美声な人魚王子と絶対零度の魔女エルフ 〜海に引きずり込みたい男と陸で干上がらせたい女の偏愛〜
キラキラとした太陽の日差しに、口から漏れ出て海面に昇っていく泡が光を反射する。
はたして何度目になるかわからない海へのダイブに、意識の方は暗く冷たい海底のように沈んでいった。
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美声な人魚王子と
絶対零度の魔女エルフ
〜海に引きずり込みたい男と
陸で干上がらせたい女の偏愛〜
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潮風を結界魔法で防御した、元は貴族の別荘。港街の中心部からはほどよく離れており、プライベートビーチからの眺めを気に入った魔女ルルーが引っ越して来たのはつい先週。
毎日使い魔がいたるところを掃除する中、ルルー自体は仕事部屋である調合室に篭っていた。白銀の長い髪を結え、翡翠の瞳に映る貴重な素材や危険物。
その中から、乾燥させた薬草を白く長い指先で摘む。華奢な身体をひねり、腕を伸ばして引き寄せたのは調合用のすり鉢。
危ないので、この部屋のものだけはルルー自身が片付けようと決めていたのだ。
決めていたのに、ついつい違う事をはじめてしまう。
前の棲家で助手をしていた者は高齢のため亡くなり、すでにいない。
長寿種であり、亜人のエルフであるルルーはそんな別れが片手ですまなくなった時に、コレからはひとりで生きると決めた。何度経験しても親しい者との別れは辛すぎて、もうこれ以上、人をそばにおくことを諦めていた。
同胞を探していた時期もあるけれど、森に住むのを基本とした彼らの生き方に、魔女に育てられたルルーの生活習慣が壊滅的に合わなかった。
森を大事にする同胞に、好奇心が旺盛な魔女の気質を持ち合わせたルルー。
森に生えている植物を片っ端から実験の材料にしてしまうので、いくつもの一族から出禁をくらっていた。
薬草を煮出している間に今度こそ片付けを開始。
夕飯の時間までに、街で売り出す風邪薬や胃薬をそれぞれ2ケース分作ってしまったのはご愛嬌だ。
白身魚のフライにピクルスの食感と酸味をきかせたタルタルソースをたっぷりと付けて食べる頃。白ワインを開けてご機嫌になり、気がついたら二日酔いに効く丸薬を作る事態に。作った品々は街の薬屋に卸して、素材や食材を買い込む資金になる。
仕事部屋の調合室の荷解きが終わったのは、それから3日後。
屋敷に慣れ、さらに5日後。朝方から歌声がどこからか聴こえて来た。
神秘的でありながらよく響くテノールの歌に耳をかたむけたところで、ルルーの意識は途切れる。
気がついたら膝をついて、ビーチ横の岩場から海を覗き込んでいた。目の前に迫っていた男の顔を思わずガシッと両手で鷲掴み。
「え? キメ細かっ!? 何この肌」
さらにしげしげとながめる。男が長いまつ毛を震わせ、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
瞳孔が縦に入り、黄金の色彩に魅入られたルルーが言葉をなくしていると、男の方が再び瞼を閉じてルルーの顔めがけて笑顔で迫り来る。
流石にこの状況がおかしいと気がついたルルーは、男の頬に添えていた両手をずらし、口元に持っていく。何かが芽生えてしまいそうな雰囲気を脱却するために声を上げた。
「無理無理無理無理っ!!!! 顔面は滅茶苦茶好みでドストライク目の保養ありがとう! って感じだけど初対面だよねオ兄サン!?」
「もごもご……ブクブクブク」
「あ、ごめん」
男の口元を両手で押す力が強すぎて、そのまま海に沈めてしまったところで我にかえるルルー。
再び浮かんで来た男はそのままルルーの腕を引っ張った。海の中へ。
上も下もわからずにパニックになったルルーだが、流石のエルフ。
保護魔法を自身にかけてから、つかまれている腕を反対の手で掴み返して、軽い電撃魔法をお見舞いする。
男はルルーから食らった攻撃で身体が痺れて、さらに痛みでのたうち回る羽目に。
海のどの辺りまで来たかはわからない。
バタ足しづらいけれど、靴は浮くので、後で浮き輪の素材に魔法で変形させるためにそのままで。
