駐車場
な、なんなんだ、あいつらは。いったいなにがどうなっているんだ。
私は仕立ての良いスーツが汚れることなど構わず、コンクリートの地面を這いずり回っていた。心臓に手を当てなくてもわかる。動悸の激しさと速さが尋常じゃない。そのせいか、少し痛む。
すぐにでも医者に診せる方がいいのかもしれない。いや、それよりもあいつらに聞こえてしまわないか、ということだけが心配だ。
暑くなんてないはずなのに額を、脇腹を、背中を冷たい汗が流れているのがわかる。私は息遣いがあいつらに聞こえないように意識して呼吸をする。周りは嘘みたいに静まりかえっている。そのせいで、私の存在が浮き彫りになったかのような感覚に陥ってしまう。
カツーン、カツーン、カツーン、
コンクリートの地面を革靴か、ハイヒールのような履物で歩く音が聞こえた。
「―はっ、んん……」 私は慌てて自分の口を手で押さえ、あいつらに呼吸が聞こえないようにした。
カツーン、カツーン、カツーン、
歩く音は反響しているせいもあって、今どこを歩いているのかが正確に判断できない。
私は左手で握りしめていた車のキーを見つめた。もう、これを使って自分の車がどこにあるのかを確かめることも出来ない。そんなことをしてはあいつらに自分の居場所を教えていることにもつながるのだから。
歩く音は止まる素振りなどみせず、ずっと鳴り響いている。それは既に私の隠れている場所を把握しているからなのか、それとも、私を怖がらせるためだけなのか。
カツーン、カツーン、……。
ん? どうしたんだ……。音が止んだ。歩みを止めただけなのかもしれない。私はその場を動かず、しばらくの間息を潜めていた。
十分、いや、二十分は大人しくしていたつもりだった、もしかしたらもっと時間は過ぎているかもしれない。歩みを止めてからそんなにじっと待つことなんか、あるのだろうか。そのことに何の意味があると言うんだ。いや、きっと諦めたんだ。どんなに怖がらせても、まったく動こうとしない私の反応がつまらなかったんだ。だからやめたんだ。
私は身体を起こし、車のキーの開錠のボタンを押した。
ガッチャン、という音がして百メートル程先のところで私の車がヘッドライトを光らせた。私はすぐさま走り出し、車の所まで全速力で駆ける。全力を出したのはいつぶりか、それより、走ったのはいつぶりか、私の身体はとっくに限界を迎えていたらしい。
車まで約十メートル、といったところで足がもつれ、派手にこけた。
私はすぐに立ち上がろうとして前を向く。こんな所で、こんな所で、諦めてたまるか。
「あ、」 だが、私の目の前にはハイヒール。そしてそこから伸びる白い足があった……。
三月中旬のある火曜日、私、中村幸秀は夕方六時半現在も仕事場にいて、自分のデスクで黙々と仕事をこなしていた。静かなところをみると部署にはもう他に誰も残ってはいないようだ。
「課長、来週の失業者に向けた講演会の件なんですが」 突如、頭上から声がしてそう話しかけられた。私はびっくりしながらも顔を上げて声主の顔を見れば、私の課の新人部下である木下だった。
「―木下君、まだいたのか。来週……、そう言えば、そうだったな」 木下はもう帰るところなのか、鞄を提げている。
私が勤める会社はビジネスコンサルタントを生業としている会社で自分の課はその広報課で所謂、ビジネスコンサルタントの布教活動が主な仕事だった。来週行う予定であるその失業者に向けた講演会、というのも失業者に向けてビジネスコンサルタントの存在がいかに重要なものであるかを説明する、布教活動の一つだった。
「で、その講演会がどうかしたのか?」 私は自分のデスクの前に立っている木下に尋ねた。確か、説明するプランは全て決まっていたはずだ。その説明の流れも任せた部下から事前に確認していて、何も心配はないはずだったのだが。
「実はですね、現場の方に今朝そのプランを渡したんです」 現場、というのは実際にビジネスコンサルタントを行っている課の通称だ。うちの会社の花形であり、昔は自分もそこにいた経験があった。説明のプランを事前に現場に立つ人間に見せるのは自然なことだ。万が一誤ったことを話してはお客と現場に喰い違いが生じてしまう。そうなってしまってはうちの広報課の責任となり、そこの最高責任者である私の責任となってしまう。現に現場にプランを回すように言ったのは私自身だったはず。何か、プランに誤りが見つかったのだろうか。
「それで? プランに何か誤ったことでもあったのか」 私は木下に率直に聞いてみる。
「いえ、プラン自体には何も問題はないんです。ですが、現場からは中村課長はその講演会で話さないのか、と言われてしまいまして」
「なるほど、そういうことか……」 私は当日、講演会の行われる会場には行くことになっていた。しかし、説明自体は部下に任して、自分は見物するつもりだった。そのことが現場の人間にとっては気に入らなかったのだろう。
部下の成長のためにわざと私は何も口を出さない、つもりだったと伝えれば元は現場にいた私のことだ。それで話は通ってくれるだろう。
私は不安そうな顔をした木下を見る。入社してまだ一年にも満たない部下だ。新人、と言ってもまだ通用するくらい経験が浅い。確か、高卒でここに入社してきたはずだったから、まだ十九歳か。私はなんとなく木下の目を見ていると先程の意見を通そうとする気が失せてしまった。
「それじゃあ、プランの冒頭に私の挨拶を付け加えておいてくれるか? 挨拶の原稿は今週末までに考えておくから」
「課長が原稿を書いてくれるんですか⁉ ありがとうございます。現場にはそのように伝えておきます」 私の返答を聞いた木下は安心したような顔をして頭を何度か下げ、「お先に失礼します」と言って部署を出て行った。
「ふぅっー……」 私は息を吐きながらデスクチェアーにもたれ掛かる。余計な仕事が増えてしまったが、まあいい。それより木下の奴の目だ。あの不安そうな目、あの子にそっくりだった。年齢で言えば木下の方が一つ上になるのか。
なぜだろう、あの目を見ていると罪悪感が湧いてくる。だが、それもそのはずだった。私はあの子にとっては酷い人間だったのだから。
もちろん、木下には上司としての懐の広さを見せてやりたかった、という気持ちはあった。つい一か月前には木下と同期の社員を皆の前で酷く怒鳴りつけ、見せ物にしてしまった。そんなこともあったせいか、今は部下に優しく接しようとしているのは事実だった。特に木下のようなある程度出来る奴にはだ。怒鳴りつけた社員は次の日から会社には来なくなり、その日から一週間後には郵便で辞職願を送って来た。
まったく、マナーがなってない。正直な所、その怒鳴りつけた社員には詫びる気持ちなど微塵も無かった。名前なんかも覚えてない。
ブー、ブー、ブー。背広の胸ポケットに入れていたスマートフォンが振動し始めた。私は相手を確認せずにすぐに電話に出る。この時間に電話してくる人物は決まっている。
「もしもし」 相手は予想していた通りの人物だった。
「あ、もしもし、幸秀? 今どこにいんの」
「まだ、会社だよ」
「うへぇ~、よく働くね。まだ終わんない?」 電話向こうの相手の声を聞いているだけで、どんな顔をして通話しているのかがよくわかる。彼女はわかりやすい子だった。
「もう、終わろうと思っていたんだ。六時半も過ぎたしね」
「ふ~ん、っていうか会社にいるのに私と話なんかしてていいの?」
「ああ、そのことなら大丈夫。今部署にいるのは私だけだから」 私は念のため部署内を見回しながら答える。
「なら、良かった。ねぇ、どこで待っていればいい、いつもの店がいい?」
「そうしよう。先に飲んでいてもいいから、すぐに行く」
「わかった」 彼女はそう答えるとすぐに通話を切った。これが仕事の場面ならば不快な気持ちになるだろうが、相手が彼女だとどうしてか微笑ましい気持ちになってしまう。
私は早く彼女に会いたい気持ちが高まり、急いで帰り支度を始めた。必要な書類やノートパソコンを鞄に詰め込む。忘れ物は無いかとデスクの引き出しを開ければ、小さな白い紙の袋があった。
えっと、何だったかこれは? 手に取って中身を出してみてようやく思い出す。それは鶴岡八幡宮のお守りだった。黒い布地には金色で弓を引く流鏑馬の様子が縫われており、白く「仕事守」という文字が縫い付けられていた。仕事運を上げるお守りだ。
確か、先週の金曜日の朝に鎌倉に出張に行って帰って来た女の子から貰ったんだ。うちの部署の子じゃないのに私にくれるから、なんでだろうと思いながらもとりあえず引き出しに入れて置いたから忘れてしまってたんだ。確か、経理課の子で佐々木という名前だった。詳しくは聞いてないが、こないだ籍をいれたらしく苗字が変わったばかりだと聞いた。
「仕事守、か」 私はそう呟くと仕事守を背広のポケットに入れ、鞄を持つと、自分の車を停めてある駐車場に向かう。
会社の駐車場へと出ると、私の車の傍で一人の警備員が空を眺めていた。星を見ているのだろう。腕時計を見ればもうすぐで七時になろうとしていた。彼女、怒っていないだろうか。いや、彼女のことだ、酒代を奢ってやればすぐに機嫌も良くなるだろう。
「遅くまでご苦労様です」 私の存在にようやく気づいた警備員は私に挨拶してくる。がっちりした体格だったのでわからなかったが、警備員の顔を見たことで気づいた。どうやら思っていたよりもだいぶ年齢を重ねているようだということに。
