お姉様、二度目です ~婚約者は譲りますが、奪われたものは返していただきます~
「ねえ、セレス、公爵様はあなたとの婚約を破棄するそうよ。わたしと結婚したいんですって」
セレスティアの向かいに座っているのは、黒い髪に銀灰色の目をした大柄な男と、その隣で豊かな胸を押し当てるようにして彼のたくましい腕を抱え込み、得意げに笑う女。
男性は婚約者であるレオンハルト・シュタルク公爵。
女性のほうはユリア・クライン侯爵令嬢。セレスティアの実の姉だ。
「お姉様、これで二度目ですわよ」
セレスティアの顔には微笑みが浮かんでいたが、ふたりに向けられた視線は射るように鋭い。だが、ユリアはまったく悪びれた様子もなく、軽く唇を尖らせた。
「あら、前回はまだ婚約していなかったじゃない。それに家同士のお話で、あなたよりわたしのほうがあちらに相応しいということになったのだもの、仕方ないでしょう? それなのに不貞をするなんて、本当にひどい男だったわ」
どうやら姉の脳内では都合良く事実が書き換えられているらしい。
(よくもそんなことが言えるわね。ひどいのはあなたのほうでしょう!?)
怒鳴りつけたかったが、ドレスのスカートを握りしめてぐっとこらえた。
姉の元婚約者はヴァルト伯爵家の嫡男であるギルベルトだったが、彼はもともとセレスティアの恋人だった。
王都から離れたことのない姉と違い、セレスティアは自然の中で過ごすことが好きだったこともあり、幼い頃から父についてたびたび領地に行っていた。
そこで隣領のヴァルト伯爵家の嫡男であるギルベルトと知り合い、歳が同じだったこともあってすぐに親しくなった。会えない間もずっと文通をしながら愛を育み、セレスティアが学院に入学する前に正式に婚約をとあちらから申し込みがあったのだが、それを知った姉が父に頼んでセレスティアから縁談を奪い、自分がギルベルトと婚約したのだ。
だが、それから半年も経たぬうちに、セレスティアがシュタルク公爵であるレオンハルトから申し込まれて婚約を結ぶと、ユリアはすぐに彼に近づこうとした。
婚約者の姉だからとレオンハルトが咎めないのをいいことに、気軽に彼に寄り添い、頻繁に体に触れる。セレスティアがたしなめても、嫉妬するなんて見苦しいわよと見当違いの返事が返ってくるだけだった。
それだけでなく、ユリアは自分のことを棚に上げ、ギルベルトが不貞をしていると父に訴えた。
激怒した父が調べさせたところ、ギルベルトがエリザ・ベルク男爵令嬢と腕を組んで度々カフェの個室から出てくるところを複数の人間が目撃していた。
当然のようにふたりの婚約は破談になったが、意外にもユリアが相手に浮気されたなんて知られたくないと、慰謝料なしの円満解消を主張した。おそらくこの時すでにレオンハルトと婚約するつもりでおり、醜聞になるような禍根を残したくなかったのだろう。
婚約が解消されてからユリアはますます大胆になり、しだいにレオンハルトも彼女を受け入れるようになった。
セレスティアはただ黙って成り行きを眺めていた。姉には何を言っても無駄だとわかっていたからだ。
そして、ついに今日、堂々たる態度で略奪に成功したと宣言されたわけだ。
図々しい姉の言い分に只々怒りをこらえていただけなのだが、セレスティアが婚約者を奪われて悔しくてたまらないのだと解釈したらしく、さらに上機嫌になったユリアは調子に乗って話し続けた。
「ギルベルトに裏切られて傷ついたわたしを、公爵様が優しく慰めてくださったの。あなたの婚約者だってわかっていたけど、愛さずにはいられなかったわ。せめてわたしの思いだけでもわかっていただきたくて正直にお伝えしたら、公爵様も同じ気持ちだっておっしゃったの。愛し合うふたりを引き裂いて無理やり結婚したって、あなたも不幸になるだけよ。だから、お願い、素直に身を引いてわたしたちを祝福して欲しいの」