海水を含んで重くなった上着は泳ぎ優先で今回は脱ぎ捨てて、透明度の高い水中で太陽の方に向かってルルーは泳ぐ。途中で氷魔法でマスクを作って目と鼻を保護した。
少しズラして鼻から空気を出しながらマスク内に満たし、海水を外に追いやる。
景色がクリアになったところで、男の姿をルルーの視界がとらえた。
青い海と同化して浮遊する長めの髪、上半身は人と全く違わぬ外見を持ち、逞しい肢体。下半身は煌めく鱗を持つ魚。
はじめて見る男性型人魚にとても興味が湧いたルルーだが、いかんせんココは海の中。分が悪いと一旦海面に浮上して、久しぶりの呼吸にむせる。
「ゲホッ、ゲホッ……」
また人魚が来ると思ったルルーは楕円形の浮き輪を生成して急いで岸まで泳ぐ。その日、人魚がルルーを追って来る事はなかった。
そう、その日は。
朝からあの歌声が聴こえて来たのを感知したルルーは秒で耳栓をした。
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珊瑚が多く生息する狩場の眺めを気に入っている浅瀬。散泳後、白い砂浜の横の岩場にやって来たのは人魚の王子。
前は人が住んでいた人間の棲家には、今は誰もいない。いい穴場を見つけたと人魚の王子が思ったのは3年前の話。
いつものように岩場に腰掛けて、上半身だけ海面から出してカモメに歌を披露しようとしたが、口をヒレで塞ぐ。
人間の棲家の窓には真新しい布がゆらめき、何かが建物内のあちらこちらで動き回る気配がする。人がいないと思ったけれど、もう新たに入居者がいたようだ。
その日は歌うことを諦めて他にいい場所がないか人魚の王子は探したが、中々見つからない。
結局、人魚の王子は元の場所で岩陰に隠れ、小さな声で歌うことに。
人間は人魚と違って夜は寝ている。カモメに歌は聴かせられないが、朝の日の出までなら大丈夫だろうと。
それからは見つからないように気をつけながら、ひっそり歌うことにした。
見つかったら見つかったで腹におさめるか、海に逃げればいい。人はどうせ海までは追って来ない。
そんな楽観視をしていた人魚の王子の予定が狂ったのは、歌うのに夢中で太陽が大分昇ってしまった時。
歌に釣られて陸から近づいて来る人影を見た時だ。
朝の光を浴びてキラキラと銀糸の髪を揺らし、ゆっくりと歩いて来るこの世の者とは思えない均衡の取れた顔。
歌で魅了されたその人が近づいて来るたびに胸をときめかせ、焦点の定まらない宝石のような瞳を覗き込んだ時に決めてしまった。
あぁ、コイツを嫁にしたい……と。
美しすぎる色づく小ぶりの唇から情けを貰おうと、ゆっくりと瞼を閉じた人魚の王子はその日一瞬で恋に落ちた。
歌が途切れたことにより、ルルーは呪縛から逃れる。
ルルーの第一声を聞いた時に、声すら可愛いと思った人魚の王子は、宝石の眼を近距離で確認出来たことに満足してから再び瞼を閉じて、海に沈められた。
そんな線の細い身体のどこにこんな力があるのか、人魚の王子は疑問に思いながらも、ルルーの腕の力が弱まった隙をついて海中に引きずり込む。
海に入ってしまえばコチラのもの。ぐんぐん沖を目指して泳いでいると、人魚の王子にいきなり激痛が走る。
悶絶して叫び声をあげたが、海の水に吸収されてかき消される。
痛みが治った人魚の王子は、ヒレの中に人間がいないことにまず焦った。
何も考えずに海中に連れ込んでしまったけれど、相手は人間。
人魚よりも息が続かない生き物相手に、まずい事をしたと辺りを見渡すも時すでに遅し。
人魚の王子は、ルルーがどこかに流されてしまったと勘違いしたまま、その日はそこら中を探し泳いだ。
夜になってから人間の棲家に明かりがともり、姿を確認してから、家に帰っただけだと安堵した。
生きていてよかったと涙ぐみ、流れた涙が真珠を生成。
次は絶対上手くやろうと人魚の王子は決心した。
とりあえず、迎え入れるための準備に、人魚が攫った相手を住まわせる小島に空きがあるか確認するところから。
女ばかりの人魚。その相手はもちろん人間の男になるので、離れ小島は男ばかり。流石にこの中に入れるのはよろしくないと考える。
