2話:『測定不能の無自覚聖女』
『測定不能の無自覚聖女』
朝は静かに始まった。
王宮の廊下はよく磨かれている。磨かれているはずだった。
メティはそれでも、少しだけ気になった。
窓から差し込む光が、床の一部でわずかに乱れている。目を凝らすと、細かな凹凸があった。靴の裏に付いた砂か、あるいは布で拭いたときの拭き残しか。
しゃがんで指を触れる。
粒子の並びを整える。出っ張りをならし、隙間を埋める。表面同士の引っかかりも少しだけ減らす。
終わって立ち上がると、光はまっすぐに伸びていた。
気持ちがいい。
「おはようございます」
後ろから声がした。振り向くと、侍女が一人、盆を抱えて立っていた。
少し困った顔をしている。
「おはようございます。あの……そこ、少し滑りやすくなっていませんか?」
「はい。きれいにしておきました」
侍女は足先で床を確かめた。
一歩踏み出し、止まる。もう一歩。今度は少し大きく。
つるり、と音もなく足が流れた。
「きゃっ」
盆が傾き、カップが一つ、宙に浮く。
落ちるより先に、メティは手を伸ばしていた。指先でカップの縁に触れる。
落下は止まった。
正確には、落ちる速度がほとんどなくなった。
カップはふわりと空中で揺れてから、ゆっくりとメティの手のひらに収まった。
侍女は床に座り込んだまま、口を開けている。
「大丈夫ですか」
「は、はい……いまの……」
「滑りやすかったですね。少しだけ戻しておきます」
床に触れる。さっき整えた結びつきを、ほんの少しだけ強める。
摩擦が戻る。
立ち上がった侍女が、恐る恐る一歩踏み出す。今度は滑らない。
何度か足を動かしてから、深く息を吐いた。
「ありがとうございます……あの、いまのは」
「カップが落ちそうでしたので」
メティはそれだけ言って、盆を返した。
侍女は何か言いたげだったが、結局何も言わずに去っていった。
廊下にはまた静けさが戻った。
少しやりすぎたかもしれない、とメティは思った。
でも、割れてしまうよりは良かったはずだ。
そう思って、次の窓枠に目を向けた。
わずかに、がたついている。
直しておこう、と手を伸ばした。
午前のうちに、メティは三つの部屋を見て回った。
一つ目の部屋では、本棚の背板がわずかに浮いていた。
二つ目では、椅子の脚の長さがほんの少し違っていた。
三つ目では、机の表面に細かな傷があった。
どれも大したことではない。
けれど、気になる。
触れて、整える。
整えて、離れる。
それだけの繰り返しだった。
昼前、呼び出しがあった。
「メティ・アーリィ殿ですね」
白衣の男が三人、部屋にいた。
机の上には、見たことのない器具が並んでいる。ガラス管や金属の枠、魔石のようなものが組み合わさっていた。
「はい」
「我々は王立魔術研究院の者です。殿下からの要請で、あなたの魔法を測定させていただきたい」
測定、という言葉に、メティは少し考えた。
「どのようにするのですか」
「こちらの魔力測定器に手を置いていただくだけで結構です。流れる魔力の量と質を記録します」
簡単そうだ、とメティは思った。
うなずいて、指示された場所に手を置く。
ひんやりとした感触だった。
「では、軽く魔力を流してみてください」
メティは、いつも通りにやった。
特に意識することもない。ただ、触れているものの結びつきを整える。それだけ。
ぱきり、と音がした。
測定器のガラス管にひびが入る。
次の瞬間、内部の魔石が細かく砕けて、さらさらと崩れた。
「……え?」
白衣の男の一人が声を漏らした。
「申し訳ありません。壊してしまいましたか」
「い、いや、そんなはずは……これは耐魔構造で……」
別の男が慌てて別の器具を持ち出す。今度はより大きく、複雑なものだった。
「こちらで再度。今度はごく弱くで構いません」
「はい」
同じように手を置く。
今度は少しだけ控えめに、と思いながら触れる。
音はしなかった。
代わりに、針が動かない。
目盛りの上で、ぴたりと止まったまま、わずかにも揺れない。
「……故障か?」
「いや、さっきまで正常に……」
男たちが顔を見合わせる。
メティは手を離した。
「これでは、だめでしょうか」
「いや、その……魔力が、検出されていない」
「そうですか」
メティは少し残念に思った。
やはり自分は、魔法使いとしては未熟なのだろう。
「別の方法を試す」
最初の男が言った。
机の上に、小さな金属球を置く。
「これは標準的な硬度の合金です。これに対して何か、あなたの魔法を使ってみてください。変化があれば記録できます」
メティは球を手に取った。
冷たい。表面はなめらかだが、わずかにざらつきがある。
「きれいにすればよろしいですか」
「……任せます」
指先でなぞる。
粒子の並びを揃える。隙間を詰める。余計な揺らぎを落とす。
終わって、机に戻した。
男が恐る恐るそれを手に取る。
力を込める。びくともしない。
「……なんだ、これは」
別の男が工具を持ってきて、叩く。
音が変わる。高く、澄んだ音が部屋に響いた。
へこみはできない。
「硬度が……上がっている?」
「どのくらいだ」
「測定器を……」
別の装置が持ち込まれる。
針が振り切れたところで、ぱたりと止まった。
そして、そのまま戻らない。
沈黙が落ちた。
「……メティ殿」
最初の男が、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、今、何をしましたか」
「お掃除です」
答えると、男は目を閉じた。
何かを言おうとして、やめた。
代わりに、深く息を吐いた。
「本日の測定は、これで終了とします」
「はい」
部屋を出ると、廊下の先にアルフレッドが立っていた。
「終わったか」
「はい。あまりうまくできませんでした」
「そうか」
それだけ言って、歩き出す。メティはその隣に並んだ。
「何か問題があったのか」
「器具をいくつか壊してしまいました」
「……だろうな」
アルフレッドは小さく呟いた。
しばらく歩く。
中庭が見える場所で、足を止めた。
庭師が水を撒いている。陽の光を受けて、水滴がきらきらと光っていた。
「メティ」
「はい」
「その力は、どこまでできる」
質問の意味がよくわからず、メティは少し考えた。
「きれいにすることは、だいたい」
「壊すことは」
「壊す、というより……ほどく、でしょうか」
「それを、人に使ったことは」
「ありません」
アルフレッドはそれ以上聞かなかった。
ただ、庭を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
それから振り向いて、いつものように言った。
「昼食にしよう」
「はい」
食堂では、温かいスープが出た。
メティは一口飲んでから、少しだけ考えて、指を添えた。
香りが逃げないように、結びつきを強める。
向かいに座るアルフレッドが、それを見ていた。
「どうしましたか」
「いや」
スプーンを持ち上げる。その手が、わずかに止まった。
「……なんでもない」
一口飲む。
味は変わらない。
けれど、香りだけが、不自然なほど長く残る。
飲み込んでも、まだそこにある。
アルフレッドはゆっくりとスプーンを置いた。
「メティ」
「はい」
「それは、いつまで続く」
「少し強めましたので、しばらくは」
「どのくらいだ」
「……半日ほどでしょうか」
アルフレッドは目を閉じた。
そして、もう一度小さく息を吐いた。
「……困ったな」
メティは首をかしげた。
何が困るのか、よくわからなかった。
ただ、スープはおいしかった。