「いえ、そちらこそご苦労様です。まだまだ七時なんて早い方ですよ。警備員さんの方がこれからで大変でしょうに」
「いやいや、昼間たくさん寝ておりますから」と言って高齢の警備員は笑った。
「それじゃあ、お疲れ様です」 私はそう言って、愛車のCAMRYを開錠し、中へと乗り込んだ。エンジンを始動させ車を走り出させると駐車場の出口へと向かう。
ふと、バックミラーを見てみれば、あの高齢の警備員が車に向かって手を振っていた。いい人だということはわかるが、普通ここまでするだろうか、と思いながら駐車場を出る。そのまま約束の店へと急いだ。
私が彼女と約束した店、THE RESTOに着いたのは七時二十分を回ったところだった。思いのほか道路が混んでおり、時間がかかってしまった。彼女と落ち合う時にいつも利用している地下駐車場にCAMRYを停めた。その地下駐車場は作られてからだいぶ経つようでコンクリートの壁には所々ひびが入っており、少し心配になる。それでも値段が安いこともあってか、自分以外にも利用者は多いようでけっこうな数の車がいつも停まっていた。
私はエレベーターで地上に上がり、そこから飲み屋街へと歩みを進めた。彼女を待たせているからか、どうしても早歩きになってしまう。飲み屋街にはたくさんの人々が道を行ったり来たりしており、個人の小さな店からチェーン店の比較的大きい店まで店の数も種類も多い。私が目指す彼女との約束をしている店は飲み屋街の中でも賑やかな中心から少し離れた静かな所にあった。
店の名前であるRESTOもスペイン語で「憩い」の意味を持つ、そういった意味と雰囲気が私は気に入っていた。
RESTOに入店すれば、他の店よりも少しおとなしめにジャズの音楽が流れており、店内は少し暗くなっている。テーブル席もあり、一組の男女がそこに座って何かを飲んでいたが、やはり目が行くのはカウンター席だった。カウンターの中には黒ベストに黒の蝶ネクタイをし、髪を後ろにオールバックでまとめた中年のバーテンダーがおり、静かな声で「いらっしゃいませ」と呟いた。カウンター席の一番奥の暗い席では私の方を見て手招きしている待たせていた彼女がいた。私は軽く手を振り返しながら、彼女の方に向かい、彼女の座っている隣の席に座る。
「遅くなってすまない、翡翠」 私は座ると同時に彼女、翡翠に謝った。
「―いいよ、別に。……ねぇ、その代わりさ、」
翡翠はツンと突き放すような態度を取ったかと思ったら、コロっと態度を一変させ笑顔を見せつけてくる。
「わかってるよ、ここは払わせて頂きます」 私は翡翠に頭を下げる様にして冗談めかした。
「あはっ、ありがとう!」
「ところで、何飲んでんの?」 私は翡翠の前に置かれたロックグラスに入った琥珀色の液体を指差して聞いてみた。
「グレンファークラス105」
「おいおい、また強い酒だな」 記憶が曖昧だが確か、アルコール度数が六十度くらいあるウイスキーだった。それを翡翠はロックで飲んでいる。
「胃に穴開かないか?」
「えー? どうだろう、わかんない!」 わからないって、開いてからじゃ遅いんだぞ。
「というよりお前、それで何杯目だ?」
「えー? どうだろう、わかんない!」
「五杯目でございます」 私と翡翠のやり取りを見かねたのか、中年のバーテンダーが教えてくれる。
「五杯って全部グレンファークラス105か?」
「いえ、その前にお飲みになられていたビールと当店オリジナルのカクテルを合わせますと八杯目になります」 ロックの前にビールとカクテルまで飲んだのか。翡翠のアルコール耐性は初めて会った時から末恐ろしいものだったが、あの頃より一層耐性が増したように思える。
「ねぇねぇ、わたしがどれだけ飲んだかなんてどうでもいいからさ、幸秀も何か飲みなよ」
「いや、私は車があるから……」
「いいじゃん! どうせこの後真っすぐ帰らないんでしょ? ひと汗かけば酔いも醒めてるって」 そう言って翡翠は私の肩に手を回してくる。
「こんなところでやめてくれよ、翡翠」 私は翡翠の手を振り払いバーテンダーにジントニックを注文した。その様子を見て翡翠は満足そうな顔で微笑んでいた。
しばらくして自分の前に置かれたタンブラーに入ったジントニックを飲みながら横で肘をつきながらグレンファークラス105を飲んでいる翡翠を私は眺める。
今日の翡翠は産まれてから一度も染めたことのないという黒髪ショートヘアをいつもの様に一部をかきあげ、それをヘアジャムで維持している。顔には軽く化粧気があるものの、酒を飲むときグラスにつくからという理由で口紅が嫌いな彼女は今日もそのままの唇だ。瞳は若干つり目で睨むと怖いが対比してまつ毛が長い。耳には私が翡翠の二十五歳の誕生日にプレゼントした彼女と同じ名前の宝石のイヤリングがあった。服装は仕事帰りであろうここの中年のバーテンダーと同じ黒ベストに黒の蝶ネクタイをしている。そう、THE RESTOは翡翠の職場でもあるのだ。
昼間はお酒だけでなく、食事も提供しているらしく、翡翠を合わせた何人かで営業しているらしい、BAR兼レストランだ。私自身も昼間にRESTOを訪れたことは無いから詳しくは知らない。ここで待ち合わせするのも彼女が移動しなくて済む楽な場所だからという、理由もあるからだった。
「ん、何見てんの」 私の視線に気づいた翡翠が私を怪訝そうにして見てくる。
「あ、いや、そのイヤリングつけててくれたんだ、と思って」
「こないだ会った時もつけてましたけど……」
「えっ、あ、そうだったか。あ、いや、そうだった、そうだった」 気まずさを感じ取ったのか、中年のバーテンダーは「炭酸水、まだ在庫あったかな」とわざとらしく呟き、店の奥へと行ってしまう。
「そりゃ、つけますよ。大事な人から貰ったものだもん」
「―ありがとう」 急な告白に戸惑ったが、素直に礼を言っておく。翡翠は照れたように顔を少し赤らめながら(酔っているからか?)反対側を向いてしまった。
「次は私が買いますよ、幸秀の誕生日に。何が欲しい?」
「私の誕生日……、四十八にもなるとあんまり物欲が無くてね」 今年で私は四十九になってしまう。
「なんかないの? 欲しい物。誕生日までに考えといてね!」 私のつまらない返答に翡翠は課題の期限を言い渡す。何か考えとかないと、と私は変な責任感を感じた。
「ま、それは置いといてさ、そのポケットの中身は何かな?」 翡翠は突如話題を変え、私の背広のポケットを凝視してくる。
「何だよ、急に」
「急じゃないよ。ずっと気にはなってたんだ」 私は仕方なくポケットを探り、車のキーと貰った鶴岡八幡宮の「仕事守」を取り出した。紙の袋から出して翡翠に見せる。
「こんだけしかないよ。仕事守は会社の子から貰ったんだ」
「ふーん、そう」
「なんだよ、疑ってるのか? わかった、嫉妬してんだな」
「別にぃ~」 翡翠は表情を少しこわばらせながら、ウイスキーを口に含んだ。
私と翡翠がTHE RESTOを後にしたのは九時を回った頃だった。結局私もジントニックの後にビールを二杯程度飲み、ほろ酔いを過ぎた辺りのいい感じの気分になっていた。ちなみに翡翠は五杯目のグレンファークラス105を飲み干した後に私の飲んでいたジントニックが羨ましかったのか、同じものを三杯程度飲んでいた。
平日だからなのか、人だかりが少なくなった飲み屋街を翡翠と二人でゆっくり歩く。私たちは自然と手を繋ぎあっていた。私と翡翠の身長は十五センチ以上差があるものの、彼女がハイヒールを履いているせいもあって、手をつなぎやすかった。
翡翠は既に泥酔していてもいいぐらいなのに、全く悪酔いしている素振りを見せない。私だったら嘔吐していてもおかしくない位の量を飲んでいるはずなのに。
「ドン、ドン、ディンドン、シュビダドン、夜が来る~」 翡翠は酒が回って機嫌がいいのか、小林亜星の「夜が来る」を口ずさんでいた。
「もう、とっくの間に夜になってるよ」と私が言えば、「私たちの夜はこれからでしょ?」と嬉しい
ことを言ってくれる。だけど何だか、気恥ずかしかった。まるで若い頃にでも戻った気分だった。そんなわけもないのに。
私たちは歩いた。歩くのが遅い私の歩行スピードに若い翡翠は合わせてくれている様だった。二人で飲み屋街の中心地点に戻って来ると、手頃なホテルを探してまた、二人で歩いた。
「ね、ここコスプレ出来るよ。ここにしようよ」 翡翠は私の腕を掴んでド派手な看板を指さして言う。キャッキャッ、キャッキャッと嬉しそうだ。
「嫌だよ。その手の店はこないだ入ったろ。結局お前、着るのが面倒くさいとか言い始めて、着ずじまいだったじゃないか。服のレンタル代だけ取られて終わったの忘れたのか?」
「……覚えてる」
「だったら、こっちの方が安くて部屋も綺麗そうじゃないか。ここにしよう、なぁ」 私は翡翠がいいと言ったすぐ隣のホテルを指差して言った。
「ええっ⁈ そこはけっこう前に同じ理由で一緒に入ったじゃん! それで幸秀、表の看板と随分様子が違うじゃないかって怒って二度と入らないって言ってたじゃない。まさか、忘れたの?」
「―本当に? ……まったく覚えてない」
「幸秀さ、大丈夫? まさかとは思うけど、若年性アルツハイマーとかじゃないよね?」 私は翡翠の言葉に不安が募る。私が、アルツハイマー? 自覚がない、というところから危ないのかもしれない。病院、予約するか?
