08
「本日はヴィエレト国の礼儀作法についてお教えします」
「よろしくお願いします」
離宮の外は花冷えの雨が降っている。湿気を帯びた室内でも蓮珠の周りだけは重い空気も爽やかに感じるから不思議だ。回を重ねる毎に翠燕は蓮珠の知識の豊富さに驚くばかりである。仮に翠燕が龍蒼国について他国に教授しようとしても、翠燕自身に知らないことが多すぎて、蓮珠のようにはいかないだろう。それくらい蓮珠は歴史や文化から、他国との情勢まであらゆることを知っていた。翠燕に教えてくれるのはその中でもほんの一部だったりさわりだけだったりするのだが、それでも蓮珠の有能さを知るには十分だった。
「まず初めにお伝えしておくと、ヴィエレトは他の諸国に比べて商人の立場が優遇されています。それこそ、歴史ある貴族と成り上がりの商人が平等に扱われる程に。現国王であるナウル王の治世では実力主義の考え方が強いためです。ですので、作法を間違えたからといってすぐに処罰や不敬罪、というようなことはあまり起きません」
「それを聞いて少し安心しましたわ」
「ただ、なうての商人ほど贔屓の客には要人も多く、自然と最低限の礼儀は心得ています。また彼らは優れた審美眼を持っており、相手の人となりをよく見ています。自身が尊い身分であったとしても権力を嵩に着たり、差別的な態度は許されません」
「きっと私のようなひよっこはお客さんにすらしていただけないですね」
「むしろ翠燕様の場合、いいカモにされそうだけどね」
「こら周桜。素直と言いなさい」
「…褒められていないことはわかりました」
「いいえ翠燕、あなたの身分で人を見ない素直はところは大変に美徳ですよ。ではまずは、礼から。男性は右手を軽く握り左胸の前に。最敬礼はそのまま右足を引き、膝をつきます。女性の場合は位置はそのままで右手は指を揃えて伸ばします。左手も同じ形で胸の前に重ねます。頭を下げて、相手の許可を得て顔を上げます。国王にご挨拶申し上げる際はここまでが一連の流れになります。一般的な挨拶は手の仕草だけで大丈夫ですよ」
一度やってみせましようと、蓮珠は壁側に立っていた薔牙を呼び寄せた。
「薔牙が男性の礼、私が女性の礼をします。翠燕私の礼をよくみて真似してください。周桜もついでに見て覚えてくださいね」
蓮珠と薔牙は一瞬目配せしたかと思うと、何も言わずに同じタイミングで礼をした。軍人さながらにビシッと礼をする薔牙と対照的に。音もなく床を滑るように足をひき、ふわりと服の袖が揺らいで女性用の手本を見せた蓮珠は女性から見ても丁寧で美しい所作だった。
二人の動きに魅入っていると、ハイではやってみましょうと、周桜と翠燕の番になる。見よう見まねでやってみるが普段の挨拶と勝手が違い、翠燕が姿勢を保とうとするとふらついてしまった。これは練習が必要だ。
周桜はというと、卒なくこなし蓮珠から合格点をもらっていた。何度か礼の練習をして、座学に戻る。話は関連して宴の席での話になった。
ヴィエレト国の晩餐会などでは女性から男性を誘うイベントがあるらしい。出席した女性側に花が渡されて、それを踊りたい男性へ渡すのだという。頬がくっつくような距離の踊りでなかなか積極的らしい。
龍蒼国は宴はよくあるがダンスパーティの類はない。男女で踊るというよりは男性は剣舞、女性は旋舞や扇を使った舞というような定番があり、それぞれで踊りを披露することはある。西の大国でも着飾った男女が体を寄せ合って音楽に合わせて踊るパーティがあると聞くが、翠燕には想像もつかなかった。未婚の男女が公の場で体を密着させて踊ること自体、文化が違いすぎる。
「蓮珠様もそれらのパーティへ出席されたことがあるのですか?」
「そうですね、過去に何度か」