瞳を潤ませて切々と訴える様は確かに庇護欲をそそる。こんな美女に哀願されたら、たいていの男はお願いを聞いてしまうだろうと思うほどに。
だが、発言の内容は呆れるほど自分勝手なものだ。徹頭徹尾自分の都合ばかりで妹に対する情など微塵も感じられない。
あまりにもひどい扱いだと言いたいところだが、これは姉に限ったことではない。セレスティアを蔑ろにするのは両親も同じだ。
自分の家族はおかしいのだと気づいたのはいつのことだっただろう。
金髪に鮮やかな青い目をした美しい長女は母にそっくりで、父に溺愛された。
一年後に生まれた次女は両親のどちらにも似ておらず、茶色の髪と濃緑の瞳を持つ平凡な容姿だった。
第二子も女だったことで、父はあからさまに失望のため息をもらし、母は泣き崩れたという。
「ですから、身の程を弁えておとなしくしていたほうが身のためですよ」
そんなことを幼いセレスティアに教えたのは姉の乳母だったが、言われなくてもとうに姉妹の扱いに差があることは感じていた。
さらに五つ年下の弟が生まれると両親は大喜びで跡継ぎとなる息子をこの上なく大事にし、セレスティアは完全に家族に忘れ去られた存在となった。
身体的な虐待を受けたわけではない。ただ誰からも気に掛けてもらえないだけだ。メイドはきちんと世話をしてくれる。だが、専属の者は付けてもらえず、交代で来る彼女たちは忙しそうで仕事を終えたらすぐに立ち去ってしまう。
両親はセレスティアの誕生日すら忘れており、後から思い出したように執事に選ばせたプレゼントだけが届けられた。
ほとんど話しかけられることもなく、言葉を忘れそうで独り言が多くなった。ギルベルトからの手紙だけが心の支えだった。
学院に入学して初めて、友人たちの会話から、次女であっても誕生日にパーティーを開いて祝ってもらえることを知った。
卒業したらギルベルトと結婚して家から出て行くはずだったのに、それが叶わなくなったことがあらためて辛く感じられた。
後から聞いた話だが、父から持ち掛けられた姉との縁談をギルベルトは何度も断ったのだという。どんなに説得しても、彼がどうしても首を縦に振らなかったので、父はユリアと婚約しなければセレスティアを除籍して、平民に嫁がせるとまで告げたらしい。
ユリアを溺愛する父ならやりかねない。
ギルベルトは自分も爵位を捨てると言ったが、セレスティアが止めた。彼はヴァルト家のひとり息子なのだ。跡取りを失えば両親は嘆き悲しむだろう。
「姉との婚約なんて断ればいいわ。わたしは大丈夫だから」
「何が大丈夫なんだ。君が身分を失って平民に嫁ぐなんて、そんなことは絶対にさせない」
セレスティアを守るためにも、ギルベルトはユリアと婚約するしかなかった。
そこまでしてギルベルトと婚約したかった理由がさっぱりわからなかったが、ある日、姉が勝ち誇った顔でセレスティアに言ってきた。
「わたしを差し置いてあんたが選ばれるなんてあり得ない。きっとギルベルトはわたしに会ったことがなかったから、あんたなんかと婚約しようとしたのよ。一緒にいたらわたしのほうが良いってすぐにわかるわ。いずれあんたは捨てられるんだから、それが早いか遅いかの違いだけ。ああ、惨めねえ。あんたを見てると、わたしはなんて幸せなのかしらって、とても満足した気持ちになるの」
セレスティアは耳を疑った。
(要はわたしが選ばれたのが気に入らないから、彼を奪って婚約したっていうの? しかも、わたしの不幸で自分の幸せを実感するっておかしいでしょう!?)