「嘘だよー‼ 入ったことないよそのホテル! もう、気にしすぎ」
「この! よくもだましたな、翡翠」 そう言って私は翡翠を抱きしめる。私が翡翠と一緒にいようと決めたのは彼女が良くも悪くも、こんな無邪気な性格だったからなのかもしれない。心の片隅でそんなことを考えた。
アルコールが入っていたからとは言え、この時の私の行動は年甲斐もなくはっちゃけ過ぎていた。この後しばらくホテルはどれがいいか、とさまよい歩いていたが、ほどなくして程々の値段で綺麗そうなものに決まった。
ホテルの中は思っていたより綺麗で掃除が行き届いていた。私は安心し、先にシャワーを浴びに行った翡翠を待った。翡翠がバスタオルを身体に巻いて出てきた後は交代して私がシャワーを浴びた。私がシャワーを出た時に部屋の時計を見れば十時に十分前だった。
二人で一緒にベッドに横になり行った。
事が済んだ後はしばらく、浅い眠りを心がけて目をつむった。
「しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。」
「『子供よりも親が大事。』か。私にはわからないよ、いや、わかっているのにわかってしまうのが怖いだけなのかもしれない……」
「何なの今の?」 私がベッドで横になり天井を眺めながら呟いた言葉を隣で眠っているとばかり思っていた翡翠は聞いていたようだった。ブランケットを引き寄せ、胸を隠すようにしてから自分
に近づいてくる。
「んん。何って、知らないのか? 聞いたことぐらいないか」
「まったく」 翡翠はキョトンとした表情を見せながらきっぱりとそう言い、私の左腕に抱き着く様にしてつかまってきた。
「『桜桃』の最後の一節だよ。太宰治の作品の」
「なんだ、また太宰か。幸秀は好きだね、ホント」 翡翠は半ば呆れ気味にそう言った。
「またって、知らなかったじゃないか、翡翠も。前にも言っただろ、少しは本を読みなさいって。せめて、名作と言われている作品ぐらいはな……、」
「あー、はいはい。わかってますよ、そのことは前にも聞いてよくわかったから。これでも言われてから少しは読んだんだよ。『君の膵臓を食べたい』とか。泣けるよねー、わたしもう読み終わった後なんか、涙出ちゃったんだから。映画も観ようと思ってゲオに走ちゃった」 翡翠は意外にも涙脆い子だった。という私もその作品を読んで涙ぐんだことは彼女には言わない。どうせ馬鹿にされて、大笑いされるだけだからだ。
「……確かに名作には違いないだろうが、私が言っているのはね、」
「あー、はいはい。それで、オウトウ、だっけ? 黄色い桃がなんだって言うのかな、お偉いの太宰さんは」 翡翠はほぼ投げやり気味に言う。
「黄色い桃じゃなくて、桜に桃と書いて桜桃だよ」
「桜桃? それってけっきょくは同じ桃のことじゃないの」 翡翠はシャワーを浴びたせいでヘアジャムが流れてしまい、顔に垂れてくる髪を鬱陶しいそうにかきあげなら言った。
「残念、これが桃のことじゃないんだよ。桜桃っていうのは所謂サクランボのことなんだ。『桜桃』は太宰が自殺する間際、最後に書いたとされる短編私小説。自分の子どものこと、奥さんのこと、なんかの家族問題を父親である太宰、小説家である太宰の二つの視点から描いている。さっき言ってた『子供よりも親が大事。』というのは小説家の太宰から見た子どもたちのことじゃないかと考えられている」 私はここまで翡翠に説明したところで、あの子の顔、あの子の目が思い浮かぶ。償いきれない罪悪感が湧きだしてくる。
「……」
私はあの子たちに何をしてあげられた? 仮に私が無数の愛を持っていて、それを惜しみなく注いであげることができたか?
答えはNOだ。即答できる。あの子たちにとって私は酷い人間だった、とても。
だから、寝起きなんかに、翡翠といる楽しい時でありながら、太宰治、よりによって「桜桃」の一節を思い出してしまったのかもしれない。
「幸秀?」 翡翠は突然何も話さなくなった私を心配して私を覗き込むようにして見てくる。
「ああ、大丈夫。ちょっと考えてたんだ、なぜ、『桜桃』なんかを思い出してしまったのかって」
「―奥さんのこと思い出した?」 翡翠は不安なのか、語尾が震えていた。
「元だよ、元。それにあいつのことじゃない」 別れた妻、瑠美と私が出会ったのはお互いが太宰治の小説が好きだったからだ。翡翠はそのことを知っているから「桜桃」から私が瑠美のことを思
い出している、と思ったんだろう。
「―娘、さん、のこと?」
「うん……」
「瑠偉ちゃんだっけ? お姉ちゃんの方は。妹さんの方は瑠香ちゃんだよね」 翡翠には以前、娘の写真を見たことがあった。翡翠が私のアパートに来た時だ。嫌がるかと思って見せてしまわないようにとクローゼットの中に隠して置いたら勝手に漁って見つけていた。だけど彼女は言った。
「二人ともかわいらしくて、わたしなんかより賢い顔してる」と。
「瑠偉はもう、大学四年生だから、来年就職だ。教師になれるよう頑張ってるみたいだった。あいつと別れてからも頻繁に連絡とってたし、たまに会ってた。でも、妹の瑠香の方とは最後に話したのがあの子が高校に受かった時で、電話での会話だった。もう、何年も会っていない。それに離婚のこと瑠偉よりも瑠香の方が引きずってるみたいだ。こないだ瑠偉から言われたんだ、電話で」
翡翠は真剣な眼差しで私の方を見てこくり、と頷き、黙って私の話を促す。
「瑠香が第一志望ではなかったけど大学は受かった、と。それでその大学が県外らしくてね。今月末には家を離れるらしい。だから、春休みのうちに一度くらいは瑠香と会って話をしてあげてくれないかって」 私はここで一旦話を区切り、翡翠の顔を見つめた。私を見つめる彼女のつり目がこの時はなぜか、力強く感じた。私は話を続ける。
「その時は考えておくよって答えたんだ。仕事が休みの休日にでも予定を必ず空けておく、って。まだまだ時間はある、ゆっくりと整理して心の準備をしようって思った。でも、もう、三月の中旬だ。来週には会わないと、もう機会がない……」
「幸秀は会いたくないの? 瑠香ちゃんに」 翡翠は恐る恐る核心を突いてくる。
「まさか、会いたくないわけじゃない。いや、瑠香は間違いなく私を嫌ってるだろうけど、だから瑠香の為を思うと会わない方がいいんじゃないかとも思うんだ。チャンスをくれようとしている瑠偉には申し訳ないが」 私はそう言うと、ベッドから起き上がった。床に落ちてた下着を身に着け、掛けてあったスーツを着直す。
「何にしてもだけど、私は太宰治のような考え方は出来ないということだと思う。長年、彼のファンだったけど所詮私には理解し切れなかった。でも、私は『桜桃』の太宰のように最低で取り返しがつかないような人間だってこと。それだけは言い切れる」 私はベッドに横になったまま私を見つめる翡翠に向けてそう言った。
「確かに。子どもよりも自分たちが大切だと言っているような太宰は嫌いだし、なんならその、オウトウ? も読んだことも無いし、これから読もうとも思わない。その太宰に幸秀が共通してしまう点があるのはわかったけど、幸秀の場合はまだ取り返しがつくんじゃないの? 瑠偉ちゃんに連絡して瑠香ちゃんに会うべきだとわたしは思うな。自殺に走った太宰とは違うんだから、逃げないでよ、幸秀」 翡翠は私の過去の家族のことにやけに真剣だった。それなのに私は……。
「泊まっていきなよ、翡翠は。もう、お金は払ってあるから。私は明日もあるから帰るよ」 身支度を整えた私はそう言い、逃げるようにして部屋を出た。そしてそのままホテルを出る。
情けなかった、翡翠にあんなことを言わせてしまった私が。瑠香から逃げることしか出来ていな
い、私が。
このまま太宰みたいに川に入水自殺してやろうかと思った。「桜桃」を書いた太宰は自殺する間際、それはつまり「桜桃」は死ぬ間際の太宰の心情を表しているのではないのか。今の自分と似たような感情を抱いていたのではないだろうか。だったら、私も。
いや、待て。私の心情には翡翠の笑顔が映った。今の私には前の家族だけでなく翡翠までがいる。彼女まで私は悲しませてしまうのか。そんなこと出来るわけがないじゃないか。
私は憔悴し切った心情を翡翠の笑顔を思い浮かばせることで和ませ。車が停めてある地下駐車場までの道を歩いた。道中ではさっきまでのことを考え、打ち消し、また考え、そして打ち消すことを繰り返していた。やっとの思いで駐車場に続くエレベーターの前にやって来た時には既に、十一時半を回っていた。とにかく今日は帰って寝てしまおう、そう思いエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが地下に着き、駐車場に一歩踏み込んだところで、コンクリートの地面にひびが入っていることに気づく。壁だけじゃなくて地面にも、と少し不安に思った所で私は自分の車を探して歩き出す。駐車場は満車のようだった。後三十分もせずに日付けが変わるというのに、今日は平日の火曜日だというのに、私が車を停めた時よりも明らかに台数が多くなっている。
「みんな、暇なんだな」 私はそう呟きながら一歩歩を進める。
まるでそのことが合図だったかのようにパッ! と駐車場の最奥の蛍光灯が消えた。
なんだ? 蛍光灯が消えたのか。私はあまり気にせず一歩、二歩と再び歩を進めれば、パッ! パッ! 奥の蛍光灯から順に明かりが消えてしまった。
「お、おい。なんなんだよ……」 まるで、私の歩行に連動するかのように消える蛍光灯。咄嗟に歩みを止めたがどうやら関係なかったらしい、パッ! パッ! パッ! 私に迫るように残りの蛍光灯の光が次々に消えてしまった。
私は完全に暗闇に包まれてしまう。
