岐路の向こうは
秋川圭介が経営しているIT事務所に、大手の介護付き高級老人ホームから風変わりな依頼が舞い込んだのは、半年ほど前のことだった。
ある老人の人生をCGの動画にして欲しいという。そこまではよくあることだが、変わっているのはその“人生”だ。老人が生きた人生ではなく、“生きなかった人生”を描いてくれという。
その老人の名を仮にS氏としておこう。
こ の件を依頼に来た幸田は、老人ホームで終末期の入居者の心のケアを担当していた。幸田によれば、S氏には大きな心残りが一つある。その心残りというのが“生きなかった人生”――あるいは“生きたかもしれない人生”なのだった。
S氏が己の人生を振り返ってみると、大きな分かれ道が一つあった。そこで大いに悩んだ末に決めた方に進んだ結果がこの人生だったのだが、その人生も残り少なくなった今、反対の方を選んでいたらどうなっていたのかが気になって仕方がないということのようだった。
事務所が持つ技術力には自信があったし、現代の富豪の一人に列せられるS氏が提示した破格の報酬にもひかれて、圭介は依頼に応じた。
CG動画の製作自体は難しいものではない。キャラクターをCG化して、ストーリーに乗せて動かしていくだけのことだ。しかし、今回のプロジェクトの困難さはそれ以前の工程にあった。
圭介たちは、先ず“岐路の向こう側”に展開したかも知れなかった世界のシミュレーションを作り上げなければならなかった。
最初に、S氏の生い立ちや生育環境と彼の性格傾向を突き合わせて、S氏の意思決定に深く関与する要素を抽出してパラメータ化した。
次に、主なキャラクターを制作した。圭介たちが最も悩まされたのは、S氏が“向こう側”の人生で出会ったかも知れない未知の人物の創造だった。彼らはS氏の実際の人生には一度も登場していないのだから。
また、S氏の人生に深く関わった実在の人々も、状況次第では、実際とは違った役回りで登場してくることになるので、彼らの思考や行動のパターンも分析して数値化しておいた。
必要なデータやパラメータを入力して、仮想世界でのキャラクターの行動をコンピュータに予測させては検証する――気象予報に似ていると言えなくもないが、それよりはかなり高度な作業の積み重ねの末、四ヵ月後には、圭介たちはシミュレーションを作り上げることに成功した。
当然のことながら、シミュレーションは一つではない。パラメータの加減や、係数のちょっとした違いによって、シミュレーションは無限に存在し得る。圭介は幸田と慎重に協議して、動画にする一つのシミュレーションを決定した。
その後、動画制作には、更に二ヶ月を要した。
今日の午後、S氏は動画を見た。
S氏は介護人の手を借りて寝室のベッドから出て来た。なんとか居間のソファーにはまりこんだ老人は、依頼を受けた半年前よりも一段と衰えたように見えた。
一流ホテルのスイートにしか見えない部屋の壁に、超大型のフイルム状テレビをセットして、ただ一人の観客のために、圭介と事務所のスタッフは動画を上映したのだった。
動 画はS氏の人生の分岐点があった三十代から始まっていた。
映像は、そのころのS氏が『アニメーション』と呼んでいたものとは比べようもないほどにリアルにできているので、彼はタイムマシンで時間を遡って、若き日の自分を見ているような気にさせられたに違いない。
画面には、若く、力に満ちたS氏が居る。後に彼の妻になった女性も居る。S氏はほとんど身動きもせずに、無言で見入っていた。
やがて、休憩を挟んで延べ5時間の動画が終わっても、S氏は目を閉じてソファーに体を預けたまま、動こうとしなかった。
部屋に居る者たちも皆、何とはなしに動きにくい空気の中で15分ほど経ったころ、S氏が口を開いた。
「皆さんありがとう。おかげで、気持ちの整理がつけられました」
顔は正面を向いて目を閉じたままだが、しっかりした声で、落ち着いた口調で言った。
「お役に立てたのでしょうか」
声を掛けた幸田が、S氏に視線を注いでいる圭介やスタッフたちを代表する形になった。
S氏はようやく瞼を開いて、ひと渡り部屋の中を見回すように頭を動かしてからはっきりと頷き、ゆっくり噛み締めるようにつぶやいた。
「私の人生は、これで良かったのです。納得がいきました」
しかし、ことばとは裏腹に、S氏は落胆したようにさえ見えた。S氏が、何をどう納得できたのか、圭介にはよく分からなかった。
翌日、幸田が圭介の事務所を訪れた。
事務所が受け取る報酬や必要経費などについての確認の後、圭介は気にかかっていたことを口に出した。
「たくさんのシミュレーションの中で、S氏の実際の人生よりも悪いと判断できたのはこれ一つだけしかなかった。ほかのは皆、今より良くなってしまうので、S氏は後悔を持って人生を終えることになるんじゃないかと、我々は考えました」
「そうでした。現状より劣った人生を見せてあげようとしたのでした。ですが、私たちは勘違いしていたようです」
心のケアの専門家らしく、抑揚の少ない声で、幸田は続けた。
「社会的地位や経済上の成功にばかり目が行ってしまって、人間関係の価値を見落としていました。あのシミュレーションには、今より暖かい人間関係がありました」
幸田の指摘で、圭介は、動画を見た後に感じた漠然とした羨ましさの理由が分かった気がした。
「S氏は寂しそうでした――と言うより、諦めがついたとでも言った方がいいような姿に見えました」と言った圭介の気持ちを受け止めるように、幸田もS氏と同じように、少し寂しげな笑みを浮かべて話を続けた。
「S氏は、あのシミュレーションを、今より良くないと考えて作って見せた私たちの姿に、社会一般の価値基準を見て、自身の選択も仕方がなかったことと納得したのかも知れません。皮肉なことですね。家庭や人間関係を犠牲にして実業家として成功した人生を、私たちは、意図とは逆の形で肯定して見せたのですから」
幸田は、終末期の心のケアから漏れ落ちがちな重要な部分に取り組む決意を新たにしたと言った。それは、一度きりの人生を肯定的に納得して終えられるように、人生で最大の心残りを解消してやることだと。
圭介は幸田に技術の提供を約束した。