蓮珠ならば、どの国のパーティでも目立つに違いない。異国の女性たちと踊る様子を想像して、まともに礼もできない翠燕は少し悔しさを感じた。
◆
翠燕との講義を終えて、蓮珠は自室に戻っていた。こちらに来てからあてがわれた部屋は賓客用で、広々としてそこかしこに贅を凝らした調度品が並ぶ。飾り窓の外には手入れされた木々が望める。効率重視の蓮珠からするともう少し狭くてもいいくらいだ。華美な寝台も装飾された衣装棚も趣味ではない。外に面した窓を開けると風に乗って花の香りがした。辺りは夕闇が濃くなっている。すぐに日も落ちるだろう。そこへ、待っていたように窓の隙間を滑空して1羽の烏が飛び込んできて、勝手知ったるように椅子の背に留まった。蓮珠も当たり前のようにその烏を労うと、脚に括られていた紙を解き、中身を確認する。差出人は蓮珠のよく知る人物からだ。よくよく内容を確認すると、蓮珠はそのまま紙を灯籠の火に焚べた。間を置かず部屋の扉の向こうに見知った気配がする。
「蓮珠、俺だ」
「どうぞ」
部屋に入ってきたのは薔牙だった。
「第二王子派が動いてるようだな」
「そのようですね」
龍蒼国第十三代国王蒼鋼轍。それが龍蒼国の最高権力者である。がしかし、いまは名ばかりの存在であり、現状の龍蒼国は覇権争いの真っ只中にある。斯く言う蓮珠達も、そして翠燕もこの争いに巻き込まれた関係者になっていた。
今から二年ほど前、剛腕と名高い鋼轍王が突然病に臥した。急死ではないにしろ、緩やかに進行する病とあって、次期王の話が持ち上がるのは必然だった。鋼轍王には三人の王子がおり、また第一妃と第二妃にはそれぞれ姫がいた。第一王子は明晰だが体が弱い菫泉、第二王子は武があるが傲慢で人望がないといわれる銅拳、第三王子は凡愚と呼ばれる玄鷹だ。派閥は主に第一王子派と、第二王子派に分かれ、姫はそれぞれ母親を同じくする兄ついて二つに分かれた。第三妃と翠燕の母である第四妃は早くに亡くなっており、第三王子は我関せずとばかりに一足先に国を出て遊学中だという。
そんな争いの中で末姫の翠燕が引っ張り出されたのだ。先に目をつけたのは第一王子の派閥だった。地盤を強化すべく隣国との繋がりが欲しい董泉は、手っ取り早く縁戚を結ぼうと考えた。しかし、隣国の有力貴族の候補には手頃な年代のものがなく、妹の春綺は既に所縁の臣下に嫁いでいた。そこで、縁を繋いだという事実だけが欲しかった第一王子派は手頃な娘がいたではないかと思い至ったのである。第一王子派は王宮内で孤立した翠燕の後ろ盾となるという大義名分を掲げ、嫁入教育を施し、隣国の有力貴族へ輿入れさせることにした。蓮珠達が手配されたのもこのためだ。
勿論、第二王子派がこの動きを静観するはずもなく。先程の手紙の内容を見る限り、近々動きがあるようだ。
当の翠燕が自分の状況をどこまで把握しているのかは定かではないが、蓮珠達は蓮珠達側の理由があって動いている。
「周桜にも動いてもらわないといけないですね」
「場合によっては香郭楼にも協力を仰ぐ」
「そうですね、念のため事前に知らせておきましょう」
先程の手紙の内容を薔牙に伝えつつ、ふと昼間の講義が思い出される。蓮珠の話を興味深く聞き、新しいことを知るたびに好奇心に顔を輝かせる末姫。
「彼女は健気ですね、自分の親以上に歳の離れた男に嫁がされるというのに」
「…ハクメイ様は全て承知の上だ。悪いようにはならないだろう、それに…っ」
不自然に口を噤む薔牙。蓮珠が意図を察したように無言で扉に視線を向けた。数秒後。
「使者様、夕餉の支度が整いました。バハドゥーントの護衛の方もご一緒でしょうか」
「はい、今行きます」
扉の外からかけられた声に柔らかく返事する蓮珠の傍ら、薔牙が烏を外へと送る。一瞬目線を交わすと何事もなかったかのように二人は龍蒼国の侍女について部屋を後にした。