1話:『摩擦ゼロの無自覚聖女』
解雇通知は、雨に濡れた石畳の上に叩きつけられた。
「拾いなさい。惨めったらしい顔で突っ立ってないで」
イザベラ・クロノワはそう言って、指先についた汚れでも払うように手を振った。
緋色のドレスは雨粒さえ寄せ付けないほど上質で、その裾がメティの視界の端でひらりと揺れた。
メティ・アーリィは膝をついて紙を拾った。
『魔力不足につき即日解雇。以後ギルドへの立ち入りを禁ずる』
そうか、とメティは思った。
やっぱり自分は、魔法使いとして失格なのだ。火球も出せない、雷も呼べない。
できることといえば、物の「結びつき」をほんの少し弄るだけ。熱を逃がさないようにしたり、表面を滑らかにしたり…そんなことは、この世界では「魔法」とは呼ばれない。
「動く雑巾がお似合いだったのに、残念ねえ」
イザベラの笑い声が遠ざかっていく。
メティはゆっくり立ち上がり、ふと足元の石床に目を落とした。
一枚、わずかにずれている。雨水が溜まって、誰かが滑ったら危ない。
そっと指で触れた。石の粒子の並びを、頭の中でそっと整える。ずれていた面がなめらかに揃う。水はもう溜まらない。
メティはそれをイザベラには言わなかった。言う必要もないと思った。ただ、最後くらいきれいにしてから出ていこう、それだけだった。
街外れの軒下で、メティはスープを飲もうとして、冷めきっていることに気づいた。
懐が寂しい。
薪を買う余裕はない。けれど冷たいまま食べる気にもなれなくて、メティは器に指を浸した。
水の分子は、速く動くと熱くなる。遅いと冷たい。ならば速くしてやればいい。それだけのことだ。
じわ、と器が温まっていく。湯気が立つ。メティは満足して、スプーンを取り出した。
「……君、今何をした」
声をかけられて顔を上げると、雨合羽をまとった男が立っていた。年は二十代半ばだろうか。整った顔に、どこか呆然とした表情が浮かんでいる。
「スープが冷めていたので、温め直しました」
「どうやって」
「指で」
男は黙った。何かを言おうとして、やめた。また言おうとして、やめた。
「……それが、当たり前のことだと思ってやっているのか」
「火が使えないので、これくらいしかできなくて」メティは少し恥ずかしくなって俯いた。
「みっともないですよね。普通の魔法使いなら、もっと派手に…」
「名前を聞いていいか」
「メティ・アーリィです。今日ギルドを追放された、無能な魔法使いです」
男の顔色が、また変わった。
彼が王族の証である指輪をしていることに、メティはこのときまだ気づいていなかった。
古代遺跡の奥は、松明の光もうまく届かないほど暗かった。
王子『アルフレッド』と名乗った男の調査に同行する形でここまで来たメティは、広間の入口で足を止めた。中から、怒声と魔法の炸裂音が聞こえる。
「助けて! 誰か!」
飛び込んでみると、見覚えのある緋色のドレスがあった。イザベラが、瓦礫の影に張り付いている。
その前には、三メートルはあろうかという石造りのゴーレムが、ゆっくりと歩みを進めていた。
イザベラはメティを見た瞬間、かすかに表情を歪めた。
それでも叫んだ。「ちょうどいいわ!
あれを倒しなさい!」
魔法吸収型だ、とアルフレッドが耳元で短く言った。
現にイザベラが誇っていた「伝説の盾」は、すでに砕け散って床に転がっている。
アルフレッドはメティの肩にそっと手を置いた。何も言わなかった。ただ、目でゴーレムを示した。
メティはうなずいた。
「わかりました。お掃除ですね」
広間を横切り、ゴーレムの足元に膝をつく。
イザベラが「何してるの、早くしなさい!」と叫んでいる声が、遠くに聞こえた。
メティは石の表面に指先を当てた。
粒子と粒子の間にある、結びつきの力。それをほどいていく。
解くのではなく、ただゼロにする。
音はなかった。
爆発も、悲鳴も、光もなかった。
ゴーレムはただ、さらさらと白い砂になった。重力に従って床に広がり、静かに、完全に消えた。
しん、と広間が静まり返った。
イザベラは最初、何が起きたかわからなかった。
三メートルの石の巨体があらゆる魔法をはじき返し、自分の盾をも粉砕したあれが…音もなく消えた。
砂が床を流れる、かさかさという音だけが残っている。
次に浮かんだのは、安堵だった。助かった。
その次に、じわりと別の感情が来た。
自分の最大火力でも傷ひとつつけられなかったものが、あの女の…指一本で?
「伝説の盾」は何の意味もなさなかったのに?
「あ」
メティの声で、イザベラは我に返った。
メティがこちらに近づいてくる。しゃがんで、床に触れた。
「泥で汚れていますね。足元、滑らかにしておきますね」
親切な顔だった。心配そうな顔だった。他意のかけらもない顔だった。
イザベラが「何を…」と立ち上がろうとした瞬間、足が滑った。
受け身を取る間もなく、床に膝をつく。
氷よりも滑らかな石の上で、立とうとするたびに足が逃げる。
指の腹で床を押しても、まるで手がかりがない。
ドレスの裾が泥を引いて広がった。
「だ、大丈夫ですか?」
メティが手を差し伸べている。
イザベラはその手を見た。
怒鳴ろうとした。当然そうしようとした。
しかし声が出なかった。目の前の女は、転がった自分を見て、本気で困っている。
悪意がない。
侮辱する気持ちさえない。ただ、心配している。
その顔が、どんな罵倒よりも、どんな嘲笑よりも…
イザベラはぎゅっと唇を引き結んだ。
「……あなた、何をしたの」
声は、かすれていた。
メティは首をかしげた。
「お掃除です」
イザベラはそれ以上、何も言えなかった。
差し伸べられた手の意味も、自分が何に負けたのかも、なぜこんなに胸が痛いのかも、何ひとつ、言葉にできなかった。
アルフレッドがメティの隣に並び、無言でイザベラを一瞥した。それだけで踵を返した。
王宮の一室は、メティが今まで住んだどこよりも広かった。
窓から見える庭には花が咲いていて、夕食には温かいスープが出た。アルフレッドは「国の研究員として」と言ったが、机の上には花が一輪飾られていた。
メティはひとしきり部屋を見渡してから、窓枠のわずかなガタつきが気になって、指で触れて直した。
翌朝、アルフレッドが部屋を訪ねてきたとき、メティは窓の外を見ながら言った。
「殿下、今日のお茶は少し結合を強めて、香りが逃げないようにしてみました」
アルフレッドは湯気の立つカップを受け取り、一口飲んだ。少しのあいだ、黙っていた。
「……本当に、自分が何をしているかわかっていないんだな」
「え? 何かおかしかったですか」
返事はなかった。
アルフレッドはカップを持ったまま窓の外に目をやった。その横顔がどういう表情をしているか、メティには今ひとつよく読めなかった。
ただ、悪い顔ではないと思った。
メティは「ではお代わりを」と立ち上がり、カップに指を添えた。今日も世界の理を書き換えながら、まったく自覚なく、幸せに生きていた。
アルフレッドは小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「……困ったな」