誰かにあの神々しい姿を見せたくない独占欲もあるのだ。むしろ、そちらの意味合いの方が人魚の王子にとっては強い。
次は絶対上手くコチラに呼び寄せるべく、ルルーを油断させるために、人魚の王子は約5年の歳月をかけて海からひっそりと様子を伺う。忘れた頃に嫁にする計画である。
エルフ同様に長寿な人魚は、その寿命の長さから不老不死と思われるほどの時間感覚の持ち主だった。
魔女でエルフのルルーを短命な人間だと思い込んでいた人魚の王子は、こうして返り討ちに合うことになる。
前回同様に歌で引き寄せたと思った人魚の王子は、電撃魔法を食らって失神したまま浜辺に引きずりあげられた。
しばらくして意識が戻るころには、海から少し離れた白浜の上。
「?」
「人魚のオ兄サン、動くと鱗が傷つくかも知れないからそのままね。歌もなし」
歌ったらもう一発電撃をお見舞いすると言われた人魚の王子は、やっと激痛を与えたのがルルーであると理解した。
まさか、こんな若いのに魔法が使えたのかと今回の敗因を悟る。
若くはないし、何なら結構年上だと知るのはしばらく後のこと。
身体が動かしづらい事に気がついて、辺りを見渡した人魚の王子は絶望する。
陸に上がった男の人魚は無力。女の人魚なら尾ヒレを二股にして脚にも出来るが、男はそれが出来ない。
海から離れた白い浜辺の乾いた砂で汚れた身体に、さらに喉の渇きを覚えた。
「すみません、海に戻す……のはダメですよね、はい。せめて海水を飲ませてください。これでは死んでしまう」
「海」と発言した途端にルルーに睨まれた人魚の王子は、せめて喉を潤したいと懇願した。
ちなみに睨んでも可愛いと思って胸をトキめかせた人魚の王子は違う意味で大分重症である。普段から表情の動かないルルーを一生懸命見ながら、目に焼き付けて堪能している。
遠目からは幾度となく眺めていけれど、やはり近くで見たかったのだ。念願かなって、感無量で今にも目から真珠が飛び出そうである。
そんな人魚の王子の心中などいざしらず、ルルーの方はルルーで顔には出ないが、内心人魚の王子の発言に焦った。
いくら書物で調べても男性型の人魚の記実は少なく、その生態は謎が多すぎてわからない事だらけだったからだ。
女の人魚は人よりタフな身体の作りだと知っていたけれど、男性型は違うのかも知れないと思い至った。
実は女の人魚よりさらに身体は頑丈に出来ている事実をルルーが知るのは大分後の事。
この程度で死にはしないが、身体の水分が極端に失われると脱水症状を起こして、意識が朦朧としてしまうのは確かにある。
魔法で氷を形成して大きめのカップを作り、海水を満たして人魚の王子に手渡すと勢いよく飲みはじめる。
追加でおかわりを注いで持たせると、喉を鳴らして全て飲み干した。
喉仏があるのかと観察していたルルーの視線を感じるも、人魚の王子の方は困り顔でルルーの方を見ることに。
「まだ足りない?」
「飲んでもすぐに砂に持って行かれてしまって。あとは、今日は日差しが強いので」
「……干からびたらどうなるんだろう」
「怖いこと言わないでください」
苦笑いを浮かべる人魚の王子。つい心の声が漏れ出てしまったとちょっぴり反省したルルーは、使い魔のゴーレム達に頼んでお風呂場にある猫足のバスタブを持って来てもらった。
バケツリレーで海水を満たして、人魚の王子を肩に担いでバスタブの中に誘導する。氷のコップに海水を追加してパラソルを差せば、人魚の王子から安堵の息が漏れた。
ひと息ついたところで、先に口を開いたのは好奇心いっぱいのルルー。名乗ってから人魚の王子に名前を尋ねてみた。
「名前……。名前…………では『シャオ』で」
「なにその間は。もしかして偽名?」
「今考えました」
人魚の王子あらため「シャオ」に名前はない。そもそも人魚達は互いに呼び合うとしたら、鱗の色や関係性、人間で言う役職のようなモノでお互いを認識しているので名付けの習慣がないのだ。
一応人間たちの知識から名前と言う概念は知ってはいたが、今の今まで必要としたことはない。
普段は「王子」と呼ばれているらしいシャオの話をメモを取りながら聞いていたルルーは、軽く聞き流せない事実に手をとめてシャオの顔を勢いよく見た。めっちゃタイプ。違うそうじゃない。