クライン家は歪んでいる。平気で娘を無視できる両親と、妹の不幸を見ることで自分が幸せだと確認する姉。
(もうたくさんだわ)
だから、レオンハルトから話があった時は嬉しかった。これで姉に一矢報いることができると思った。
「ねえ、ちょっと、なんとか言いなさいよ」
いらだたしげに声を掛けられ、セレスティアははっと我に返った。
「ああ、ごめんなさい。急なことで驚いてしまって……」
「ショックなのはわかるわ。だけど、あなたが何を言おうと公爵様のお心は変わらないのよ。いいかげん、わかってくれないかしら」
優越感を隠そうともせず、にやにやと笑う姉は醜悪だった。
(今どんな顔をしているのか、鏡で見せてやりたいわ)
ふとそう思ったが、恐ろしく自己肯定感の高い姉なら、勝者の美しい笑みだとでも言いそうだ。
(これぐらい粘れば満足するわよね。ご希望通り早く終わらせましょう)
セレスティアは背筋をまっすぐ伸ばし、居住まいを正した。
「レオンハルト様がお望みなら仕方がありません。婚約解消を受け入れます」
「ありがとう」
「当然よね」
微笑む公爵と大きくうなずいた姉の前で書類にサインすると、セレスティアはふたりを残して部屋を出た。
***
レオンハルトたっての希望で、それから一年も経たぬうちにユリアは望み通り豪華な式を挙げ、公爵家に嫁いだ。
ユリアを嫁ぎ先へと送り出し、クライン家が落ち着きを取り戻した頃、ヴァルト家からセレスティアに縁談が申し込まれた。
不貞を犯して婚約破棄された男が、元婚約者の妹に結婚を申し込むなど恥知らずな行いだと非難されるところだろうが、姉に比べて器量が悪く、瑕疵の付いた娘を持て余していた両親は持参金が必要ないと言われ、一も二もなく飛びついた。
セレスティアは情けない思いで、顔から火が出るほど恥ずかしかったが、そんな両親だからこそギルベルトとの結婚が許されたのだと考えて割り切ることにした。
◇◇◇
今日は婚約者との初めてのお茶会だ。
庭の東屋に彼の好きな銘柄の紅茶と、焼き菓子の他に甘くない軽食も用意した。
ようやくこの日を迎えられたことが嬉しくてたまらない。知らず知らずのうちに笑顔になってしまう。
時間通りに現れたギルベルトは頬がこけ、やつれた様子だったが、以前に見かけた時よりずっと顔色が良くなっている。
わたしの姿を認めると、彼は金褐色の瞳が輝かせ、嬉しそうに満面に笑みを浮かべた。
「セレス、やっと婚約者として君に会えた」
「ギル、あなた、こんなに痩せてしまって……」
涙があふれそうになって口をつぐむと、ギルベルトがそっと抱きしめてくれた。
「君と離れている間、ずっと辛かった。この日が迎えられると信じていなければ、とても耐えられなかったよ」
そう、わたしとレオンハルト様との婚約からギルベルトの不貞による婚約破棄、さらには姉の結婚まで、すべてはわたしとギルベルトとレオンハルト様、三人で仕組んだことだ。
正確には、レオンハルト様が計画を立て、それにわたしたちふたりが乗ったというべきか。
***
まったく面識のなかったレオンハルト様から呼び出しを受けたのは、姉とギルベルトが婚約して三か月ほど経った頃だった。
挨拶を交わすが早いか、
「姉から恋人を取り戻したくないか?」
と聞かれて驚いた。
我が家とヴァルト家のことをかなり詳細にお調べになったようで、わたしが両親や姉からどのような扱いを受けているかまでご存じだった。
「じつはユリアに恨みがあって、復讐したいと考えている。こちらの事情も聞いたうえで、できればあなたにも協力してもらいたいんだ」
公爵から恨みを買うなんて、姉は一体何をしたのだろうと聞くのが怖かったが、何も知らずにいるのはもっと怖い。
それに、もし本当にギルベルトを取り戻せるなら、わたしは何でもできると思った。
「聞かせてください」
「君が入学する一年前の出来事だから、おそらく知らないと思うが」
そう前置きしてから、レオンハルト様は言葉を選ぶようにして話し始めた。
彼には六つ年下のフローリアという従妹がいた。ルース伯爵の令嬢で、幼い頃から妹のように可愛がっていたのだが、やがて互いに恋心を抱くようになり、彼女が学院を卒業したら結婚しようと決めていたのだという。
