樹が育つとき。
「ふあ〜あ」
気の抜けたあくびをし、瑛斗は渋々勉強机に向かう。
すると、コンコンとノックがされ、母親…泉 七がお茶を持って入ってくる。
「今度の試験、どうなの」
「もうほんと難しい。いやだってさ聞いてよ母さん、そもそも日本語ですらよく知らないのが時々あるんだよ、なのに古文って何なの!?わかるわけないじゃん!」
「それはあなたが日本人として生まれた宿命みたいなものよ」
「そういう母さんは社会に出て使ったのかよ」
「使うわけないじゃない。私はアンタを生むまで現役バリバリの大女優様だったんだから」
「もうそんなのはるか昔でしょ。俺からしてみれば普通のそこらへんのオバちゃん…」
そう言いかけた時にはヘッドロックをされていた。
「今なんて言った?お姉さんの間違いよね?」
「ひゃ、ひゃい…おねえひゃんでひゅ」
「よろしい」
首元をようやく開放されると、ゲホゲホとむせながらペンを再び握る。でも身が入らなくて投げ出してしまう。
「めーんどい。英語以外つまんない」
「あなたは将来何になりたいとか決まってないの?マジシャンの道を諦めたんなら、来年は高3だし真面目に進路のこと考えなさい」
「いやぁ、分かってるんだけどさ」
すると七は、机の上に一枚の手紙を置く。
「はいこれ。多分ファンレター。前アンタがお世話になってた事務所に届いてたみたいよ」
「ほー、ブームが随分過ぎ去ったのに珍しい」
七はそれを開く瑛斗を見て、
「じゃあ私買い物行ってくるから。変装しないと」
「だーれも母さんのことなんか気付かないよ」
「アンタね、これでも私、女優やってた上に紅白歌手でもあるんだから。そこはプライドあるんだから!」
「はいはい」
しっかり帽子とサングラスをかけて、七は買い物に出かけた。
手紙を開き、中を見る。
すると大きな文字で、
「再会しよう!」
と書かれていた。
「再会…?」
少し考えて、過去の記憶を辿って、そして思い出す。
「あー!あの人!」
そして待ち合わせ時間と場所が記されたそれを持って、家を飛び出した。
外に出ると、家の周りを掃除していた社宅内の陽に出くわす。
「瑛斗、どしたの」
「女の子と待ち合わせしてるから行ってくる!」
その言葉を聞いて、
「はー!?今、なんて!?」
しかしがむしゃらに走っていった瑛斗の姿はもうなかった。
「怪しい…今度は瑛斗を尾行するか…」
***************
住宅街から少し離れ、高台を登った先。
風の吹くその場所で、なびく髪が美しいショートヘアのその人を、瑛斗は忘れるはずがなかった。
「あ、きたきた、はろ〜、瑛斗くん」
「杏ちゃん、久しぶり!また会えるなんてね」
「前より日本語がフニャフニャしてないねぇ。すっかり馴染んだ感じかな?」
「そんなに俺、日本語下手だったっけ」
「別に下手ってほどでもないけどさ」
「それで何で日本に?わざわざ俺を呼ぶなんて。呼び出し方がファンレターとか、相変わらずトリッキーでびっくりしちゃったよ」
「深いアレはないよ。ただ、お姉さんとしては何となくまた瑛斗くんに会いたくなっちゃったんだ」
「ホントにー?」
瑛斗のニコニコスマイルに、杏ちゃんと呼ばれたその女の子は、
「その嬉しさはどっちかなー?単に友達としてなのか。恋愛的な方か」
「恋愛?何で?」
「相変わらず鈍感だねぇ。こんな美人なお姉さんを前にしても何とも感じないなんて」
ポカンとしている瑛斗をおかしく笑う。
「結局、私が勧めた墨田高校、入ってくれたんだね」
「うん。それに杏ちゃんの言ってた通り、お父さんと同じ会社の同僚の娘さんと、俺は同じ学年だった」
「ね、言ったとおりでしょ」
「でもまさかその子がバンクーバーでチンピラから助けてあげた子だとは気付かなかったよ」
「陽ちゃんね。明るくて元気でしょ」
「うん、とっても元気。陽とその友達のススメでね、交流部っていう部活入ったんだ!」
それを言われて彼女は笑顔を向けた。その笑顔は瑛斗に、どこか何もない、空っぽの笑顔に映った。