「王子様なの? マズイ。何か報復受けそう」
「母がここら辺の海域を取りまとめている女王になるので。報復なら心配しないでください」
人間の国のように細かな法律は存在せず、あるとしても掟みたいなものになる。
そもそも、弱肉強食の海の世界で敵討ちなどしないらしい。
報復にやって来るより、それだけ強い相手なら避けて通るだろうと。シャオの話を聞いたルルーは安心すると同時に何だか薄情な親だと思ったけれど、元々の種族が違うのだ。
自然界にいる動物のような、コチラの常識など当てはまらない相手と印象を持ったシャオに、ルルーはますます興味を惹かれる。
未知のものを前にしたルルーは己の探究心と知識欲を満たすために、シャオにいくつもの疑問・質問を投げかけた。
シャオの方も話を聞きながら、魔女でさらに長寿種であるエルフというルルーの存在を不思議に思う。エルフとは普通森から出ないと思っていたけれど、ルルーにそれは当てはまらないと理解した。
海なら人魚、森ならエルフ。
種族は違えど、どちらも見目がよいために観賞用として奴隷狩りに遭う者同士、苦労話は特に共感出来る部分があった。
ルルーは最初、また奴隷商人に攫われそうになったのかと思って咄嗟に攻撃してしまったことを謝ると、シャオが「嫁にと思って」などイイ笑顔でのたまったので度肝を抜く。
「オイ、コラ人魚!!」
「ははは。まさか逆に捕まるとは」
人間の男をたぶらかして子どもを産むために攫う女の人魚は知っていたけれど、まさか自分も同じ道を辿りそうになったのかとヒヤッとしたルルーは、シャオを絶対零度の眼差しで睨みつける。
シャオを危険人物……いや、危険な人魚と判断して警戒レベルを上げた。
逆になんで自分を捕まえたのかルルーに聞いてみると、男性型の珍しい人魚に興味が湧いたのと薬材にしようと思ってと素直に申告されて、今度はシャオの方がツッコミを入れる。
「それは困ります。殺す気ですか?」
「人魚はいい滋養強壮素材なの」
「よりによって素材……ですか。ちなみにお婿さんにしてくれるご予定は?」
「飼うのは無理そうだよね。これじゃ私がお風呂に入れないもん」
2人してバスタブを眺めて、確かになと納得したところで、やはり素材にされてしまうと察したシャオ。恋愛対象どころか、言い回しがペット寄りだとちょっと傷ついたのは内緒だ。
天日干しが無難かなとルルーはボソリとつぶやく。本気でヤりかねない。
よりによって人魚からしたら天敵となる魔女に心を囚われてしまったのかと自身の不運を呪うと同時に、一筋縄ではいかない、張り合いのある相手だと知れて魅力を感じるあたりシャオも大概である。
男の人魚は少ない。その中でも群を抜いて見目のよいシャオは大層他の人魚に言い寄られて来たが、嫁にするなら自分より美しく海で生き残れる強い者と決めていた。人魚にとって顔は生存戦略に必要な武器でもある。今回ルルーに遭遇して、これほどの相手は生涯出会えないだろうと感じた。
森と海に住むはずの本来なら互いに出会わない相手。天敵ではあるが、ルルーが魔女だからこそ出会えたのだ。
運命めいた出会いにコレをやはり嫁にしたいと強く思ったシャオは、今回は逃げることにした。
何より大分話し込んでいたせいで、そろそろ陽が沈む。自分がココにいてはルルーがお風呂に入れなくて困るだろうと。
離れるのは寂しいが、殺されるよりはマシだ。
けれど、今日の最後の思い出として『シャオ』と言って欲しい。
「ルルー。どうか最後に名前を呼んでください」
「シャオ?」
名前を口にした瞬間。花が綻ぶような微笑みを浮かべたシャオに魅入られて、ルルーはそのまま身動きが取れなくなった。
シャオに抱き寄せられ、驚くほどの美声で耳元で「好き」と言われて、ルルーは顔を真っ赤にさせて腰が抜ける。
続く歌声が聴こえてマズイと思ったルルーだが、シャオに両腕を絡め取られて耳を塞げずに、そのまま意識を手放した。
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ルルーの意識が刈り取られたのはごくわずか。
気がついたらシャオが白浜の波打ち際にいて、海に入るところだった。