停電だろうか? だとしたらついていない。それ以上についていない事柄が起きている可能性のことは想像せず、私はスマートフォンを取り出した。外側のライトを点け、辺りを照らす。どうやらスマホの明かりだけでは駐車場の端まで照らすことは出来ない。その上、この駐車場は地下だ。外部からの明かりが入ってることは無いのだ。
スマホの心もとない明かりを頼りに私は歩き出す。他にここには人はいないのか? 利用者がいなくても管理人ぐらいいそうなものだが。停電だとするとエレベーターを使うことは出来なくなったはずだ。となると地上から新たな人間が入って来るのは電気が復旧してからということになる。車に乗り外に出ようとしたとしても、駐車代金を払うための精算機が動いていないのではロック板が解除されない。どっちにしても私はここを出られないわけだ。
「―参ったな。明日も仕事だと言うのに、クソっ……」 私は腹いせに唾を吐き捨てる。どうせ、監視カメラも作動してないだろう。それに作動していたところで唾を吐くぐらいなんだと言うのだ。とにかく今は車に乗ろう。最悪、精算機が動いているか、どうかを確認して動いていなければ車で眠り、復旧を待つしかない。仕事には遅れるだろうが出勤できない、ということは無いだろう。
そう決めた私はとりあえず自分の車を探して歩き出す。暗いせいか何処に停めたのだったかがよく思い出せない。一台、一台車を確認していったのでは埒が明かない。私はポケットから車のキーを取り出した。これを使って車を開錠し、その時の点滅で場所が特定できる、というわけだ。
私はキーの開錠ボタンを押した。私からかなり離れたところで音がして愛車のCAMRYが点滅する。私はスマホのライトをかざしながらCAMRYが点滅した元へと歩き出す。
三月なのに地下にいるせいか、そこまで寒さは感じない。なんなら、肌寒い地上よりも暖かい。私は冬に冬眠をするカエルが地面に潜るその気持ちがわかったような気がした。そんなわけないか。
……ふふっ、ははっ、いひひっ……。 背後で子どもの笑い声がした。私は思わず振り返ってしまう。視線の先にはただ闇が広がっているだけ、子どもはおろか、生き物の気配すらない。きっと、地下を流れている水道管か、何かのパイプに水が流れた音だったんだ。それを私は子どもの笑い声と錯覚してしまったんだ。ちょっと前まで瑠香のことを考えていたんだ、それも仕方のないことだろう。
私は前に向き直る。視界の下の方で女の子と目が合った。
「わあっ!」 私は声を上げ、咄嗟に後ろに下がりその子と距離を取った。
「ふふっ、ははっ、いひひっ。何を驚いているの? おじさんが」 今聞いたばかりの笑い声だ。この子だったのかと少し安心した。女の子の髪は縮れ毛で肩にまでかかるまでの長さがある。幼い顔立ちながら二つの大きな瞳には目力がある。身長は一三〇センチぐらいで小学校低学年ぐらいの年代に思えた。
「い、いや、なんでもない、よ。それより君はどうしたの? まさか、一人でここにいるわけじゃないよね。お父さんやお母さんはどこにいるのかな?」
「……ふふっ、ははっ、いひひっ……」 女の子は私の質問に答えず、ただ笑う。おかしい、こんなに幼い子が一人で地下駐車場にいて、停電になった時も声一つ上げもしなかった。それに反するように今私の前で笑っている。私は気味が悪くなり、女の子を凝視する。
「ふふっ、ははっ、いひひっ……。ねぇ、おじさん、後ろ見て」 女の子は首を前に曲げ地面を見る様にして私の背後を指差す。女の子の髪は顔にかかり、顔が見えなくなる。私は更なる気味悪さを感じながらも恐る恐る背後を振り返る。
視線の先には先程と同じ闇が広がっているだけで何も変わったことはない。からかわれたのだ、この幼い女の子に。
「何もないじゃ……、」 私が前に向き直ると、女の子の姿はそこには無かった。消えてしまったのだ。スマホのライトで地面を照らせば女の子が立っていたと思われる場所には小さな濡れた靴の後があった。
嘘だろ、今の、まさか……。いや、やめよう、考えるのは止そう。私はとても疲れているのだ。私はそれ以上その場所にとどまるのはやめて、早歩きで歩き始める。そうだ、車だ、車にさえ乗れば、ここを出られないにしても、音楽でも、テレビでも、何か娯楽的なものに触れれば気分も良くなるだろう。私は疲れているんだ。
そう思いながら車が点滅したと思われる周辺にまで早歩きでやってきた私はもう一度、車のキー
を取り出して開錠ボタンを押す。確か、この辺だったはず。
私の背後、今歩いて来たばかりの道のり、そこから音がして一瞬明かりがついたかと思えばすぐに暗くなる。
どういうことだ? 今、私の背後でCAMRYが点滅した? そんなばかな、私は今そこを歩いて来たんだ。さっき、開錠ボタンを押した時には私が今いる辺りで点滅していたはず。なのに……。
ははは、どうやら私は本当に疲れているみたいだ。暗い中歩いているんだ、いつの間にか、自分でも気づかない内に同じところを通ってしまっていたのかもしれない。もしくは、点滅した場所を誤って覚えていたのかもしれない。そうだ、そうだ、考えられる原因はいくらでもある。
私はもう一度、CAMRYを点滅させ、駐車している場所を確認するとその場所に向けて歩き始めた。点滅したと思われる周辺までやって来ると再びCAMRYを点滅させる。
私の背後でCAMRYが開錠音を立て、点滅する。
まただ。また、私は場所を間違えた? い、いや、そんなわけがない。確かに私はあの時、ここにCAMRYの存在を確認したはずなんだ。
もう一度。—背後でCAMRYが点滅する。
もう一度。—背後でCAMRYが点滅する。
もう一度。—背後でCAMRYが点滅する。
もう、一度……。
もう……。
……。
何度私はCAMRYを開錠し、点滅させ、その場所を確認しただろうか? 十回、二十回、いや、五十回を超えているのかもしれない。
幾度も幾度も試しても、私はCAMRYに到着することは出来なかった。疲れ果てた私は駐車場の道の真ん中に仰向けで倒れ込む。もう一歩も歩けやしない。
「―はあっ~あ、どうなってんだ」 まるで狐か狸に化かされている気分だ。もし、そうなら無駄に抗うことをせず、気持ちを落ち着かせればその類の術は解ける、ということを聞いたことがある。誰だったか、そうだ、翡翠だ。翡翠はその手の話が得意だった。私は冗談半分で聞いていたが、やってみることにした。
私は起き上がり、コンクリートの地面の真ん中で正座をして目をつむる。息を深く吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。段々と気持ちが落ち着いて来た。
よしっ、もう一度試してみよう、と私が目を開けた時、私が座っている所から百メートルほど離れたところで見知らぬ車がヘッドライトをハイで点灯させた。
あれっ、他にも人がいたんだ。良かった、と私は立ち上がろうとすると、その車が激しくエンジンを吹かす。駐車場内では激しいエンジン音が反響した。
うるさいな、いったい何をしているんだと思った瞬間、車は走り出す。しかも私が座っている所にめがけて真っすぐに猛スピードで走って来る。
殺される……。
「うわああっ!」 私は死にもの狂いで立ち上がり、走り出す。正座をしていたせいだ、足がしびれてる。足がもつれそうになりながらも懸命に走り、誰かの駐車してある車と車の間に飛び込むようにして、倒れる。
私のすぐ後ろをあの車が駐車場で出すスピードではない速さで通り抜けてゆく。その時、車種を見たんだが、あれは日産、六代目、白のシルビアだった。残念ながら運転手の顔までは確認できない。
車は通り抜けた後、まったくスピードを落とすことなく走っていく、曲がることも出来るがあんなスピードを出していては曲がれるはずもない。私は起き上がり、車を目で追う。車は駐車場のコンクリートの壁にめがけて走っていく。
「危なーい‼」 私は思わずそう叫び、目を背けていた。誰でもそうなると思う。ぶつかるとわかっているものをなんでわざわざ見ていなくてはならないのだ。
しかし、車が壁にぶつかる音も、ブレーキをかける音も、曲がる音も聞こえない。いつの間にかあの激しいエンジン音も聞こえなくなっていた。
私はゆっくりとあの車が走っていった方向を見るが、そこは悲惨な事故現場でもあの車が停車しているわけでもなかった。そこにはただ暗闇があるだけだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」 私は膝に手を突き、心と呼吸を落ち着かせようとする。とりあえず整理しよう。確実に確かだと言えるのは、あのシルビアは私を轢き殺そうとしていたこと、跡形もなく消えてしまった、ということ。そして私は今、世にも奇妙でとんでもない目に遭っているということだった。消えたといえば、あの気味の悪い変な笑い方をする女の子もそうだった。
翡翠の考え方に沿った、狐か狸の仕業だとしたら度が超えている。あのまま、道の真ん中で心を落ち着けていたら私は死んでいたかもしれない。
私は車のキーで再び開錠ボタンを押してみる。すると、私の目の前から十メートル程離れたところで私のCAMRYが点滅した。今までとは違うパターンだ。今までと比べればCAMRYまでの距離がとてつもなく近い。スマホの明かりを照らせば、車体が見えるくらいだ。
しめた、と思った私は二度と車を見失わないようスマホのライトで照らし、確認しながら移動することにした。
車まで九メートル、七メートル、五メートル、と次第に距離を縮めてゆく。もう少し、もう少しで車に着く。ここまで長かった、やっと車に乗れる。私の頭の中では最後に見た中学二年生の娘の姿、瑠香の姿が思い浮かんだ。あれは私が家を出て行った日のことだ。元妻の留美とは喧嘩が絶えなくなっていたあの頃、仕事を早めに切り上げた私は帰りに市役所に寄り、市民課で離婚届を貰った。その場で私の分は書いてしまい印鑑を押した。家に帰れば無言でそれを留美に渡した。