「そっか、面白い名前の部活だねぇ」
「うん。なんかね、人助けをする部活動。と言ってもまだそんな大きな活動は沢山やってるわけじゃないんだけどね」
「まあ、瑛斗がいればそのうち盛り上がるよ。きっと」
「そうかな?そうだといいな」
そして彼女は続ける。
「ねね、せっかくだから久々にさ、マジック見せてよ」
「うん。喜んで!」
公園に移動して、日陰になっている机とベンチで、目の前の人に見せるクロースアップマジックというやり方。瑛斗がニューヨークの商品販売でやっていたマジックスタイルだ。
「ここに一組のトランプデックがあります。好きなカードを選んで下さい」
「ほい、これ」
「では、マジックペンでサインしておきましょう」
「はーい」
彼女はフルネームで、その選んだトランプカードに『近浦杏樹』と書く。
「では、デックの真ん中らへんに差し込んでみてください」
「よいしょ、ここかな」
「では、おまじないをかけると…」
手で魔法をかける動作をして、一番上のカードをひっくり返すと、まさかのまさか、真ん中らへんに入れたそのサイン入りカードは、デックのトップに移動していた。
「おー!すごい!」
「さらに、このトランプをまたひっくり返して、よーく混ぜてください」
どこにあるかわからないくらい、杏樹はデックをよくシャッフルする。そして瑛斗に返す。
「では、そのトランプが入っていたケースをよーく見ていて下さいね。えいっ!」
パワーを念じた瞬間、空のトランプケースに、カコッという何かが入った音がする。そのケースを空けるとそこには…
「私のサインしたカードが入ってる!すごい!」
「へっへー!すごいでしょ〜。これが俺の実力!」
自慢気に言う彼がおかしくて、でも目の前の現象がとにかく不思議で、杏樹は楽しくてしょうがなかった。
杏樹の心の中で。懐かしい記憶が甦る。
*
半年以上前に、この二人は出会った。
それはバンクーバー。
瑛斗より1つ年上の杏樹は、高校を休学にして、高2の夏、世界旅行をしに出かけた。
イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、色々回って、カナダへ降り立った。
そこで、当時、知名度が上がってきた瑛斗のビラを受け取った。
「こんにちはー、マジックやりまーす、お願いしまーす」
英語でそう話す瑛斗に、杏樹は尋ねた。
「中国人?それとも日本?」
「日本人です」
そこからは日本語として話す。
「うわぁ!私も日本人よ」
「ホントですか!嬉しい!よかったら俺の全力のパフォーマンス見ていって下さい!」
「おふこーす。私、頑張る子大好きだからさ」
そうして、順調に知名度を上げ、ライブのキャパシティーが段々と広がり、有名になる瑛斗のことを、変わらずずっと杏樹は追いかけていて。
気づいたら、旅行なんてそっちのけで、バンクーバーにしばらく滞在していた。
そしてキラキラと輝く彼のステージが終わって、他のお客さんが帰ったあとに瑛斗を誘う。
「お疲れ様。ご飯行こっか」
「はい!杏樹さん!」
「もー、ネーミングがナンセンス。こんだけあなたの熱狂的なファンなんだから、杏ちゃんとかでいいの。もう敬語もなしにしよ!」
「わ、わかった…じゃあ、杏ちゃん!」
交流を深めていくうちに。
瑛斗のキラキラした姿は、杏樹にとってすごく眩しい存在だった。
少し前の自分のように、人にドキドキし始めた。
もう誰かを好きになることなんてないと思っていたのに。
"あんな思い"をしたのだから、もう誰も信じたくないと決めたのに。
それでも繰り返しご飯に行って。バンクーバーを観光して。
舞台裏の、パフォーマーじゃない泉瑛斗の顔を知っていくうちに。
気付けば、あの子を思い出して切なくなる。
ずっとバンクーバーにいるわけではないから。高校へ戻らなければならないから。
自分の話は伝えないことにした。
代わりに、微かな可能性に託すことに。
「ねぇ、瑛斗くん」
「なに?」