バスタブからそこまで、這って行ったために出来た窪みを辿って走り出したルルーだが、間に合わず。
海に入ったシャオは潜水して、砂浜から離れた海面に顔を出してルルーの方にヒレを振り大声で叫ぶ。
「また明日逢いましょうルルー!」
「戻ってきなさぁあぁぁぁぁいっ!!」
嬉しいことを言ってくれると思わず笑顔になったシャオだが、多分不純な動機だろうなと。それでもやっぱり嬉しい。うしろ髪を引かれたシャオだが、その場を後にして沈む夕陽と共に姿を消した。
ルルーは波打ち際に膝をついて、シャオに逃げられた悔しさに唇を噛み締めてしばらく身を震わせた。
耳に残ったシャオの甘い声にやられて身体を震わせていたなんて断じてない。ないったらない。
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その後もエルフと人魚の不思議な会合は続く。
陸に引きずり、海に溺れ互いに己の領分をかけた攻防は何年にも及んだ。
シャオ的には溺愛しているつもりでも、ルルーからしたら身を震わせるほどの狂愛。
ルルー的には好奇心を満たし、素材にしたいがための実験の延長線。シャオからしたらまさに生死をかけた逢瀬である。
住む世界が違うだけで、ルルー好みのシャオ。
身体が頑丈なのはもちろん。ちょっとやそっとじゃへこたれない。シャオはメンタルすらオリハルコン級だった。
これまでそばにおいていた、すぐに死んでしまう人とは違い、寿命も長い。自分と時間感覚が似ている相手というのは、同族以外で会ったこともなかった。
その同族ともルルーは生き方が合うことはない。シャオは自分が素材にされるのはごめんこうむるが、ルルーが魔女であることを否定することはなかった。
何なら海の珍しいものや、シャオの流した涙の真珠をお土産として持って来て、海に引きずりこまれることもある。
最初の一度だけは違ったが、本当にルルーの嫌がることはしない。海に沈められても、最終的にルルーが自宅に帰って来れるのは、シャオが手加減してくれているからだ。
ルルーは海の中では使えない、火を使った料理や菓子を振る舞い、シャオを陸に打ち上げさせることもあった。
その均衡が崩れたのはルルーがシャオに絆されはじめた時。
何年も何十年も愛を囁く、この人魚の愛し方にルルーが麻痺して来たとも言う。
もはや挨拶がわりとなった言葉の掛け合いや物理的な攻防の間に、お互いの妥協点を見出す話し合いを繰り返すが、ときの流れは残酷。
街の発展にともない、人が海の海域に足を踏み入れはじめたことにより、人魚達は徐々に棲家を追われることになる。
人と共存の仕方を見出した魔女でエルフのルルーと違い、シャオは人に追われる身であるのは変わらなかった。
長寿ゆえにこれまでの生き方を変えられない者同士、妥協点がとうとう見つからないまま、その日を迎えることになる。
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この海域で最後の人魚の1体となったシャオは、人の目を掻い潜ってルルーに会いに来た。
笑顔とは裏腹に、シャオの肢体はいたるところに生傷を作り、前は腰まであった青い髪は今は肩口まで短く切られていた。
ここに来る前日に大型船に見つかり一悶着あったところで、このルルーの家にある岩場に来れるのは、最後かも知れないと悟った。
痛ましい姿にルルーが顔を歪めると、シャオはニコッと笑う。心配されたことにより「自分愛されてますね」と、嬉しくなる。
そんな、どうしようもなほどポジティブなシャオの傷の手当てをしようとするが、ルルーは無意味だと気がつく。
軟膏も包帯やガーゼは泳ぐシャオに使っても、全て流れて解けてしまう。
せめて痛み止めだけでも、飲み薬を用意しようとしたら、人と全く同じ5本の指に見えるヒレをあげて制され、拒否された。
「何が入っているかわかりませんからね。今、陸に上がったら流石の僕もどうなるか分かりません」
それに血は止まっていると言われて、ルルーは渋々引き下がる。
何度か食べ物や飲み物に薬を混ぜたのはもちろん、陸のものは人魚のシャオの体質には合わないものもあった。