ところが、入学してすぐフローリア嬢は姉に目をつけられた。
彼女は白金の髪と薄青の瞳を持つ儚げな雰囲気の美少女で、密かに行われた男子生徒による人気投票で、姉を抑えて一位になったらしい。
本人のあずかり知らぬところで勝手に選ばれたのだから、彼女にまったく罪はないのだが、運悪くその結果を姉が知ることとなった。
自分が二位に甘んじたことが許せなかった姉は、フローリア嬢を激しく憎んだ。
あいかわらずぞっとするほどくだらない理由だと思うが、ただ心の中で憎悪するだけではすまないのが姉の恐ろしいところだ。
自ら策略を巡らしたり、取り巻きの令息たちを使ったりして、執拗に彼女を貶めたのだ。
フローリア嬢はいつもひとりで本を読んでいるようなおとなしい女性だったのに、断れない状況を作り出した上で生徒会の役員に推薦した。
学園祭など大きなイベントのたびに手伝う振りをして足を引っ張り、大勢の生徒の前で恥をかかせた。失敗を重ねる彼女はしだいに疎まれるようになり、他の役員たちからたびたび叱責を受けた。実は役員の中に姉の取り巻きがいて、彼女に到底ひとりではこなしきれないほどたくさんの仕事を回しただけでなく、ミスを捏造することさえあったらしい。
すでに疲弊していたうえに、もともと人前に出るのが苦手だった彼女は大勢の前で失敗を咎められたことで心が折れてしまい、学園に通えなくなった。人に会うのが怖くて部屋に閉じこもったまま、外に出られないのだという。
「なんて悪質な……」
あまりにもひどい姉の所業に絶句した。わたしがされたことなどたいしたことではないと思えるほどだ。
「学園に調査を依頼した結果、生徒会の運営については改革がなされ、学園祭などイベントの進行が滞ったのは彼女ひとりの責任ではないと、学院から正式な発表がなされた。だが、結局フローリアは学園に通えず、退学することになってしまった」
「今もフローリア様はお部屋から出られないのですか?」
「屋敷の中を歩き回れるまでには回復したが、専属のメイドと家族以外に会うのを怖がる。私は会ってもらえるが、とても公爵夫人として迎えられる状態ではない。ここまでフローリアを追い込んだあの女を、私はどうしても許すことができないんだ」
愛する人を傷つけられた怒りと悲しみが痛いほど伝わってくる。
幸せになるはずだったふたりの未来までも壊したのだ。
わたしは姉が犯した罪の深さにおののいた。
レオンハルト様の計画は、姉にギルベルトとの婚約を破棄させたうえで彼が姉と結婚する。むろんお飾りの妻として迎え、ある程度の時間が経ってから領地に閉じ込め、第二夫人としてフローリア嬢を屋敷に迎えるというものだった。
「まず私があの女に近付き、親しくなってから、ヴァルト伯爵令息に不貞をする振りをしてもらう。彼には汚名を着せることになってしまうが、あなたを取り戻すためなら構わないとこの提案を受け入れてもらっている。ただ、あなたが同意するならという条件付きなのだが」
「ギルにはもうお会いになったのですね」
「この計画には彼の協力が不可欠だったからね。あなたを巻き込みたくはないが、誤解をされたくないから許しを得てくれと言われたよ」
(許しを乞う必要などないのに……)
わたしだって彼の側にいられるのなら何でもする。
「公爵様、ひとつお願いがあるのですが」
「何かな?」
「わたしと婚約していただきたいのです。姉はわたしが自分より上の身分になるのが許せないので、必ずあなたに近づいて誘惑しようとするでしょう。再び婚約者を奪い、わたしが悲嘆に暮れるところを見たいと思うはずです」
「なるほど、妹の婚約者を奪うことに喜びを感じるのか。なんとも醜い性根の持ち主だ。そういう人間だとわかっていたつもりだったが、想像以上だな」
「あなたにも不貞で婚約破棄という醜聞がつきまとうことになりますが」
「私は構わない。どのみち婚約者のいる女に言い寄る男という汚名は受けるはずだったからな。こちらから口説かなくていいだけありがたいぐらいだ。だが、君のほうが痛手を受けることになるのではないか?」
「問題ありませんわ。わたしにできることがあるなら何でもしようと決めたのです。ただギルベルトは嫌がるかもしれませんから、説得していただけますか?」