「前話してたさ、日本の学校へ転校する件、結局学校決まったの?」
「ううん、それがどこにしようか迷ってて」
「であればさ、私が今休学してる墨田高校にしてよ!」
「ほー、わかった!墨田高校ね!覚えとく!」
また会えるその日を願って、望みを託した。
あと僅かなふたりきりの時間を精一杯楽しもうと、そう決めた。
でも。異変は起こった。
「瑛斗くん、今日もご飯行かない?」
「ごめん、友達と約束しててさ!今日はそっち先約だからそっち行くね!」
瑛斗はそれから、ほとんど会ってくれなくなった。
聞いてみても、どんな子か教えてくれない。分かっているのは、瑛斗と同い年の女の子で、同じ日本人だということ。
(モテモテな私のレーダーに瑛斗くんはコロッと落ちはしないかぁ〜)
そう、虚しい気持ちにもなった。
だが、ある日。さらなる事件が起きた。
瑛斗が本番で、ステージ上で大失敗。見てられないくらい、すべての演目でボロボロだった。
客席に目も向けず、そのまま静かに暗転。会場はどよめいたけれど、杏樹には分かった。
その本番前。
「瑛斗くん、頑張って。いつも通り行ってらっしゃい」
「……いつも通りやるなんて、誰も喜ばない」
自分のプログラムに自信があった瑛斗に覇気はなく、そのまま沈んだ、いやもはや疲弊しきった苦しそうな表情で、滲む汗を拭って、フラフラになりながらステージへ向かった。
彼に何があったのか。
きっと、その女の子との間で何かがあったのだろう。
その子のもとへ行かないで、だなんて言えなかった。
何で限られた時間しかない、帰国前の私を放って、別の女の子に会ってたんだって、責めるわけにはいかなかった。
その女の子と何があったのか、なんて聞けるわけがなかった。
そしてそのライブを機に、瑛斗はステージを辞めた。
気付いたら、一言、『ありがとね、こんな俺をいつか許してね』というラインだけきた。
そっとしておくことは確かに大事だったと思う。
でも、あなたの助けになれるって、そう言ってあげられなかった。
『瑛斗が気の落ち着くまでやりたいことをやれば大丈夫だよ』ってカッコつけてしまった。
それは優しさでありながら、突き放したとも言える。
自分を追い詰めて追い詰めて、大好きなマジックで人を感動させることは諦めきれないけれど、向き空きたいとは思えない、と。
それから瑛斗をどうすることもできず、本拠地にしていたイタリアへ戻った。
*
そして今。久々の再会で彼のトランプマジックが目の前で見れている。
「いいね。やっぱり瑛斗くん、生き生きしてる」
「まあ、俺の取り柄って本当にマジックくらいだから」
久々の再会が嬉しくて。
瑛斗は止めどない溢れる気持ちが出てくる。
でも。
すぐにトランプをケースに仕舞った。
「瑛斗くん?」
「……何だか、1プレーが限界なんだよね。大好きなのに」
「半年前のステージが原因?」
「……原因だなんて、そんな言葉で片付けちゃいけないよ」
「そうだよね。じゃ、久々にお姉さんのデートにお付き合い頂きましょう」
「デートとか軽く言っちゃダメでしょ、杏ちゃんモテるんだから」
「え〜、イタリアに戻ってからは口説かれまくったけど全部フッたんだよ?私は瑛斗くんだけの女なのに〜」
「そう冗談言うけどさ、実際のところ、墨田高校の同じ部活のご友人のこと好きだったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、その人に失礼でしょ」
「ううん、もういいの。気持ちに整理はついてる」
「そっか…。それならいいけど…。てか杏ちゃん、そう言えば何部かを聞いてなかったけど」
そこを突っ込まれて、彼女はまた空っぽの笑顔を向ける。
「えっとねぇ、なんか転々としてたんだよねぇ。バレー部入ったりとか、ソフトボール部もやったし、手芸部にも、メディア部にも」
「すごい!何でもできたんだね!そのご友人が、今言ってくれた部活の中のどれかにいたの?」