それでルルーが嬉々として海から引きずり出し、浜辺に設置した海水入りのバスタブにシャオを投げ込んだのは、もはや数え切れない。
「でも、痛いでしょう? はぁ〜……。日頃の行いが悔やまれるわ」
「ワカメでも擦り付けとけば治りますよ。ルルー、ここに来るのは今日で最後になりそうです」
「…………え?」
シャオが何と言ったか遅れて理解したルルーは、どう返事をすればいいのか迷った。続く言葉にさらに迷うこととなる。いつもなら即座に断るその言葉。
「ルルー、大好きです。何千回と言っていますが、僕のお嫁さんになって欲しい。共に海で暮らしてください。お願いします」
「…………」
シャオのことは好きだ。
でも、好きだけではどうにもならないこともある。
人の営みに紛れたエルフ。人間の生み出すあらゆる便利さを知っているルルーには、海での暮らしはとても不便で、自然界の危険がともなう。
常に進化する便利な世の中に長年浸り、慣れてしまったルルーには、やはりシャオの言葉に頷くことは出来なかった。
ただ、やっぱりすぐに断ることも出来ずにいた。
このプライベートビーチを改良して、シャオを閉じ込めてしまえばいいと思考を巡らせたところで、コレではどっかの人魚とやりたいことが一緒だと慌てて首を振る。
すでにその話はシャオによって却下されていた。
シャオを囲ったところで、ルルーが不在の時に何かあったら。陸に上げられてしまったシャオは、どうすることも出来ない。
逆にルルーがシャオに囚われの身となり、人の世とは離れた原始的な生活を強いられ、依存するシャオが帰って来なかったら。食事もろくに出来ず、死ぬ羽目になるかも。
今のような生活を送るにも、ルルーもシャオもあまりに目立ちすぎる容姿をしている。人が素直に放っておいてはくれない。
「ダメ、ですか……」
「ごめんシャオ」
「僕がいなくて、ルルーは大丈夫ですか?」
ルルーは「平気」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。今さらシャオのいない生活なんて、寂しくて耐えられるかも疑問だった。
いつの間にか自身の中でシャオと言う存在がこんなにも大きくなっていたことを、別れ際でルルーはやっと自覚した。
いつもそうだった。もう恋なんてこりごりだと思っても、知らぬ間に堕とされている。そして毎回別れに泣くのだ。死別やルルーの方がフラれることはあるが、今回はルルー側に選択肢がある分なおタチが悪い。
どちらを選んでも、必ず後悔するであろう別れ道。
ぬるま湯に浸るような、たまに刺激的なシャオとの日常が、なんと幸せなことだったか。
天を仰いで深呼吸を繰り返したルルーは、歪む顔に笑顔を貼り付け、溜まった涙でよく見えないまま、必死に声を絞り出した。
「ぜ、全然へいきぃ……」
「ぷっ、はははっ。そうですか。ルルー、最後に僕の名前を呼んでください」
幾度となく名前を呼ぶ事を強請るシャオ。きっと何か意味があるんだと、ルルーも薄々気づいていたが小さな疑問に蓋をして、シャオのささやかな願いを口にする。
岩場に腰かけた、上半身を海面から出しているシャオに、ルルーは陸の方から抱きついた。
シャオの方からも海の方から両ヒレを回して、ポンポンとあやすようにルルーの背中を優しく叩く。
「シャオ。シャオ、シャオ……」
「はい、ルルー」
しばらく抱擁を交わしたのち、互いに身体を戻す。大粒の涙をポロポロと零すルルーを目の当たりにして、シャオは驚いた。
数十年一緒にいて、ルルーの「涙」と言うものを見たのは初めてだった。
宝石も霞むほどの瞳を輝き潤ませて、流れる透明な液体に自分と違う生き物だと思い知らされる。思わずヒレですくい取るが、真珠になることはない。
「ルルーから流れる『涙』とは、なんて儚く美しいんでしょう」
「真珠出す人魚に、言われるな、んて…………シャオ?」
シャオは断られたらちゃんとルルーとお別れするつもりでいた。どう頑張っても今のままでは互いが納得する暮らしは出来ないと、愛するが故にルルーを手放す気でいた。
だと言うのに。その慈しみの愛を凌駕するほどに、執着と言う名のドロドロとした感情が自身の中で膨れ上がる。
