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「ヴィエレト国は知っての通り貿易の国です。自国の物を売るのも勿論ですが、龍蒼国や、北のアストラ帝国、西のフロメイア王国、果ては魔の森に棲む魔物の素材などの商品もヴィエレト国を仲介してやりとりしています」
卓に広げられた地図にはヴィエレト国を中心にさまざまな国が描かれている。地図上でみる龍蒼国はヴィエレト国の五分の一にも満たない大きさで、いかに彼の国が大国なのかを思い知る。翠燕にとってはこんなに小さい国の、さらに王宮の中にある離宮の一角が自分の世界の全てだ。色んなことを知るたびに自分の世間が狭すぎてやるせなくなった。落ち込みそうになる気分を無理やり引き上げるため、翠燕は疑問を口にする。
「魔物?話に聞いたことはありますが、本当に存在するのですね」
翠燕の認識では、魔物は動物よりも凶暴で魔力を持つ獣のことだ。姿形は多岐にわたり、中には生き物が定かで無い形のものもいるらしい。ただ龍蒼国では街中に魔物が出るということもなければ、王宮に持ち込まれることもない。翠燕も実際に目にしたことは一度もなく、半ば物語の中のものと化している。
「そうですね。龍蒼国は魔の森に接している部分があるにも関わらず、国内にほとんど魔物の被害はありません。目にしたこともないのも不思議では無いですが、ヴィエレト国も含めて他国では大なり小なり魔物は出ますよ」
「どうして龍蒼国には魔物の被害がないのでしょう?」
「はっきりとした根拠はわかっていませんが、俗説程度なら、翠燕も聞いたことがあるのでは?」
そう投げかけられてうーんと記憶を辿るが、魔物関連の知識はほとんどないに等しい。素直にお手上げだと言えば、蓮珠は視線を周桜に向けた。
「では、周桜はなにかわかりますか?」
「建国神話のことじゃないかな?」
翠燕の卓から少し離れて座っていた周桜は蓮珠の問いに即答する。建国神話と聞いて、翠燕は子供の頃に聞いた話を思い出した。けれどそれはいわゆるお伽噺のような話だ。
「それって、龍蒼国の龍のことかしら?確かに、遥か昔から海に住む龍によってこの国が加護を受けてると聞いたことはあるけれど…それって伝説のようなものでしょう?」
いまいち納得できない翠燕に対し、蓮珠は周桜の答えに補足するように続ける。
「そうです、その伝説が最有力説だと言われています」
「龍を実際に見たことがある人はいないのに?」
「仮に龍の正体が魔物の海龍だとします。本当に存在するのなら、おいそれと人前に姿を表すことはしないでしょう。まさしく神に近い伝説級の存在ですからね。ただ、空想と言ってしまうにはこの説以外、未だ龍蒼国が魔物に襲われない理由が説明できないのが現状です」
ヴィエレト国の話をしていたはずが、いつの間に龍蒼国の話になっていた。しかもお伽噺だと思っていた話は有力説だという。龍蒼国では見る影も無い魔物は、他国では売買されるほどに身近で。翠燕は自国のことすらまだまだ知らないことが多いようだ。
「話を戻しますが、ヴィエレト国が貿易国として有力な理由としては、扱う商品の質の良さと、安全な行商の保証があります。ヴィエレト国を仲介して行商をすると、必ず"バハドゥーント"という行商人専門の護衛が付きます。彼らは砂漠の中でも迷うことなくオアシスを見つけ、最短距離で安全に国から国へ旅の補助をするのです」
「バハドゥーントは武官のようなものかしら?」
「少し違います、バハドゥーントは国の技能試験を受けて正式に認定された者しか名乗れません。その点は国試を受ける武官に似ていますが、実際に所属するのは商会ギルドや商会自体に専属として籍を置く者もいます。国と商会は密にやりとりをしてバハドゥーントの育成、管理をしています。ちなみにそこにいる薔牙もバハドゥーントですよ」
話で聞いていたことが急に身近に感じて、思わず壁に寄りかかる薔牙を見る。腕を組んで目を閉じている薔牙は話を聞いているのかいないのか。ただ組んだ腕は筋肉質で、佇まいはいかにも強そうだ。大切な商品を守りつつ道案内をしてくれるとしたらかなり頼れる気がした。
「来年には大切な姫君を国へお連れするのです。我々は使者の役割と確実な護衛も担っているのですよ」
笑顔でそういう蓮珠とは裏腹に、翠燕は複雑な心境になる。今この時が楽しいだけに、いずれ終わりが来ることを突きつけられた気がした。蓮珠も薔牙も周桜もそれぞれ役目に従ってここにいる。幼い頃から一緒にいる深李さえも、元は母の侍女だ。翠燕が努力して勝ち取った人脈は何もない。嫁ぐときはきっと一人だろう。
「翠燕、どうかしましたか?」
「いいえ、何も。よく分かりました」
虚しさが顔に出たのか、蓮珠は心配するように顔を覗き込んだが、翠燕は取り繕うように笑顔で答えた。キリが良いとのことで講義はそのまま終了し、蓮珠達は王宮に割り当てられた部屋へと戻っていく。深李は夕餉の支度のため離宮内の厨に向かっていった。私室に戻った翠燕は今日の講義の復習をしようと卓に向かったが、雑念が邪魔をして思うようには捗らなかった。