「うん、まあ、そんなところ。そこで出会った彼のことが好きだったんだけどねぇ。恋って簡単に実らないもんでして。お姉さんは同い年のフラフラした男なんかより、年下の君をネットニュースで見て、イケメンだったから追いかけに来たわけさー」
「俺のためにわざわざ遥々海外に来たの?絶対嘘だ」
「バンクーバーの時にも行ったでしょ。私は君のファンで追っかけだって」
確かに以前、杏樹は似たようなことを言っていた気がした。
でも、やっぱりそれにしては色んな国を旅して、ずっと心の拠り所を彼女が探してきたことくらい、瑛斗には分かる。
休学してまで、海外に行きたかったのか。
それとも。反対に。
海外に行くことよりも、休学がしたかったのか。
「もしかして…」
察した瑛斗の唇に杏樹は人差し指をちょんと添えて、口を優しく封じる。
「勘が鋭い子は嫌いだよ?」
その近すぎる距離に、さすがに瑛斗は固まる。
「顔…赤いよ?」
すると、大きな声で、
「そこまでー!近いー!これ以上はダメー!」
と陽が割って入ってくる。
「陽、尾行してたのかよ!」
「あはは…」
「あらー!陽ちゃんじゃない〜」
「陽ちゃんじゃない〜じゃないですよ杏樹先輩!なに瑛斗に必殺色気を出しちゃってるんですか!」
「あれれ〜?もしかして嫉妬かな〜?」
「そういうわけじゃないです!」
顔を赤くして怒る陽との久しぶりのやり取りに、杏樹はケラケラと笑う。
「久しぶりね、陽ちゃん」
「杏樹先輩こそ、まさか戻ってきてくれるなんて思わなかったです。あれから色々大変だったんですから」
そんな二人のやり取りを見て、瑛斗が突っ込む。
「てゆーかそれより!もしかして陽が俺を墨田高校に後押ししてくれたのって…」
「うん、まあそうだね。私が裏で手引しておりました☆」
「おいおい杏ちゃん!陽っていう名前を教えてくれれば誰が俺の高校入学のサポートをしてくれたかすぐ分かったのに!」
「ま、ホントに入学するとは私自身思ってなかったしね。その後すぐ私バンクーバーからいなくなっちゃったし、陽ちゃんって名前を伝える前にイタリアに戻ったから」
「私が瑛斗に言わなかったのは、ちゃんとワケがあるよ。でも、そのワケを言うつもりはねぇ〜」
そうふふっと笑う陽に瑛斗はモヤモヤする。
「何で教えてくれないんだよ!けち!」
弄ぶかのように笑う陽だったが、どことなく後ろめたさがあるのか、ちらりと杏樹の方を見る。すると、言って構わないと、ウインクで陽に彼女が合図を送る。それを見て陽は瑛斗に向けて伝えた。
「まあ、私が杏樹先輩との関係を言わなかったのはね、杏樹先輩、実は…」
言いかけて止めた。急にひゅるりと首が締まる感覚だった。
思い出したくない思い出として、確かに陽の中で変わってしまった。
それを分かっていたから。陽ではなく、自然と杏樹の口が動いた。
「私と琴葉で始めたのが、交流部なの」
「え…」
瑛斗は固まる。その反応を読んでいたのか、またケラケラと楽しそうに笑う。
「瑛斗くんやっぱり面白い!びっくりした?」
「そりゃあ、びっくりしたよ…え、てかさっき色んな部活転々としてたみたいなこと言ってたじゃん!」
すると杏樹はえへんと胸を張り、
「うん、あってるじゃん。色んな部活の助っ人するのが交流部なんだから嘘はついてない」
「た、たしかに…」
納得させられる瑛斗。そして言いすぼんだ陽は、えへへと悲しそうに笑い、
「色々あったみたいでね、私が入る前にはもう、杏樹先輩抜けてたの。だから、私があんまり杏樹先輩の話を広げすぎるとね、絶対交流部の話に行き着くからさ。だから、あんまり杏樹先輩のこと話せなかった」
「そんなに…交流部内で、何かあったの?」
瑛斗が尋ねると、陽はさすがに自分からは話せないと口を閉じて杏樹に委ねる。その杏樹も、面倒そうに言う。
「別になーんも。そんな大したことじゃないよ。ただの方向性のすれ違い」
面倒そうに言う彼女の姿に、瑛斗は見覚えがある。彼女は決まって、話したくない話題には敢えて適当なフリをするのだと。
「変わらないな、杏ちゃん」
「言ったでしょ、勘が鋭い子は嫌いだって」