「何これ? あなた、これ本気なの。離婚したら瑠偉と瑠香は私が連れて行くわよ。そんであなたには養育費払ってもらうわよ、あの子たちが成人するまで」 あいつがそんな条件をつけてくることぐらいはわかっていた。娘二人分の養育費となると馬鹿にならないことは目に見えていたが、もう、そんなことはどうでも良かった。私は毎日意味もなく怒鳴ってくるあいつにはうんざりしていた。「愛」なんて言葉の存在を思い出すことも無かった。そもそもあいつとの出会いはお互いが太宰治好き、というこの一点のみであり、今まで一緒にいられたのもその一点が繋ぎ止めていたからであって、あいつの心には私はいなかったし、私の心にもいつの間にかあいつはいなくなっていた。だが、「愛」なんてそんなものだと思う。「愛」はその人の考え方によっては「憎悪」や「希望」に成りえる。曖昧なものなのだ「愛」は。
私はあいつが書類に自分の名前を書き込み、印鑑を押すのを見届けた後に、「いいとも、だが、成人するまでだ。その後は君とは他人だ」と言ってやった。成人年齢が引き下げられようとしている今、私は瑠香が二十歳になる前に養育費を払わなくて済むようになる。だけど、私は瑠香が二十歳になるまで支払うつもりでいた。私とあいつなんかの間に産まれてきて気の毒だった。すまない、私は最低の父親だった。せめて、一言だけでも謝りたい。
私は決心する。この駐車場を無事に出られたら瑠偉に電話し、瑠香と会う約束をすると。もう少しだ、もう少しで私は車に……。
車体がはっきりとスマホの明かりに照らされ、そのボディに手が触れられると思ったその時、私の背後から声がした。
「……ませ、ん……も、……せん……めたい。……たい……」 私はこれまでとは違い、すぐに後ろを振り返ることが出来なかった。明らかに違う、これまでとは比較にならない私を明らかに嫌悪し、憎悪するそんな意志が感じられた。
ここを出て、瑠香と会う。その気持ちを私は強く持ち、後ろを振り返る。
「あ……かっ…、」 私はまともな言葉が出て来なかった。その闇の中にいたのは若い男には違いないが、頭がパックリ割れて頭蓋骨が見え、その中身までもはみ出している。その亀裂は頭だけには収まらず、顔にまで伸び口にまで達していて、両目の位置が上下にずれている。そのせいで左右の目がそれぞれに変な方向を見ている。それだけではなく、左足が上半身に反して逆の方向を向いていて、私の方を向いて伸ばしている右手の五指はそれぞれ好きな方に曲がり、手の役目を果たせるようには思えなかった。私はこの男は生きていない、と直感した。
「……ませ、ん……も、……せん……めたい。……たい……」 男は聞き取れない言葉を発し、私に近づいてくる。私は畏怖して動かない身体をどうにかして動かそうとする。そうだ、車に乗ろうと思い出し、後ろを振り向けば、そこにはさっきまであったはずの車がない。
私は絶望と疲労で足に力が入らなくなり、その場で座り込む。男はその間もよくわからない言葉を発し私に近づいてくる。
「助けてくれっー‼ 瑠香! 瑠偉! 翡翠! 助けてぇ!」 私はもう自棄になり、三人に助けを求めて四足歩行で這いずり回った。駐車されている車と車の間を這いずり、あの男から逃げる。しばらく這いずり回った後に気づく、あの男は歩くのがとてつもなく遅い。私が気配さえ消しておけば探し出すのは困難だということに。
すると今度はあの男のものではない、ハイヒールか、革靴で歩き回る音が聞こえ始めた。今度はいったいどんな奴が出てきたのか? 私はとにかく隠れることに決め、足音がしなくなってからもしばらくは動かないようにし、息を殺していた。
時間が立ち、何も起こらないことを確認すると私は車のキーを使い、自分の車の場所を探し出す。
すぐ近くにあることがわかると、右手にはスマホ、左手には車のキーを握りしめ、そこに向けて全力で走り出した。私はあと少しのところで派手にこけてしまう。すぐに起きようとしたその時、スマホの明かりに照らされて私の目の前にはハイヒール。そしてそこから伸びる白い足があった。
「あがあああー‼」 私は今までに出したことのない声で叫び、後ろへ飛び上がる。そしてそのまま四足歩行で逆の方向に逃げようとした瞬間、何事も無かったかのように駐車場の蛍光灯が点いた。
「あれっ、課長? 中村課長ではありませんか?」 そしてどこかで聞き覚えのある声色で私の名を呼ぶ。私はすぐに逃げるのをやめた。後ろを振り返るのは怖かったが、あの男が現れた時のような禍々しい私に対する嫌悪や憎悪のオーラは感じられなかった。意を決し私は声のした方を振り返る。
「やっぱり。中村課長ではないですかー、広報課の。私です私、経理課の佐々木です」
「さ、佐々木さん……」 あの部署は違うが私に鶴岡八幡宮の仕事守を買ってきてくれた子だった。
「どうしたんですか? 課長。そんな幽霊でも見たような怖い顔して。あら、膝が破けてますよ」 四足歩行で這いずり回ったせいだ、私のスーツの膝の部分は破け、膝自体も擦りむいて、血が滲んでいた。
「い、いや、大丈夫。それより、佐々木さんいつからここに? 電気が消えた時にはここにいたのかい?」 私は一番気になっていたことを聞く。私の質問を聞いた佐々木は意味が解らない、とでも言いたげに不思議な顔をし、口を開いた。
「電気ってどういうことです? さっきも今もずっとついているじゃないですか? いつからって今から帰るところですよ。さっきまで飲み屋街の居酒屋で会社の子たちと飲んでいたんですよ。課長もそうでしょう? だいぶ飲まれたんじゃないですか、きっと酔って寝ぼけていられたんですよ。それより立てますか? 手伝いますよ」 佐々木はそう言って私に触れようとする。私は「いや、大丈夫。一人で立てるよ」と言い、補助を断る。そして何とか、言うことの利かない膝を奮い立たせ、自力で立ち上がった。
佐々木は「良かった、大丈夫そうですね。それでは私お先に行きますね。おやすみなさい」と言い、すぐそばに駐車されていた車、緑のCOOPERに乗り込み、去っていった。しばらくしても戻ってこない所からして精算機にも電気は来ているのだろう。
私は自分の車を探せば、車のキーを使わずとも、明かりが点いているのであっさりと見つけられる。ドアは鍵がかかっていなかった。拍子抜けするほど私はスムーズに愛車、CAMRYに乗車できた。
エンジンを掛ければ、車内にボンジョビのLIVIN ON A PRAYERが流れ始める。私がいつも車の中で聞いている洋楽だった。元妻は嫌いだったけ……、はは。
私は音楽の音量を下げると、スマホで時間を確認する。時刻は地下駐車場のエレベーターに乗る前に確認したのが最後、確か十一時半過ぎだったはず。私は何時間ここを迷っていたのだろうか。
「馬鹿な」 時刻を確認した私の一言目がそれだった。時刻は十一時四十分。時計が正しいのならば地下に降りて十分も経っていないことになる。いや、今はそんなことはどうでもいい。今の私にはやるべきことがある。私は電話を掛けた。電話はわずかコール二回目で繋がった。
「もしもし」
「もしもし、父さん? どうしたのこんなに遅くに」 私はあの時決意したように瑠偉に電話を掛けたのだった。
「もしもし、瑠偉か。遅くに悪いな。実は、あの話なんだが、父さん、瑠香に会ってみようと思うんだ」
「本当に? 良かった、瑠香も喜ぶよ。いつなら大丈夫?」
「休日に会おう、土曜日でも日曜日でも、どっちも大丈夫だから」 瑠偉は「こんなに遅くまで仕事なの?」と聞いてきた。私は「ちょっと飲んでいたんだ」、と答える。
「そうなの、でも、お父さん、全然酔っている風には思えないんだけど」 それは何時間も駐車場をさまよい続けていたからな、とは言えず。
「あははっ、まあな。父さんそんなに飲んでないからな」
「そっかー、それじゃあ、瑠香にも予定を聞いてからまた連絡するね」 私たちはお互いにおやすみ、と言い合うと通話を切った。
「ふぅー、瑠香に会える」 通話を切った後に私は無意識にそう呟いていた。私はもう一度電話を掛ける。次の電話はコール十回ほど続いたところで繋がった。
「もしも、」
「うるさいっ! 誰だよ~、もぅ、こっちは寝てんのにぃ~」 どうやら寝ているところを起こしてしまったようで翡翠は機嫌が悪かった。だけど、私にはどうしても今日中に翡翠に伝えておきたいことがあったのだ。
「寝ているところ悪い、翡翠。私だ、幸秀だ」
「ユキヒデ~? なんなの? さっき別れたばかりじゃない、何か言い忘れたことでもあった?」
「実は相談したいことがあるんだ。明日の朝早くに会いたい」 そう、私は翡翠に話したいことと相談したいことがあった。
「―いいよ。わたしも幸秀に言いたいことがあったんだ。とにかく詳しくは明日聞くから。ほんじゃ眠いから、おやすみ~」 そう言って通話は翡翠によって切られる。何時から、どこで、という約束の基本を取りつけないところが翡翠らしかった。また、明日電話を掛ければいいだろうと思い、スマホをしまう。するとしまったばかりのスマホが胸元で震えた。
「もしもし」 私はすぐに電話に出る。もしかしたら、瑠偉かもしれない。
「あ、夜分遅くに申し訳ありません。木下です」 部下の木下だった。
「お、木下君。どうしたんだい、こんな遅くに」
「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません」 どうしたんだ? 何かがおかしい。
「お、おい、木下。もういいから。どうしたんだ?」
「……ませ、ん。……も、……せん……めたい。……たい……」 あの男の声だった。
「うわああー‼」