こんな綺麗な生き物を他の雄にくれてやるほど、シャオは出来た人魚ではなかったと自覚したら、思考を置き去りにして身体が勝手に動いていた。
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海に引きずりこまれ、グングンと沖に向かって泳ぐシャオに流石におかしいと、ルルーは力強く動く尾びれを眺めながら思う。
シャオのヒレに固定され肩に担がれる。ルルーの呼吸がしやすいように海面ギリギリを縫うように泳ぎはじめたが、ルルーが話しかけても無言だ。ポカポカと背中を叩いてもビクともしない。仕方がないので、ルルーは軽い電撃魔法を繰り出した。
それでも、シャオのヒレはルルーを離さない。
「シャオ、離して!」
「……すみません。ルルー」
「っ!?」
本気で攫われているとザワザワとした恐怖に身をすくませて、保護魔法をまとってから、さらに強い電撃魔法をシャオにお見舞いする。
流石のシャオも痛みにヒレを緩ませて、その隙にルルーはシャオから逃れる。
ルルーが氷でマスクを生成した頃には、またシャオに囚われていた。
数度同じ事を繰り返すも、シャオにすぐさま海中からすくい取られて、ルルーは陸との距離が少しも縮まらない。
ルルーは強引な手段をとるシャオにカチンと来た。電撃魔法を繰り出したのちにシャオの尾びれを氷漬けにする。
水中で舌打ちしたシャオは身を捩って氷をヒレで叩く。ジタバタしている姿を確認してから、シャオに背を向けてルルーは自身の全力で泳ぐ。
海面に上がってルルーが呼吸を整える間もなく、再び脚を掴まれ海に引きずりこまれた。
流石の人魚。タフである。普通の人間なら凍傷レベルでも、シャオにダメージはあまりない。
思わず遠い目をしてしまったルルーは、シャオに向けて特大の攻撃を仕掛けると決めた。
シャオはルルーに何をされているか分からなかった。
両頬をルルーの小さな手で挟まれて、唇と唇を合わせられている事実に、目を見開いて頭が真っ白になる。
なので、動かぬ身体に後から自身の首から下の身体を氷漬けにされていると気がつく。
海面に向かって必死に泳ぐルルーを眺めながら「最初のキスはもっとロマンチックがよかったです。ルルー」と、乙女な思考を巡らせて目から真珠を量産していた。口で罵りたいが、口すら今は若干動かし辛い。
身体についた氷を筋力で内側から強引に砕きながら、シャオも海面に上がり、ルルーに渾身の愛の歌をお見舞いした。
耳を塞いで泳げず沈んだルルーの身体を絡めとり、ほくそ笑むシャオは、すぐさま顔を曇らせる。
ルルーの身体が先ほどより冷たいのだ。何だか動きも鈍い。
空気を求めて上にあがれば、ルルーはカチカチと歯を鳴らして震えていた。
シャオほど頑丈な作りをしていないルルーは、冷たい海水と自身の魔法で寒さにダメージを受けていた。
いつも電撃魔法ばかりだと思っていたら、こんなカラクリがあったのかとシャオは納得する。
「ルルー、諦めてください。これではあなたの身が持たない」
「あき、らめるのは……シャオよ」
ピキピキと片ヒレを凍らされたシャオは、空いたヒレでルルーの細い腰を掴んで、海に一気に潜った。
衝撃でマスクがふっとび、唇を紫色に染めて苦痛を浮かべるルルー。
その先には断崖。光の当たる珊瑚の海と深い海域の境目でルルーは腹を括った。
通り過ぎた珊瑚の海底から砂が巻き上げられルルーを繋ぎ止め、放たれる氷のようなものを観察しながらシャオは────
────ルルーに口付けを残し、満足気にそのヒレを離した。
シャオの身体をつたってガラスがルルーの身体まで巻き込んでいると理解して、このままではルルーが死んでしまうと悟って。シャオはルルーから距離を取り、抗わずに彫刻のように固められる選択肢をえらぶ。
生成魔法による封印措置が施されたガラスの棺と、己の重さで暗い深海に揺蕩いながら沈んでいった。
シャオを見届けたルルーは陸に向かって泳ぐ力もなく、焦がれる水面に身体を向ける。
途切れそうになる意識の中、ほとんど底をついた魔力を駆使して、一か八かの賭けに出る。制御もへったくれもない、そんな初歩的な魔法。水からの氷生成。
