで語り合うのだ。ずるずる。ちゅるんっ。最後の麺、3本同時にちゅるるるん。早くも食べ終えてしまった。ごちそうさま!
口元をティッシュで拭いたあと、もう一度最後まで出汁を飲んだ。無駄にもう一回口元を拭いて、さっと口紅を塗り直す。席を立ったとき、ちらりとその横顔を見てしまう。
私は悪い奴だ。うどんを食べるときは、うどんと私だけの世界に入らなきゃいけないのに、ほんとはそれができてない。トクトク、心臓が早鳴る。これ以上は危ない。気づかれちゃう。さっと顔を背けて返却口にまで足を急がせた。
私はうどんが好きだ。うどんが好きな自分が好きだ。なのに、最近の私はうどん以外にも目を奪われてる。こんなの浮気だ。店から出る時に、もう一度その横顔を見てしまった。
夏井まちこ、社会人2年目。いい年こいた大人だけど、多分いま、恋をしてる。相手の名前も素性も知らない。
私は彼の、ただうどんを食べてる横顔しか知らない。
○ ○ ○
一目惚れってやつがほんとにあるなんて、24年? いや、もうすぐ25年になるのかな? 生きてて初めて知った。都市伝説だと思ってたから。大学を卒業して、そのまま適当な会社のOLになって2年。特に何もなく、ただ仕事をして、帰ってお母さんの作ったご飯を食べ、お風呂に入って寝る。時々友達と電話したり、ご飯を食べに行ったり。普通すぎて特筆すべき点もないまま暮らしてた。もちろんそこに男の影はまったくない。会社の男性? ほとんど既婚者だよ、上司のオッサンたちは。同期はほとんど女の子だったし、わりと恋愛面は残念だった。
別に見た目は悪くないはず。黒髪を結っていつもスーツってかなり地味だけど、化粧だけは頑張ってる。いや、それ以外に正直お金をかけるところが無くて、無駄に高い化粧品を買っちゃうというか。うーん、残念な女。本当に。
残念な女だけど、友達やら同期とならおしゃれランチも全然あり。でもそれよりも、質素&平平凡凡なうどん屋のほうが本当は好き。私が通い倒してるココとか、特に。見た目は古い木造一階建てで、『うどん屋 おになし』って太い字の看板がかかってる。よく言えば歴史のあるお店なんだろうし悪く言えばオンボロ。そのくらいの方が落ち着くから、カフェなんかよりも断然大好き。
そんなうどん屋でだ。まるで冷やだしでもぶっかけられたかと思うほどの衝撃と一緒に、まんまと恋におちたのは確か二週間前。たまたま釜たま、偶然の出来事。
何でもない日だった。いつものようにお昼休憩、オフィスを抜け出して向かうのは『うどん屋 おになし』。今日は釜たまうどんにしようかな〜って空を見上げながら考えつつ、徒歩3分。いい香りが外まで漂うその場所……の、戸の前に、若い男の人が立っていたのだ。
「……んん?」
男は、ウンウンと唸りながら店先のメニューを真剣に睨みつけている。そして、片手で持っていた鞄をバンバン叩きながら中を漁って、またため息をついた。恨めしそうに開いた戸の中を見ている。
「……あやしすぎる」
ひょろひょろした長い腕で、モジャモジャパーマを掻いた男は、ぱっと私の方を見た。驚いて固まる。固まってたら、たちまち男は笑顔になった。くしゃっと口元にシワができて、目元が垂れる。急に笑顔を向けられてどうしていいのかさっぱりわからん。
「あの、毎日ここ来てますよね」
わりと耳心地のいい、低い声だった。私は慌てて「え、あ、ハイ」と答える。また男はパァっと笑った。
「いや、すみません……いつもお見かけする人だったから。そして初対面で申し訳ない……実は今日、来たのはいいけど財布を忘れちゃって……」
肩を落としてシュンとする。表情がころころ変わって忙しい男だ。……それでか、嫌に店の前で挙動不審だったのは!
うどんの良いところは、ズバリ安くて早くて美味しいとこだ。たかだか500円もだせば、満足いっぱい幸せ気分になれる。私は二つ返事で「いいですよ、お金貸します貸します」と言ってのけた。たいした額じゃないし。
男はまた笑顔を咲かせた。私の目と鼻の先にまでズンズン歩いてきて、急に両手を取って、ぶんぶん。
「ありがとう、助かった! また来られますよね! 絶対返しますから!」
「う、はは、はい。全然、大丈夫です。入りますか、うどん食べましょ…………って早いな!」
私が言い終わる前にさっさと男は戸を開けて中に入ってしまった。なんだこいつ。やばいやつ。慌ててついて入ったわたしは、「肉ぶっかけうどん、並で」と注文した。その横で、男は「熱、かけうどん大!」と元気に注文していた。そして上機嫌でかき揚げを皿に載せた。この野郎、人の金なんだけど……! 贅沢するな!