水曜日、私は時間をずらして午後から会社に出勤した。会社には体調が悪いから病院に行ってから出勤すると嘘をついておいた。気分がすぐれないのは事実だったが、本当は翡翠に会いに行っていた。朝、八時に翡翠に電話すると、THE RESTOの店長には遅れるという旨は伝えたからどこかの喫茶店で話そう、ということになった。
「そんじゃあ、ついでにわたしのアパートまで向かいに来てよ。不安でしょ? 幸秀も」 翡翠は私の話したい内容に感づいているようでそんなことを提案してくれる。正直言って有難かった。昨日、木下と偽りかかって来た電話のせいで、私は自分のアパートに無事に帰ってからも怖くて眠れることは出来なかった。目をつむれば誰かの、あの男の視線を感じるのだ。左右バラバラな方向を向いた眼球による視線が。
「はあ~っ」 出勤し自分のデスクチェアーに座った途端に欠伸が出る。しかし、眠気はちっともない。
「課長、大丈夫ですか? 目も真っ赤ですよ。病院に行くほどつらいなら今日はお休みになった方がよろしいんじゃないですか」 私の様子を見ていたのか、木下がそう言ってくる。
「ああ、心配ありがとう、木下君。—あのさ、君、昨日私に電話したかい?」
「昨日ですか、してないですけど」 木下は怪訝な視線を私に送って来る。
「―だよな。い、いや、気にしないでくれ。私の勘違いだから。そんなことより、木下君、私がこないだ怒鳴ってしまったせいで会社を辞めたあの子の名前、何だったかな? いやね、悪いことしてしまったと思っていてね、ちょっと謝ろうと思ってたんだが、どうしても名前が思い出せないんだ」
この質問を考えたのは翡翠だった。翡翠を迎えに行った今朝の八時半頃、翡翠は行きつけの喫茶店があるからそこで話そうと言い、そこまで車を走らせた。場所は翡翠のアパートから五分程走らせたところにあり、店の名前は、「喫茶 いこい」だった。名称を見た途端、ちょっと笑ってしまった。入店すれば、綺麗な黒髪で腰のあたりまで伸ばした中学生ぐらいの女の子が出てきて、「……いらっしゃいませ……」と小さな声で挨拶した。
「ハーイ! 日影ちゃん、元気してる?」 翡翠はその子に向かって馴れ馴れしく話しかけていた。知り合いなのだろうか。
「―カワセミちゃん、いらっしゃい……」 日影と呼ばれた女の子は翡翠のことを「カワセミちゃん」と呼び、少し微笑んでいた。暗い雰囲気の子だが笑うとかわいらしかった。
「とりあえず、いこいブレンド二つね。あとわたし、朝何も食べてないんだよね、卵サンド一つお願いねー」 またこれも私持ちなんだろうな、と思いながら翡翠と二人でテーブル席に座る。座ってからぐるりと店の中を見回してみる。店内は広くはなく、その上壁は本棚に覆われていて、置かれているのは漫画本かと思えば全てが活字本だったので珍しく感じる。だけど、雰囲気自体は悪くはなく、図書館のような落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「いい店でしょ? 幸秀。たまに来るんだよねー」 翡翠はリラックスし切った顔で私にそう言う。
「だけど、お前、本読まないだろ。何しに来るんだ?」と私が突っ込めば、「日影ちゃんとお話しに来てるんですよ」と口を尖らせて言い返してきた。
私は店の奥にあると思われるキッチンへといつの間にか消えて行った日影ちゃんの方を見る。
「ああ、あの子ね。ここの亭主だよ」 私が気にしていることに気づいた翡翠はそう教えてくれた。
「て、亭主⁉ あの子、まだ中学生ぐらいだろ? もう、働いてるのか?」
「正確には今年の四月から高校一年生。まあ、行かないだろうけどね。中学校もほとんど行ってなかっただろうし」 翡翠は平然として言う。
「おいおい、それで両親はいいのか? この先、どうするつもりなんだ」
「まったく、これだからお堅い役職の中年は。彼女のどこを見てんのよ、一人で立派に店を切り盛りしてるじゃない。彼女の両親は産まれたばかりの日影を児童養護施設の前に捨てたの! それから何も知らなかったどっちかのおじいさんが引き取ったらしいんだけど……こないだね。というわけで日影はおじいさんの残した唯一の遺産である店を引き継いでるの。わかった⁉」 翡翠は私に捲くし立てる様にして声を荒げながらそう教えてくれた。特に日影ちゃんの両親のことについてはなぜか、私も反省の気持ちだった。
「私が悪かったよ、何も知らないであんなこと言ってしまって。だけど、翡翠、それを何も関係のない私に言ってしまって良かったのか?」 純粋に疑問に思ったことについて私は聞いてみる。
「あっ……、」と翡翠はしまったという顔をして両手で口を塞ぐ。そして、「幸秀、このことは本人の前では知らない振りしてよ」と小声で私に言ってくる。
どうしようもない奴だな、と私が思っていると、「……お待たせしました、いこい、ブレンド二つと……、卵サンドです……」と小さな声で日影ちゃんが注文した品を持ってきてくれる。
「お、美味しいそう!」と翡翠が派手にリアクションを取る。
「……カワセミちゃん、私は、構いません、よ?」と翡翠に小さな声で言った。翡翠は「えっ? いいの。っていうか聞こえていたんだ、ごめん!」と謝る。日影ちゃんはにこりと微笑み、店の奥へと消えて行った、かと思うとUターンして戻って来た。
「あの! そのポケットの中身は何ですか?」 テーブルをバンと叩き、私の方を睨むようにして言う。何だか、前にもそんなことがあったような。
「へ?」 私は日影ちゃんのあまりの変わりよう、そしてその剣幕に圧倒されながらもポケットの中身、佐々木に貰った仕事守を取り出す。日影ちゃんはそれを私の手から奪い取ると、凝視し続けた。
「あの、初めまして。カワセミちゃんから話は聞いています。カワセミちゃんの……カレシ、さん……ですよね。私は榊日影。今後とも喫茶いこいのご贔屓をお願い致します。それでは本題です。この鶴岡八幡宮の仕事守、どなたから貰ったんですか? その人はあなたを呪い殺そうとしていますよ」
「あ、え、えっと……」 私は日影ちゃんの話に全くついて行けていなかった。店の宣伝からの突然のあなたはは呪われてますよ、宣言。いったいどうしたものか。
私は翡翠と日影ちゃんに昨日の地下駐車場での出来事を話した。電気が消え車の駐車した場所にどうしてもたどり着けなくなったこと、変な笑い方をする女の子に出会って消えてしまったこと、車に轢き殺されそうになりその車も消えてしまったこと、何を言っているのかわからない生きてはいないと思われる男のこと、仕事守をくれた佐々木に会った途端に奇妙な現象がストップしたこと、そして、あの男からの電話のことまで、事細かく全てを説明した。
「ふーん、なるほどね。日影ちゃんが言うように間違いなく呪ったのはその佐々木っていう女には違いないね」 全てを聞いた翡翠はそう言った。私にはなぜそうなるのかがさっぱりわからない。私が佐々木から貰ったのはただの鶴岡八幡宮の仕事守だ。それがなぜ、私を呪っていると言うんだ。それになぜ、そこまで接点のない部署の違う佐々木に私が呪われなきゃならないんだ。動機がないだろう。
「問題はなぜ、佐々木さんという方が……その、あの、カレシ、さん……を呪ったのか、という点です」 日影ちゃんは真剣な顔をしてそう言う。
「あ、あのー、日影ちゃん。そのー、カレシさんっていう呼び方やめてもらえないかな。私は中村幸秀です、初めまして」 私は気になっていたその呼ばれ方を訂正してもらえないかとお願いする。
「えっ? でもお二人は……お、お、お付き合い……なさっているのですよね?」
「うん、まあ、それは間違ってないかな。でも私はもう四十八だし、カレシさん呼びはちょっと恥ずかしいかなって。日影ちゃんも呼びにくそうだし」
「わかりました。では中村さん、でよろしいですか」 私はそれでお願いします、と返答した。それにしてもこの、日影ちゃんという女の子は先程の接客の時は小さい声だったのにも関わらず、今のこういう話題になった時にはとても饒舌の様に感じる。
「では、話しを戻しましょう。中村さんは他に自分を恨んでいる、と思われる人物に心当たりはありませんか?」
「えっ……、そうだな」 私はすぐには自分を恨んでいるような人物は思いつかなかった。もちろん娘たちには恨まれていても仕方ないだろうが、今は関係ないように思える。元妻だろうか? とも考えたが、養育費を律儀に払っている現在、支払いが遅れてしまった、滞納しているということも無いので、恨まれる筋合いなどないはずだ。それにあいつのことだから、もし本当に殺したいぐらい私を憎んでいるとすれば、本人が直接殺しに来るだろう。
「思いつきませんか? では質問の仕方を変えますね。中村さんが最近酷く怒ってしまった人、もしくは酷いことをしてしまったと思う人はいませんか?」 日影ちゃんは私に質問の趣向を変え聞いてくる。
「―そうだ。男だけどちょっと前に部下全員の前で怒鳴ってしまってそれから会社を辞めてしまった奴が一人いたんだ。でも、本当に仕事も出来ないくせに態度も悪かったんだよ」 私は言い訳をするようにして言った。なんでこんな子どもに私は言い訳などしているのだろう? だが、私の答えを聞いた日影ちゃんは鬼の形相と言えるくらい怖い顔をしていた。
「それで、辞めた後に中村さんは何もしてあげなかったんですか?」 日影ちゃんは私を責めるようにして言ってくる。もちろん日影ちゃんがそんな気持ちを持ってしまうのはわかる。だけど、社会はそこまで甘いものではないのだ。怒鳴られて辞めて行った奴のフォローなんてやっている暇などないのだ。
「君が怒るのもわかるが、一々そんなことをしていては仕事にならないよ。まだ社会に出たことの
ない君に言ってもわからないだろうけど……」 私のその言葉にますます日影ちゃんは怖い顔をして私を見てくる。
「まーまー、そんなにいがみ合わないでよ。初対面の二人が。気まずいたらありゃしない」 翡翠がそう私と日影ちゃんを交互に見ながら言ってくる。