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低下する体温とは裏腹に、氷山ほどにもなった氷に押され、薄れゆく意識の中、ルルーの身体は太陽に向けて浮上を開始した。
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ピキッ
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ピキ……ピキッ……
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ガラスの棺の封印を突き破り、久方ぶりの空気を求めて暗い水底から這い出る。
随分流され、途中クラーケンに絡め取られて、玩具にされながら運ばれたシャオ。
浮上する途中に、カモメとは明らかに違う泳ぐ鳥を目撃して、首を傾げる。
陸地は分離し、シャオの頭上を通り過ぎてどこかに流れて行く。
海面から顔を出して空気を吸えば、寒さに肺が凍てつきそうになった。
吐く息の白さに、これが噂の北の海かと辺りを見渡す。
氷と海しかない。人の立ち入らない不毛の地。
歌で泳ぐ鳥を引き寄せて話を聞こうとするも、カモメ語が通じずに談念。
海の中では俊敏でも、氷の大地をテチテチと歩く不思議な鳥を見送って、新たに白いため息をつく。空を飛びたいと贅沢な事は言わないが、自分もあれくらい陸地を歩けたらと。
それにしても、いったいどれほど離れてしまったのかルルーの身が心配になった。
だが、その心配も杞憂であると考えを改める。正直シャオが本気になれば、ルルーなどいつでも攫ってしまえる存在だと認識していた。
しかし、実際にはシャオの惨敗。手加減している気でいたが、相手もそうだったのかと……惚れ直した。
「やっぱり生かされましたか」
拮抗した力量差の場合、相手を殺してしまうこともある。あのルルーを無傷で捕えるなど、たとえ海中であろうと今のシャオには無理な芸当だった。
と、言うことはルルーの方が一枚上手。シャオは笑うしかなかった。仕留めがいのある相手にワクワク感すら覚える。
そして何より、助けられた事実がシャオを盛大に喜ばせた。殺すことも出来たのに。
自分ほどではないにしても、エルフも身体は丈夫。きっとルルーは生きて今もあの棲家でシャオを待っていると思った。伊達に付き合いは短くない。
実は寂しがり屋のルルー。絶対シャオがいなくて、無駄に考え事をしながら、薬を量産しているに違いない。
シャオは短期戦を諦めて、長期計画でルルーを合法的に嫁にしようと腹を括る。
何より、あのルルーに物理で勝てる気がしない。
苦笑いを浮かべて、とりあえず女王である母親を説得すべく、暖かな南の海を目指すと決める。シャオは冷たい空気をめいいっぱい吸い込んで、長い長い旅の最初のひとかきを泳ぎ出した。
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一方その頃、ルルーは自分の棲家の調合室で、盛大なくしゃみを一発かました。
ルルーは待っていた。
あの珊瑚の海と深海の断崖で、シャオを氷漬けで再起不能にするのではなく、わざわざ魔力消費の多い封印措置を施すと決めた時に腹は括った。
次はきっと逃げられないと。
なぜなら、自分自身がシャオの心を手放すことが出来ないから。
耳栓をスタンバイさせ、今回もこちらから捕獲する気満々でルルーの方は待ち構えていた。
大量のトラップが張り巡らされたプライベートビーチ。
ヒレを泳ぎ入れたシャオが網にかかり、逆さ吊りにされるのは、しばらく後の話。
ー約300年後ー
人間、亜人、人魚の間で永久的三種族平和条約が結ばれることとなる。
その平和条約にひと役かった人魚の王子は、亜人であるエルフの魔女と結婚したとかしなかったとか。
人魚語で毎日「シャオ」と、愛を囁く事を強要する王子を人魚の同胞は生温かい目で見守り、エルフの嫁に同情を禁じ得なかった。
その真実にルルーが気づくのはさらに100年後。
ルルーは20年ほどプチ家出をして、シャオを困らせる。
前ほど「シャオ」と名前を呼ばなくなったルルーだが、かわりに「あ、愛してる!」と、頑張って言うところから練習をはじめ、シャオをますます骨抜きにした。