「会計一緒で」と店の人に言うと、不思議そうな顔をされる。1000円ちょっと払ってトレイを持つと、男がニコニコしながら「ここ空いてますよー」と私に声をかけた。ネギと天かすをまだ入れてなかった私は「わかった」と短く返事して、ネギ天かすコーナーに足を運んだ。
男のところに座ると、私の分の水を差し出され、笑いかけられる。
「助かりました、いくらでしたか? 明日絶対返します!」
屈託ない笑顔で言われると、こっちがなんか恥ずかしい。
「気にしないで、た、食べようか」
たかだかうどん大と、かき揚げで贅沢とか思ってごめん。ぱきん、と割り箸を割って、うどんの中に突っ込む。ぐるりとかき回せば、そこは私だけのうどんの世界。どんぶりを持って、ズルズルッと啜れば、甘辛い肉と絡んだツルツルの麺が口いっぱいの幸せを運んでくれる。そのまま、肉と一緒にはゴックン。出汁をズズズー。たまんない。上にかかった大根おろしを今度は絡めてみる。さっぱりとした風味が、また出汁に合うのだ。あ、レモンも絞ろう。薫り高く、極上の旨み。一時の幸福だ。
何口か満喫したあと、ちらっ……と、うどんから意識が離れて、隣を見てしまう。男は薄い眼鏡が曇るのも全く気にとめず、一心不乱にうどんをすすっていた。ずるずるずるずる。すすって顔を上げるたびに、白い眼鏡越しの両目がきらきらと光っている。よっぽど、ああ幸せなんだなあって、うどん大好きかよコイツって……。
「…………お姉さん?」
いつまで見てたんだろう。話しかけられて、我に返る。えっ、私、さてはずっと見てた? 知らん男の、うどんを食べる姿を? うぐ、我ながらキッツい。でも仕方ない……その食べっぷりが可愛くて、なんかいつまでも見れそうっていうか。
「なんか、すっごく美味しそうに食べるね」
感心して言うと「おねーさんも相当幸せそうに食べるね。素敵だと思う」と微笑まれた。
……ヤバイ。男の影無く生きてきた私に、そのマイルドな微笑は効く。やめてくれ。バッコン! とわかりやすく心臓が鳴った。ちょっろ! 今の音、聞いたか私……!? あまりにチョロすぎる。多分、熱くなったであろう顔を隠すように、私はまたうどんに向き合った。ズルズルズル。どんぶりで顔を隠すみたいにして、おおげさに麺を飲みこんでいく。あつい、アツすぎる。
うどんのどんぶりの端から、ちらりと横目で覗く。あんなに山盛りだったうどんをたいらげてしまった男は、ニコニコとしながら手を合わせて「ごちそうさま」とつぶやいた。私はうどんと2人きりの世界に帰っていきたい。なのに、どうしてだ?
さっきから全然、あんなに大好きなイリコだしの味がしないや。
○ ○ ○
「おねーさん、やっぱりよく来るんだね」
お金を返してもらったら、もうただの常連同士になっちゃう。意地の悪い私は、あれからわざとこの男を避けていたのだ。ただ、ちろっと横顔を見るだけで、気づいてないふりをして。毎日毎日、足早にお店を出てた。うどん屋って長居する場所じゃないし。ただただ回転率に貢献してた。
……だから、ある日突然、並んでるところで例の男に話しかけれて、心臓がびっくりした。迂闊だった。いつもより仕事が長引いて休憩が遅くなったのが原因か。
ああ、ついにお金を返されてしまうのか。もう少し待ってほしかった。私の頭がおかしいのが、治ってからにしてほしかった。
「いやぁ、おねーさん見つけても帰っていくところでなかなか声かけられなくて」
そりゃそうでしょうよ。わざとですし。
「お金返すか、今度は僕がおごるか、どっちがいいですかね?」
トレイを私に渡しながら、男はマイルドに笑う。
「……じゃ、あ、おごりで」
焦りと共に、そう言ってみる。カウンター越しの、麺を切ってるおっちゃんに向かって「かけうどん、大!」と言ってみた。おっちゃん、目をまんまるにしてこちらを見る。
「大、でいいの?」
「おなかへってて」
男は私を見て「おねーさん、やるなあ」と笑った。
「俺も同じやつで、会計一緒で」
男はトレイを台に滑らせつつ、今日はえびてんをお皿にのせていた。私は、さつまいものてんぷら、かき揚げ。なかなかのボリューム。油のいいにおいに、おなかがグゥと鳴った。身体は正直か、頭は大パニックなのに!