「承知した」
こうして話はまとまり、わたしとレオンハルト様が婚約すると、案の定、姉はすぐさま彼に近づいた。
最初は節度を保っていた彼と姉との距離がしだいに縮まっていく。
わたしとふたりのお茶会にたびたび乱入してきては、なれなれしく体に触れてくる姉をレオンハルト様が受け入れ、わたしを無視するようになったことで、姉は勝利を確信したらしい。
とある男爵家の令嬢に目をつけた姉は、彼女にギルベルトを誘惑するよう命じた。
エルザというその娘はもともと庶子で、学院に入学する一年ほど前に男爵家に引き取られた。彼女の実母は平民で、王都でお針子をしていたが、姉はその母親を人質に取り、エルザを脅したらしい。
わたしはエルザに会い、姉の言うとおりにしてくれるよう頼んだ。ただし、あくまでも誘惑するふりだけで、ギルベルトも事情を知っていることを話し、実母の保護と報酬も約束した。
レオンハルト様が母親を助け出し、密かに会わせると、エルザは涙を流して喜び、きっちりと役目を果たしてくれた。
今頃は隣国で実母と一緒に暮らしているだろう。男爵に金目当ての結婚を強いられており、ずっと逃げ出したいと思っていたのでちょうど良かったと、金貨の袋を受け取って明るく笑っていたから。
***
無事に結婚式を迎えた姉は輝くほど美しかった。公爵夫人としての地位も、夫からの愛もすべて手に入れたと疑っていないのだろう。
後はレオンハルト様にすべてお任せしている。姉がどうなろうともう興味はない。ただ目の前から消えてくれればそれでいい。
わたしはずっと欲しかったぬくもりを手に入れた。
「これからはずっと一緒よ」
彼の耳元でささやくと、返事の代わりにいっそう強く抱きしめられた。
◇◇◇
セレスが公爵夫人になるなんて図々しいと思った。何もかもわたしに劣るくせに。だから、わたしは自分に相応しい地位を手に入れるために行動し、すべてが思い通りに進んだ。
入念に準備を重ねて迎えた結婚式は素晴らしいものだった。
式場もセッティングもウエディングドレスも全部レオンが望みを叶えてくれたから、きっとわたしは王都でいちばん美しくて、幸せな花嫁だったと思う。
それから社交シーズンが終わるまで、わたしはずっと社交界の中心だった。
(公爵夫人というだけで、こんなに皆が集まってくるなんて思わなかったわ、最高の気分よ)
でも、不満はあった。レオンは優しい。笑顔で気遣ってくれるし、素敵なドレスやアクセサリーも贈ってくれる。なのに、結婚してから一度もわたしを抱いてくれない。
そもそもひとりじゃないと眠れないとかで、寝室を分けられてしまった。夜中にこっそり忍んでいこうとしても、ドアには鍵が掛かっていて開かない。
妻なのに寝室に入れないなんてひどい。抗議の意味も込めて貴婦人らしく言ってみる。
「跡継ぎのことはどう考えていらっしゃるの?」
「それは君がこの家に慣れてからにしよう。社交シーズンが終われば、領地でゆっくりできるし、それからでも遅くはないよ」
本当は領地になんて行きたくない。でも、領民に顔見せをするのだと言われて断れなかった。
途中で宿を取りながら、何日も馬車に揺られてようやく領地にたどり着いた時、わたしは疲労困憊だった。
何度も癇癪を起こして侍女や従者に当たり散らしたけれど、引き返すことは許されず、本当に辛かった。
こんな田舎に楽しみなんて何もない。もう二度と来るものかと心に決めた。
屋敷に入ってやっと休めると思ったのに、なぜか鉄格子のついた窓のある狭い部屋に案内された。
「なんで、こんな部屋にっ……」
振り向いて文句を言おうとしたら、侍女に突き飛ばされた。
「何するのよっ!?」
床に倒れたまま侍女を怒鳴りつけたが、わたしを助け起こそうともせず、そのまま部屋を出て行った。
あわてて起き上がって後を追おうとしたが、鍵を掛けられたようで、ドアはびくともしない。
扉を叩きながら叫び続け、喉が枯れて声が出なくなった頃、ようやく鍵を開ける音がして、レオンが入ってきた。
文句を言おうとしたけれど、今まで見たこともないほど冷たい目を向けられて背筋が冷たくなった。
(どうしてそんな目で見るのよ?)