「とにかく、二人が言っていることはわからなくもないよ。一番中途半端なのはわたしなのかもね。人のことよりも自分のこと。仕事も融通が利くところにいるしね。っていうか、そんなことはどうでもいいの‼ 幸秀がその男に怒鳴ったのは間違いないんだよね?」
「ああ、間違いない」
「じゃあ、その男の名前は?」 私は翡翠からのその質問に詰まってしまう。私はその男の名前にまったく覚えが無いのだ。正直にそう答える。
「はぁー、本当に部下だったんだよね? まあいいけど、それじゃあ、その部下のことを覚えていそうな奴に聞いてみて、謝りたいからその部下の名前を教えてって。ついでに今何をしているのかも聞いた方がいい」
という訳で私は木下にその部下の名前と現在の詳細を聞いていた。
「えっ⁉ 課長、それって僕と同期だった子のことですか?」
「ああ、確かそうだったと思う」 私がそう答えると、木下は真っ青な顔をしながらも丁寧に教えてくれた。
「名前は佐々木敏だったと思います」 そうだ、確かそんな名前だった、と私は相槌を打つ。
「敏さんは車好きで、よく古い日産の車に乗って出勤していました」 私はふと、思い出す。地下駐車場で見た私を轢き殺そうとする白いシルビアを。気づけば聞いていたそれは白のシルビアではなかったかと。
「僕は車に詳しくないのでよくわからないですが、白い車には違いありません。本人が言ってたんですけど、確か六代目だとか、どうとか言っていたような」 私は背筋に悪寒を感じた。それで? 今何してるの、と私は続きを促す。
「本当に知らないんですね、課長……。彼、死んだんですよ。自分の住んでいたアパートの屋上から飛び降りて」 脳天から口まで続いていた亀裂、反対の方向を向いていた左足、二度と使い物にならないと思えた右手のひら。あれは飛び降りた後の姿だったのか。
「……そうだった、のか」 まさか、死んでいるとは知らなかった私は唖然とし、力が抜けてしまったようにデスクチェアーにもたれ掛かる。
「ここを辞めてから大分立っていたので、会社ではそこまで大きな話にはならなかったですし、彼がとんでもない問題社員でしたから、課長が怒鳴るのも仕方ありませんよ」 私を慰めてのことか、木下がそう言ってくれる。
「ですが、彼、籍入れたばかりだったんですよね。あれ、それも知りませんか? ほら、課長こないだ話していたじゃないですか。経理課の佐々木さんと。彼女、旧姓は池田ですけど結婚して佐々木になったんですよ。敏さんが亡くなってからも苗字を戻さないということはよっぽど好きだったんでしょうねー」
私は全てを理解してしまった。あの男が何者なのか、佐々木がなぜ私を呪おうとしていたのか、も。
私は思い出す。午前中の出来事、喫茶いこいでの出来事を。
「わかった、その部下のことは聞いてみるが、佐々木はいったい何なんだ。なぜ、彼女が私を呪っているのは間違いないんだ? 私はただ、鶴岡八幡宮の仕事守を貰っただけなんだぞ」 私は翡翠に説明を求めた。
「はあー、幸秀さ、そのことは教えてあげてもいいんだけど。何か感じない? 嫌なオーラとか、なんて言うか、そういう雰囲気とか?」 翡翠は私に呆れた視線を送りながらそう言ってくる。
「わかるように言ってくれないか?」
「カワセミちゃんが言いたいのはこの仕事守を持っていても何も感じないか、ということです」 日影ちゃんは私に仕事守を持たせながらそう言った。
「―いや、別に。特には何も思わないが。二人は何か感じるのか?」 私はずっと不思議に思っていたことを翡翠と日影ちゃんに尋ねてみる。そういえば、RESTOで翡翠は初めて仕事守を見せる前からポケットの中身を気にしていた。
「はあー……。これだから、鈍感な奴は」 翡翠は盛大に溜息をつき、私をこれまで以上に呆れた目で見てくる。
「しょうがないですよ。感じないのが当たり前です。私やカワセミちゃんみたいなのが異常なんですよ。にしても、ここまで無自覚なのは珍しいですけどね、普通はそんな体験したら、原因が何なのかぐらいはわかるものなんですけど」 日影ちゃんは私を哀れんだ目で見てくる。
一体何なんだ、何がこの二人には感じることが出来て自分には感じることが出来ないのか。感じれるのが異常で、感じないのが当たり前、そして私は無自覚。何だか、自分だけ劣っているように思える。
「いい加減にしてくれ、二人とも。何が感じるのか私にも教えてくれ」 我慢できずに私はそう口にする。
「わかりました」 最初に了承してくれたのは日影ちゃんだった。翡翠も「まあ、しょうがないっか」と後に続く。
「ですが、私たちが感じているものと同じものを感じることは中村さんには出来ません。これは感じることが出来る人と感じることが出来ない人、二種類いるものですから。まず、感じることが出来ない人が大多数でしょうけど。そういう見えない人には見てもらうのが一番手っ取り早いです」 日影ちゃんはそう言って、一度店の奥に引っ込み、何かを持って戻って来る。彼女が持ってきたのは鋏だった。
「百均のカニの殻を切るための鋏です。安い割にこれって切れ味がとってもいいんですよ」 日影ちゃんはそう言って何度か鋏をチョキチョキと動かす。
「そんなもので何をするつもりなんだ?」 私は少し不安に思いながら日影ちゃんに尋ねる。
「これに使うんです」 日影ちゃんは私の手から仕事守を奪い取ると、仕事守の上の部分をバッサリと切り落とした。
「何をするんだ!」 私は声を荒げ、日影ちゃんの腕を掴もうとする。だが、先に翡翠に腕を掴まれ、阻止される。翡翠は女性にしてはとても力強い。中年の私が勝てるはずがなかった。
「幸秀‼ いいから、見てみなよ」 私の腕を掴んで離そうとしない、翡翠は私にそう言った。日影ちゃんは切り口から仕事守の中身を見せてくる。
「普通、お守りの中身と言うのは、紙・板・布・金属などで出来た内符と呼ばれる小さなお札みたいなものが入っているものなんです。ちなみにこれがその内符ですね。ですが、」 そう言って仕事守の中身を取り出す。黒い布地の中には小さな紙の袋が入っていた。更にその紙の袋の中身も開けてしまう。
「あれれ、おかしいですね。これは一体何でしょうか?」 日影ちゃんは紙の袋の中身をテーブルの上にサラサラと出す。出てきたものは、プラスチックの様な破片で、複数個あった。
「いいですか? 中村さん。これは本来内符の中に入れるものではありませんよ。ご自分の目で確認してみてください」 私は翡翠に「もう大丈夫だから、私が悪かった」と言って腕を解放してもらう。自由になった私はテーブルの上に散らばっている破片の一つを手に取り、目の前でよく見てみた。
触ってみたところ、やはり思っていた通りプラスチックの様な手触りだった。ただ、表面は筋の様な線がいくつかあり、見た目よりも丸みがあった。こんなものが何だと言うんだ、と思っていると、私はあることに気づく。これは私にも付いているものだと。そのことに気づくと私は「うわっ」と声を上げ、それをテーブルの上に落としていた。
「気づかれましたか? 中村さん。これは一体なんですか?」 日影ちゃんは嬉しそうに微笑んでいた。どうかしてるよ。
「つ、爪だ。人間の爪だ」 私は思っていたことをそのまま答える。
「ご名答。そうです、これは爪ですね。中村さん、人を呪う方法はいくつもありますが、一番簡単なものは何でしょうか? それは呪われた物を呪いたい人に渡す方法です。この爪は恐らく、大きさからして足の爪でしょう。それに綺麗な爪です、手入れをされていますね。女性のものなんでしょうね。その佐々木さんという方のものと考えていいでしょう。この爪にはあなたに対する怨念や憎悪が含められています。なんせ、あなたを恨んでいる人物の一部なんですから」 私は日影ちゃんの話を聞いているのが怖くなってきた。まさか、あの時貰った仕事守にこんなものが入っているなんて。日影ちゃんは再び紙の袋の中身を覗きこむ。
「あら、これは大変。もっと凄いものが入ってますよ」 日影ちゃんは私の目を凝視し、不敵な笑みを浮かべた。私はわからなくなる。私が怖いのは呪いなのか、それとも目の前にいる榊日影なのかが。日影ちゃんは紙の袋を傾け、袋の奥に会ったと思われるものをテーブルの上に出す。
コロッ、とサイコロの様にテーブルの上に転がり出てきたものは白く、爪なんかよりも質量のあるものだった。爪の時よりもすぐに何なのかがわかってしまう。
「ううっ……」 私はわかってしまったことの後悔に思わず声を出し、目を逸らしたくなる。
「おやおや、これは歯ですね」
「―もう、やめてくれ……」 私は日影ちゃんの話などもう聞きたくは無かった。
「大きさからして奥歯でしょうか? どう思います、中村さん。どうしたんですか? しっかり見てくださいよー」 しかし、日影ちゃんは私を無視し、私を責めるようにして話しかけてくる。
「―やめてくれ。……もう、やめてくれ!」 私は大声を出し、日影ちゃんの話を止めた。
「やれ、やれ、まあいいでしょう。とにかくこれが中村さんを呪っている呪いの菌根とでもいいましょうか。あなたが先程、私とカワセミちゃんに話した昨日の体験談、そのことの原因はまさにこれ。さあ、どうしましょうか?」
「ど、どうしましょうかって、これで終わりじゃないのか? だって原因はわかったんだろ。これで謎が解けたんだろ。それじゃあ、終わりでいいじゃないか」 私は半分訴える様に日影ちゃんに言った。
「うーん……、中村さんがこれで終わりにしたがっているのはわかりました。誰だってずっと呪われたままでいるのは嫌ですからねー。ですが、呪いというのはそう甘いものじゃない。先程私に言ったじゃないですかー、社会は私が知るほど甘いものじゃないんだと。ですから仕返しという訳ではありませんが、呪いもあなたが思っているより甘いものではないのですよ」 日影ちゃんはいい気味だと言わんばかりの口調で私に言ってくる。私は自分の甘さを呪った。まさかこんな子どもに言いくるめられるなんて。