キリッとした、さっきのような甘い囁き声ではなかった。干渉してくるなと、そう示してくるようだった。
「杏樹先輩が抜けた後、私が入れ替わりで入ったの。なんとか交流部を崩壊させないように」
「入れ替わりだったのか…」
陽と杏樹の接点も理解ができ、何となく杏樹は陽に貸しがあることも察した。
でも。帰国したからにはそこに隠されている秘密が確かで。
「杏ちゃん、どうするの」
「どうするのって?」
「杏ちゃんに何があったのかは知らないけどさ、目的があって帰国したんでしょ」
「あ〜、そうそう。そうだったね」
すると、瑛斗が予想していたものとは違う角度の話題が飛んでくる。
「ズバリ!プロマジシャン瑛斗くんの復活!」
「え」
「何を驚いてるの。追っかけなんだからあなたが復活してくれないと」
「もう、俺はマジックとは距離を置きたいんだ」
「どうせそう言うだろうと思ったから、どれだけ距離を置きたいかさっきのパフォーマンスで試させてもらいましたとさ、めでたしめでたし」
「杏ちゃん…」
杏樹がさっき瑛斗に促したマジックは、瑛斗自身が今どのくらいマジックに対しての熱意があるかを試すものだった。
「帰国したのは他でもない。瑛斗くん。あなたが本当にやりたいことが何かを見定めるため」
そんな鋭い彼女の言葉に続いて陽が加える。
「そう言えばずっと気になってた。みんなにいつも楽しそうにマジックするじゃん、それに大きなホールとかを見たらテンションも上がってたし。なのに今は何でステージに上がろうとしないの?」
核心を突くその話題に、できればずっと触れずにいたかった。
でも嬉しさが勝って、みんなに楽しげに披露している自分がいる。
なのに、全身がステージを拒んでいる。
そして杏樹の冷えた眼が、瑛斗の心を突く。
「あなたは私の過去を知ろうとしてる。でもあなただって私には何も話してくれなかったでしょ?ステージの失敗だけで折れるようなあなたじゃない」
杏樹のその言葉に、陽は驚く。
「え…?失敗…!?瑛斗が…!?」
「杏ちゃん、もうその話はいい」
瑛斗からは笑顔が消えて、杏樹がいつか見た彼の顔になる。
すると、杏樹は瑛斗のアゴをグイとあげ、
「ねぇ」
「な、なに…!?」
「私とキスするか、ステージに立つかどっちがいい?」
「なぁっ!?」
瑛斗と陽が同時に驚きをあげる。陽は慌てて、
「ちょっ!?杏樹先輩なに言ってるの!?」
「え、だって私、独り身だよ?で、瑛斗くん可愛いんだから奪っちゃいたいじゃん」
「いやいやいやいや!そんなのダメだって!」
「ホワイ?」
「え、それは…り、倫理的にダメでしょ!」
「世の中勢いってのも大事でしょ?それこそ、陽ちゃんの得意分野じゃない」
「そ、それとこれとはワケが…!」
テンパっている陽を置いて、瑛斗が杏樹の肩を持ち、自分から遠ざける。
「杏ちゃん、本当に前好きだった人に未練ないの?自分を安売りしちゃダメだよ」
「あら〜、結構ガード固いのねぇ、でも優しいからポイント高いよ☆」
でも。杏樹の笑顔は、やっぱり空っぽだった。
「あの人はもういいのよ。吹っ切れた。だから帰国して復学した。今度は瑛斗くんが自分の将来に覚悟を決める番だよ」
そこまでして自分を無理にでもステージに立たせようとする杏樹の姿勢が、やっぱり瑛斗には疑問だった。
「ねぇ、杏ちゃん。何でそんなに俺にステージに立ってほしいの?」
「カッコいいからに決まってるじゃん」
「それだけなの?ホントに」
「う〜ん、そうだな〜。他の言い方をすると、瑛斗くんが一番好きな場所を知ってるから、かな?」
杏樹は純粋に人前で楽しそうにマジックをやる姿を間近で見ていた。
だから、もう一度立ってほしかった。
手段じゃない、ちゃんとステージに立つのが嬉しくて仕方ないような、目的になってほしくて。
いつか許してね、だなんて、今拭ってしまえばいいと。
それを暗に示しているのだと、瑛斗は悟った。
でもやはり引っかかる。