腹が立ったが、少し怖かったので、いつものように甘えて機嫌を取ることにした。
「ねえ、レオン、ここの使用人たちがひどいのよ。わたしをこんな部屋に押し込めるなんて……」
「黙れ」
「レオン?」
「今日からここで暮らしてもらう。実家にはおまえが重い病に掛かって寝たきりになったと言っておく」
「そんな嘘、お父様が信じるわけないわ」
「嘘じゃないさ。これから本当にそうなるんだからな」
レオンは楽しげに笑う。でも、瞳の奥が冷えていてまったく優しさを感じない。
(何をするつもり? どうして急に冷たくなったの?)
聞きたいことはいっぱいあるのに、目の前の男が怖くて言葉が出なかった。
「フローリアを覚えているか?」
記憶にない名前だった。わたしが首をかしげると、恐ろしい顔でにらまれた。
「ひっ」
小さく声をあげて後ずさると、レオンが一歩ずつ、わたしを追い詰めるように近づいてくる。
「愚か者どもが容姿だけを見て、おまえより上だと騒ぎ立てた令嬢だよ。教養も品格も心根の優しさも、すべてにおいて比べる価値もないほど劣っているおまえが、許せないと逆恨みして虐め尽くした少女だ」
(あっ、思い出したわ。あいつのことね)
やたら男子生徒に人気があって、目障りな女だった。いかにも男の気を引きそうな儚げな容姿を武器に、か弱い振りをして男たちを騙すのだ。どうせ黙っていても誰かが手を差し伸べてくれると思っているに違いない。だから、邪魔をした。誰も助けられないように。困った立場に追い込んで、何もかも自分ひとりでやらなければならないようにしてやったのだ。
学院に来なくなって、ざまあみろと思った。あの子が無能だっただけ、わたしのせいじゃない。
「フローリアは私の大切な人なんだ。彼女を害したおまえを私は決して許さない」
「わたしは虐めてなんかいないわ。あの子は与えられた仕事ができなくて自滅しただけでしょう?」
答えた途端、平手で強く頬を打たれた。信じられなくて呆然としていたら、もっと強い力で反対側の頬もぶたれて、わたしは床に倒れ込んだ。
「何するのよっ!!」
我に返って大声で怒鳴った。両方の頬がじんじんと痛む。
「おまえは反省しないとわかっていた。元より裁くつもりなどない。これは私の復讐だ。わざわざ結婚までしておまえをここに連れてきたのは、誰も怪しまないよう静かに消えてもらうためだ。むろんすぐに楽になれると思うなよ。ゆっくりと苦しみながらここで最期を迎えてもらう」
「そんな、嫌よっ!!」
そのまま背を向けて部屋を出て行こうとするレオンを、わたしは必死に引き留めた。
「ねえ、待って。あなたはわたしを愛していたのでしょう?」
「まだわからないのか? 俺が愛しているのはフローリアだけだ」
振り向いたレオンは呆れたように言う。
「おまえのことは初めから軽蔑していたし、触れられるのも不快なほど嫌悪していたよ」
「嘘よね。どうしてそんなひどいことが言えるの?」
「信じなくても構わないが、ひとつだけ忠告してやろう。これから出される食事には気をつけることだな」
今度こそレオンはわたしをひとり残して去っていった。
あれからどれくらい経ったのかわからない。レオンが二度とここに来ることはなかった。
食事だけは一日に二度きちんと運ばれてくる。
去り際にレオンが残した言葉から察するに、食事には毒が盛られているに違いない。分かってはいても、空腹には勝てなかった。我慢できずに食べては嘔吐し後悔する。そんなことの繰り返し。
わたしはただ嫌いなものを消して、欲しいものを手に入れようとしただけ。それなのに、どうしてこんなことになったのだろう?
部屋には寝台と小さな円卓しかないが、なぜか全身を映す立派な鏡が壁に掛かっている。
髪は艶を失い、肌もカサカサになっていく。痩せ衰え、醜くなっていく姿を見たくなくて食器を投げつけて鏡を割った。
だが、次の日、代わりの鏡が運ばれてきた。
ここで変わり果てていく己の姿を見続けろということなのか。
「いやあああっ!!」
わたしの中で何かが切れた。
「助けて!! 誰か助けて!!」
どんなに叫んでも、応えてくれる人はいない。
わたしは生まれて初めて絶望というものを知った。