天かす、ネギをきれいにうどんの上にのせる。うどんの白、ネギの緑、天かすの黄色のコントラスト……ああ、いつ見ても芸術! 先に座っていると、男が2つ水の入ったコップを持ってきた。並んで座って、割り箸パキン。多分もう、二度と話すことはない相手と並んでうどんをずるずるずる。
「やっぱここ、おいしいですよねー」
のんきに話しかけるんじゃない、目の前のうどんに集中しろ! ……と言いたいけど、頭がおかしくなった弱みだ。一度は許す。
「ほんと、おいしいよね。毎日来ちゃうし……安いし、幸せになれるから」
すすったあとの口を一度拭いて、私はつぶやく。
「きみも毎日来てるのかな」
「大学の空きコマが合えばですけど」
ぶは。吹き出しそうになった。
若いと思ったけど大学生だと!
男はまたうどんをすする。あっというまに麺の山が崩れていく。私の山は、食べても食べても減らないのに。
「いいなあ、大学生は」
「おねーさんは社会人なんだ」
「そうだよ、毎日お昼は一人うどんの枯れOLだよ……」
自分で言ってて悲しくないか? 悲しくない。やっぱり悲しいから、七味を入れてみた。ばばばば。かけすぎた。
辛みが合わさった、真っ白モチモチなうどんをまたすする。かけうどんの素晴らしいところは、何にでも変身できるところ。トッピングで、人それぞれのかけうどんが食べられるところ。
天ぷらを挟みながら、ずるずるずる。つるつるつる。どんどん山は崩れてきた。もう、彼の山に追いつきそうだ。
「おねーさん、可愛いのに彼氏とかいないの?」
ぴたっ。
せっかく、うどんに集中してたのに! 箸が止まる。完全にうどんに集中する力がプッツリ切れた。
「ごめん、失礼だった?」
うどんを口にくわえたままの間抜けな私は、びっくりして男を眺めてしまう。なんと見たことか、男は顔を赤くしてワタワタしているではないか。
ずるずる……。
すすって飲みこんで、ごっくん。私は苦笑いでお答えしてやる。
「毎日一人でうどん食ってるような私に、いるわけないじゃん」
「……俺は、うどん毎日食べる人素敵だと思うけど」
「なに? どうした? もしかして私ナンパされてる?」
率直なクエスチョンを口にしてみると、「ばれた」と男は笑いやがった。
嘘ぉ。
「おねーさん、すごく美味しそうに食べるんだもん。なんか、うどんしか見えてないって感じで。俺、感動したし」
「馬鹿にしてるでしょ」
ごくごく。平静を装いつつ、飲み込むイリコ出汁。がぶりとさつまいも天にかぶりついて彼を見やる。
「してないってー……あー、敬語のほうが、いいんですかね」
「いまさら?」
「いやだって、年上ですよね! てっきり同い年ぐらいかと思って!」
何だこの男、馬鹿なのかな?
彼は箸で残りのうどんをクルクル遊ばせながら、べらべらとまくし立てる。
「おねーさんがよかったら、この状況、デートってことにならない?」
柔和な目元が垂れて笑う。私はうどんをツルツルすすった。ツルツル。
「物好きだなぁ、君……」
大人の余裕を見せてやりたかったけど、私はそこまでまだオトナになりきれてなかったらしい。がぶっと天ぷらをかじって、
「ごめん、いろいろ考えたしぶっちゃけかっこいいなぁと思ってたけど、
私、うどん食べながらベラベラ喋る人とは仲良くできない」
ぽかん、とする彼を置いて、山を完食した私は立ち上がった。
素敵だと思ってたのは気の迷いらしい。いくら美味そうに食おうが、うどんに敬意のない者は愛せぬ。
手を振って、サッサと返却口にどんぶりを持っていった。
熱しやすいし冷めやすい。
冷めればのびる。
グニャって全然美味しくない。
うどんも恋も一緒のようだ。