「しつこいけどさ、本当に帰国の理由はそれだけ?復学したってことは、杏ちゃんにも色々したいことがあるんでしょ?」
「まあね。でも、もうトライしてみた。で、叶わなかった」
「え…?」
「親友に嫌われちゃってた☆てへぺろ☆」
そうあざとく笑う彼女に、一縷の涙が。
やるべきことは、ちゃんと杏樹にはあった。
未練は恋愛なんかじゃない。たった一人に許してもらいたかった。
でも、拒絶されてしまった。
「杏ちゃん…」
「杏樹先輩…」
くたくたと倒れかける杏樹を陽が抱きしめる。
「大丈夫です!必ず!私達が何とかしますから!」
「陽ちゃん、ありがと。でも私の任務は終えたから。後は瑛斗くんのステージが見れたらそれで満足よ」
溢れる涙を気にせずケロッと笑う。
不釣り合いな感情は、前に瑛斗が杏樹に伝えた言葉にリンクしてしまう。
*
カナダにて。
「杏ちゃんはさ、日本でなんかあったの?」
「いえーす。んーまあ、部活っていう、いわゆるこっちで言うところのクラブチームみたいなものが学校にあるんだけどね、そこに入ってる仲間とまあ、ちょっとしたいざこざがあってさ」
「そうだったんだ。それって、杏ちゃんはお友達とどうなったの?」
「そのまんま。もうあんな奴のことなんていいやーって放り出して来ちゃったよ」
「そうだったんだ…。……でもさ、放り出したらそれまででしょ?杏ちゃんは俺からしてみてもしっかり者のお姉さんって感じなんだから、自分の気持ち、ちゃんと伝えに言ったほうが良いと思うけどな」
「へえ〜いいこと言うじゃん、可愛いなぁ、瑛斗くんは」
*
あの時も杏樹は変わらず笑っていた。辛いことを、ほんのり滲ませながら、つとめて明るく振る舞っていた。
そして、きっと何かを帰国後したのだと思う。
それがおそらく、うまくいかなかった。
瑛斗に分かることはそれだけで、でもそれだけでも分かっているから、関わる選択肢はやっぱり捨てたくない。
決意を込めて、瑛斗は言う。
「杏ちゃん」
「なーに」
「俺、ステージに立つ。トラウマから逃げない」
「急にスイッチ入ったね」
「その代わり、これまでのこと、洗いざらい全部話して。俺、交流部のこと、もっと知りたい。知って、この部活が良かったって証明したい。俺ができる最大限のパフォーマンスを、交流部メンバーに見てほしい。もう逃げない。だから、杏ちゃんもお願い」
きっと、バンクーバーでお互いずっと一緒にいたら、未来は変わっていたのかもしれない。
でも、こうして日本で再会して、しかも同じ学校で、同じ部活の縁があるのだから。
この際、全部を知りたい。
だから瑛斗は決めた。
「陽」
「ん…?」
「いつかお父さんに言ってくれたよね、俺は良い人だって」
「ん?そんなこと言ったっけ?」
「言いました!」
「あ、はい。え、そうだっけ」
陽は完全に忘れているけれど、瑛斗にとっては引っかかっている重い言葉。
「俺は良い人って呼ばれたら、昔の自分を肯定してしまう気がする。だから俺は良い人なんかじゃない。そう断言して、俺は前へ進む。成長したい」
「ん?どゆこと?」
陽には全く意味がわからなかったが、この決意表明は、過去を乗り越えていく上で瑛斗も理解しているあまりにも狂気的な心理だ。
「交流部主催のマジックショーをやらせて。もちろん、お客さんとしてレオさんや杏ちゃんも呼ぼう。トラとか京妃も」
レオという言葉を聞いて、杏樹はため息をつき、
「会うの確定なのね…まあいいけど」
何もないところに芽は育たないから。
ちゃんと土を用意して。
その芽を育てるには、水が必要で。
水はたった一人では汲みに行くことはできなくて。
大切にみんなでやった水やりのお陰で、樹になる。
きっとそれが今のはず。
育てた全員が、集まるべき瞬間が、すぐそこに近づいていると瑛斗には分かった。
「杏ちゃん、約束ね」
「おっけい。お互い腹括りましょうか」
杏樹、本格登場となりました。
かつての瑛斗を知る、幸心以外の人物。
そして、交流部誕生の原点。
マジックショーに向き合う瑛斗にご期待ください。