虚ろな記憶
私は、四月一日から藤本家という母の知り合い(というか親友?)の家にお世話になることとなった。
母の転勤話を聞いて、もうすぐ二年になる高校生を転校させるのは可哀想なのではという藤本家の奥様“藤本 香子さんのお気遣いによるものだ。
その気持ちはたいへん有り難いし、高校一年のときに出来た友人と離れてしまうのも寂しい。だから、京都の親戚の家に引っ越すこともなく東京に残れるのはとても嬉しかった。
だがしかし。
藤本家には、息子がいるという。それも、私と同じ年の高校二年生。名前を“藤本 一樹。
同級生であるその彼と、私は一つ屋根の下で居候することになるのだという。
正直に言うと。
とっても・・・・嫌だ。
「やだ!私ぜっったいやだ!!」
家に帰宅するや、荷造りを始める母の隣で大声を上げているのは私、瀬川 結衣。
そんな私を気に留めることもなく無心で服を段ボールに詰めているのは私の母、瀬川 千尋。
「ねえ!聞いてるの!私、京都いくよ!!」
「こんな直前になって、充に言うのなんてやーよ。全然連絡も取ってないし。面倒だわ」
「面倒って!私の気持ちも考えてよ!」
いつも横着で雑に生きている母だが、今回ばかりは許せない。
香子さんは優しくて素敵な方だったけど、あの家にお世話になるのだけは本当に嫌だ。
「だいたい!心配にならないの!年頃の娘が、同級生の男子がいる家で一つ屋根の下なんて!普通、母親なら不安になるところでしょ!」
「一樹くんは大丈夫よ。小さいときのことよく知ってるしー」
「幼稚園のときの話でしょ?!全然違うよ!!」
「もうー煩いわねー。どうしてそんなに嫌がるのよ?一樹くんのことだって、よく知らないでしょう?」
段ボールに衣類を詰めていた手を止め、眉間に皺を寄せこちらを見つめてくる母。
少し怒っているようにも見える。・・・怒りたいのは、こっちなのに!!
「私が・・男の人が怖いの!知ってるくせに!!」
声が上擦る。視界が薄っすらとぼやける。
いつも私のことなんて二番目で、でも、疲れてるのに休日は私の行きたいところに連れて行ってくれたり、欲しいものは文句言いつつも買ってくれたり。
遅くまで働いてても、帰ってきたらちゃんとおやすみって言いに来てくれてたこととか・・・知ってた。
お父さんが居ない分、愛情も人一倍注いでくれてること、知ってた。
だから。そんなお母さんだから。
私がいちばん嫌なことだって、知ってる筈なのに。
どうして、こんな大切なこと黙ってたの。
どうして、よりにもよって年の近い男性が居る家なの。
いつからなのかも思い出せない。
クラスの男子に話しかけられると身体が震えるようになった。
電車で年の近い男子と肩がぶつかると身体全体が強張ってしまうようになった。
見つめられるのが、視線が、なによりも怖くなった。
大人の男性は平気なのに、歳の近い男子相手になると緊張してしまう。
緊張・・・なのか、畏怖心なのか。どちらにせよ、敵対心には変わりない。
「・・・いつまでも、男性を避けて生きてくわけにはいかないでしょう。歩み寄ろうと思わないと」
「それと、一緒に住まなきゃいけないのは別の話でしょう?!勝手に決めたこと、正当化させないで!」
諭すように語ってくる母に怒鳴り散らし、私は部屋に駆け込んだ。
ベッドに飛び込み、顔を枕に埋める。
お母さんが、いなくなる。もうすぐ、日本から。側から、離れていってしまう。
あの時みたいなことがあったら、・・今度は、誰が助けてくれるの?
「あの、とき・・・?・・・っつ・・!」
いま抱いた自身の不安に、疑念を抱く。
その瞬間、激しい頭痛に襲われた。
あの時、って。なんの話だろう。
私は、何から、守ってもらいたがってるんだろう。
うっすらと脳裏に浮かんだのは。
小さな男の子が、誰かを思い切り突き飛ばして。
そして。赤い、大きな、血溜まりが・・
そこで私は意識を手放した。