春休みの告白
真っ青な空だった。
屋上から見上げる空は、地上より空に近く、地上から見上げる空より澄んだ青に見える。
私の心など、まるで無視するかのように暑く照りつける真夏の青空。
「暑い・・・」
ぼそっと。
誰もいない屋上で、誰にも聞こえないように小さく呟く。
今日は、夏休み前最後の登校日。
明日からは40日余りある学生の特権、夏休みが始まる。
本来ならば、明日からの自由な時間に今から胸躍るはずなのだが、彼女の表情には陰りが宿る。
腰まである長い髪をなびかせ、鬱陶しそうにその髪を掻き上げた。
空を見上げていた顔をおろし、転落防止の金属で出来た柵に手を掛ける。
カシャン、と。小さく音を鳴らす柵に両手をかけ、ゆっくりと身体を預けた。
「帰り、たくない・・なぁ・・」
震えた、上擦った声で呟いた言葉は突風に乗って誰に聞こえることもなく。
掻き消される。
高校最後の夏休みが、はじまる。
―――――愛悼歌
* * * * *
事の始まりは、高校一年生が終わる春休み。
三月下旬の出来事だった。
「・・あめりか?」
「LAへのね、転勤が決まったの。少なくとも四月から二年。場合によっては、・・三年かしらね」
いつもと変わりない夕食の場で、突然の話だった。
毛先を無意味に触りながら、他愛もない会話をしているかのように淡々と語るのは私の母親、瀬川千尋。
「ちょっと。四月からって・・もう来週じゃない!そんな急に決まったの?!」
夕ご飯のハンバーグをナイフで切っていた手を止め声を荒げているのは私、瀬川結衣。
冷静になろうとナイフとフォークを皿の上に重ね、コップに手を伸ばす。
「決まったのは、去年の十月よ。・・いえ、九月だったかしら?」
「・・っぐ、ふ・・・は・・?」
喉に烏龍茶を流し入れていたところに、母の問題発言。思わず咽てしまった。
咳き込みながら、母の発言を何度も振り返る。
十月・・・否、九月・・・否、どちらにせよどうでもいい。問題はそこではないのだ。
「半年前から決まってたってことでしょ?!どうして今日まで黙ってたの!」
「だって貴方、絶対そうやって取り乱すじゃない」
「取り乱してるのは、来週の話をしているからでしょ?!」
表情を変えず冷静にサラダを取り分ける母の姿に、怒りを通り越して呆れてしまう。
今日は、三月二十四日の金曜日。来週の土曜には、四月に入ってしまう。
「え・・が、学校に連絡とか・・荷造り!荷造りもしなきゃ!あと・・・私、英語喋れない!」
指を折りながらすべきことを思いつく限り声に出す。
そんな私の姿をしばらく細目で見ていた母だが、しばらくして漸く口を開いた。
「貴方は引っ越すだけよ。学校は変わらないし、英語力も必要ない。・・学力的には必要だけど」
それだけ言うと、食べ終わった食器をまとめ始めた。
食器と食器が重なり合う音が響く。その音が私の思考の邪魔をする。
「は?え?・・・私は、行かないの?」
自身の英語力について少し引っかかることを言われた気がしたが、いまはそれどころではない。
食べかけのお皿も片づけられそうだったので慌てて続きを頬張りながら話を進めた。
「そうよー。色々めんどくさいし、普段は仕事で構ってあげられないから、貴方を一人にするのも心配だしね。置いて行った方がよっぽど楽」
心配なのか、ただ楽したいのかよくわからない。
それより・・
「寂しいとか思わないわけ!!」
「あら、結衣、寂しいのー?」
口に手を当ててにやり。
ありがちなポーズを取りながら娘を茶化す私の母親、年齢四十三歳。
「ちっが・・放置は昔からだし」
母は仕事一筋の人間で、平日に顔を合わせる時間なんて二、三時間程度かもしれない。
私が起きる時間には出社していて、私が寝た後に帰宅することもザラだ。
「・・ごめんね、いつも貴方を一人にして」
突然、静かな口調で目を伏せがちに謝罪する母親。一瞬、面食らってしまう。
確かに、いつも一人で夕ご飯食べて、明かりの点いた家に帰宅したことなんて殆どない。
だけど、口では小うるさいこと言われたり、面倒そうにあしらわれることもあるけれど、休日にはこうして一緒に食卓を囲み、時々一泊で旅行に連れていってくれたりする。
平日は仕事が忙しいから、休日はもっとゆっくり休みたいだろうに。私に構ってばかりだ。
そんな、さりげない優しさが心苦しく、とても嬉しかった。
異国の地で今みたいに私を一人にばかりしてしまうと不安なんだろう。
英語も上手く話せない私が、日本より治安も心配な場所に一人置いて仕事に集中できないだろう。
そういった様々な思いを抱いて、私を日本に置いていくのだ。
それはよく伝わってくる。よく伝わるのだ。が。
「そうじゃないよね?私が怒ってる部分、そこじゃないよね?」
「・・・貴方、賢くなったわよね」
「煩いよ」
私が追及している点はそこではない。
以前から決まっていた転勤話を、なぜ転勤直前に報告するのか、だ。
「・・とにかく、私がこっちに残るってことは分かった。じゃあ、私はここで一人暮らしってこと?あ、引っ越すんだっけ・・・もっと手狭なところに引っ越すってことだよね?」
話が進まないので、冷静に未来のことを考える。
私はこっちで一人暮らしをするということだろう。通っている学校には寮制度がないのだから。
「一人暮らしはね、さすがに高校生には認められないわ。近くに親戚とか住んでたら、時々様子見てもらえるし、それだったら良かったけど」
親戚は、いちばん近くて関西在住だ。
東京までわざわざ都度様子を見に来てもらう程親密な仲でもない。
「て、ことは・・?学生寮的なやつとか?」
高校生も入寮可の学生会館なるものは、いくつか存在する。
食事も出るし、寮長もいるしセキュリティも万全。ただ、通学している高校近郊にはなかったような気がする。
「それも一人暮らしだし、そもそも近くにないでしょ?通学に時間が掛かるのも心配」
「そっ・・か・・?え、じゃあ私はどこに住めば・・」
「明日ね、ご挨拶に伺うから。貴方もその心づもりでいなさい」
にっこりと。何かを企んでいる時の笑顔を、満面の笑みを私に向けてきた。
この笑顔、昔から好きではない。
「・・・誰に、挨拶」
「貴方を高校卒業まで預かってくださる、藤本さんのところよ」
「あー・・藤本さん・・あー・・・」
さも当たり前のように言われ、そうかー藤本さんかーと無理やり自分を納得させる。
だが、どれだけ考えても、どれだけ頭を捻っても、藤本さんなる人の顔が浮かばない。
それも、そのはずだ。
「誰よ、藤本さん」
私は、そんな人を知らない。