「クスクス、そんな絶望し切った顔しないで下さいよ、中村さん。あなたは運のいいことに私の一番の友達のカワセミちゃんの……カレシ、さん……なんですから。教えてあげますよ、どうすればいいのかを」 相変わらず、カレシさんという言葉を言いづらそうにしながらも、少し優しい口調になってそう言った。
「いいですか? まず呪いというものは、人間によって作られるものです。だけど作っただけではいけません。その呪いを呪いたい人に渡せなければなんの意味もありません。だから、要は受け取らなければ良かったんですよー。両親に教わりませんでしたか? むやみに人から物は貰うな、と。あれはそういう意味があることもお忘れなく。ですが、今回残念ながら中村さんはその呪いを受け取ってしまいました。ですが、一番厄介などなたから貰った呪いなのかはわかっています。ならば、呪いを解けばいいんです。いいですか、ここからが大事ですよ。普通人から物を貰った場合、いらなくなったら捨てればいい、捨てさえすればそれで解決です。ですが、呪いはそう上手くは行かないんですよ。捨てて、戻って来るだけならばまだいい、厄介なのは呪いが強くなってしまうこと。だから、呪いを貰った時は絶対に捨てないようにしましょうねー」 日影ちゃんは両手を使って×を作って、微笑む。なぜか、この状況を楽しんでいるように見えてくる。
「今回、中村さんの良かった点はズバリここです。貰った呪いを捨てずにずっと大切にポケットに入れていたことです。鈍感で無自覚でも、ここは評価すべき所ですね。自分を褒めて次回に生かしましょう」 翡翠は私に対して呪い講座を行っている日影ちゃんの様子を見て嬉しそうにしている。
「さて、それでは肝心な呪いの解き方に移りたいと思います。呪いは先程も言った通り、人間によって作られるものです。それも、呪いたいと思っている人物がいる人間によって。では中村さんここで問題です。あなたは人に酷いことをしました。どうしますか?」 日影ちゃんは突如私を見つめて問題を出してくる。どうやら、おふざけには思えない。
「―謝る。謝って許してもらう」 私は考えるまでもなく、そう答えていた。私の回答を聞いた日影ちゃんは今日会ってから一番の笑顔で微笑んだ。
そして「大正解ですよ、中村さん」と言い、私の手を両手で握って来た。
「呪いをかけた佐々木さんはあなたを恨んでいる、憎んでいる。だったら、許してもらえばいいんです。問題はなぜ、あなたを恨んでいるのかです。それはきっと、あなただけがわかっているはずなんです。なんせ、呪われる原因を作った張本人なんですから」
「本当に。本当にそれで呪いが解けるの?」 私はいつの間にか日影ちゃんの手を握り返し、そう聞いていた。
「ええ、大抵は解けます。色々と問題はありますが、例えば呪いをかけた本人がひねくれた性格で呪いをかけられた人が気づけない程のささやかな問題であったりした場合とか」
「えっ?」 少し安心した私は握り返す力を弱めた。
「簡単に言えば、『名探偵コナン』の犯人に相手からハンガーを投げられたから殺した、みたいなどうでもいい動機だった場合、ということです。他にも、よっぽど呪いが強い場合です。これはまあ、某映画に出てくるような誰かに殺された、もしくは村の習慣自体が呪われたものだった、などの場合です。大丈夫、滅多にありません、安心してください。それに、この仕事守から感じられるものはそこまで禍々しいものではなく、ひねくれたものでもない。ただ単に純粋な怨みです。謝って下さい。あなたの気持ちが大事です」 そう言って日影ちゃんは私の手を離した。
「ありがとう」 私は日影ちゃんにお礼を言った。
「……い、いえ、で、では、どうぞ、ごゆっくり……」 日影ちゃんは最初の様に小さな声になり、店の奥へと消えて行った。
「はー、勉強になったわ」 翡翠は満足そうな顔をしてそう言った。
「な、なあ、翡翠。なんでここに私を連れてきたんだ? あの子に私を会わせたかったからか? 確かに解決策はわかったが、お前もわかっていたんなら教えてくれれば良かったのにー」 私は翡翠に笑いかけるようにしてそう言った。
「何言ってんの。わたしにあんな対策方法までわかるはずないでしょう。わたしにわかったのはその仕事守が異常なものだっていうことだけ。日影ちゃんほどの力はわたしになんかないよ」 翡翠はそう当たり前のように言った。
「あの子はね。別に幽霊が見えていたり、妖怪が見えていたりするわけじゃないのよ。ただ異様な力の働きがわかるの。だから、わたしが幸秀に出来ていたこととすれば、ただお払いに行っておいでって言うことぐらい。あの子は無理やり強い力で追い払うやり方を極端に嫌っているの。だから今みたいに根本的な解決方法を教えてくれた。そういう異様な力の働きが生き物に見えるらしいよ、あの子には」 そう言って翡翠はすっかり冷めてしまった、卵サンドに食いついた。私も一切れ貰ったがとても美味かった。
私は回想を終え現在に戻って来る。パソコンに向き合ってはいるが、全く仕事は進んでいなかった。あの卵サンドほんと美味かったな、と思う。もし、無事に呪いを解くことが出来たら、また今度、喫茶いこいに顔を出そう、そう思った。
さて、木下から聞いた話をまとめるに、私を呪っている佐々木の怨みの原因は私が部下の目の前で怒鳴り散らしたことで会社を辞めてしまった佐々木敏の死であり、佐々木敏が自殺した原因を私だと思っているのだろう。だけど、そう思われても仕方のないことなのかもしれない。これは私の責任だ。
私はデスクチェアーから立ち上がる。もう、荷物は鞄の中に詰め込み、パソコンの電源も落としていた。不思議に思った木下が話しかけてくる。
「あれ、課長、どうしたんです?」
「やっぱり、どうも体調が悪くてな。申し訳ないが今日は帰ることにしたよ、すまんな」
「そうですか。顔色も悪いですし、今日は早く帰って大事を取った方がいいですよ」 木下はそう言って私にお疲れさまでした、と頭を下げる。
「みんなも今日は無理せずにな!」 私は自分の部署にいる社員にそう呼びかけ、部署を出た。そのまま帰らず、経理課の方へと向かう。もちろん佐々木に会って謝るためだった。
「すいません、佐々木さんという女性の方はいらっしゃいませんか? こないだ鎌倉の方に出張なさっていた」 私は経理課の部署に入ってすぐ近くにいた子に話しかけた。
「中村課長? 佐々木さんって女性のですよね」
「ああ。頼む」 その子は部署の奥へと行くとあるデスクの前に立ち止まり、そのデスクの主に話しかけていた。デスクの主は顔を上げ私の方を見る。私に仕事守をくれた、あの駐車場で会った、あの佐々木さんだった。佐々木さんは私の顔を見るなり驚いた表情をした。まさか、私の方から話をしに来るとは思っていなかったのだろう。佐々木さんは腰を上げると、私に目をあわせづらそうにしながら、目の前まで来た。
「どうかされましたか、中村課長」
「佐々木さん、仕事中に失礼します。実は佐々木敏さんのことでお話がありまして。今から時間を取ってもらうことは出来ませんか?」 私が佐々木敏の名前を出した途端、彼女の目つきが変わった。
「―わかりました、いいですよ。ちょっとうちの課長に断りを入れてきますね」
「あの、もし、あれでしたら、広報課の中村がちょっと野暮用で佐々木さんを借りたい、と伝えてください」 佐々木は部署の中でも一番のいい造りのデスクにいた経理課の課長に方に行くとしばらく事情を伝えていた。経理課の課長は顔を上げ、私と目が合うと手を振って来た、私も手を振り返す。どうやら納得してくれたようだった。佐々木は一度自分のデスクへと戻ると、コートを手にして戻って来た。
「お待たせしました。どこでお話します?」 佐々木はそう尋ねて来る。
「あまり、人には聞かせたくないお話です。会社を出たところのスターバックスにしておきましょう」
「ええ、わかりました」 佐々木はそう返事した後、目的のスターバックスに着くまで一言も喋らなかった。私は落ち着いた態度を保っているのがやっとで、これから自分を呪っている張本人と話すのかと思うと、背中を冷たい汗が流れた。
私たちは会社を出たすぐ傍にあるスターバックスに入店するとそれぞれに注文をした。店の中は平日の午後二時過ぎという中途半端な時間帯であったせいか、妙にお客の数は少なかった。私の中でスターバックスはいつも混んでいる、流行っているというイメージだったので新鮮な気分だった。
自分たちの頼んだ品物が出来ればトレーに載せて、人が少なそうなテーブルに席に座った。座ってすぐに私はとりあえず頼んだコーヒーを啜った。うまい、確かにうまいのだが、午前中に飲んだ喫茶いこいのコーヒーも負けないくらい美味かったな、と改めて思った。
「―それで。それで、佐々木敏に関するお話というのは、いったいどういったものなんでしょうか?」 佐々木は注文したものを一切口にせず、本題へと切り出した。私は佐々木の顔を見る。佐々木は既に私を見ていたようで真っ先に目が合った。
「……はい、わかりました。今回わざわざ私の話の為ここまで来て下さりありがとうござ……」
「そういったことはもう、いいですから。敏について私に話したいことがあるのでしょう? 単刀直入にお願いします。中村課長」 佐々木は私の言葉を遮り、話しを促す。本来、これが部下と会話であったら私は文句を言っているだろう。だが、今の私の立場は彼女より下だった。
「はい。まずは謝らせて下さい。正直に言います。私は今日、初めて敏さんの死を知りました。佐々木さんが敏さんとご結婚なさっていることも。私は彼の勤務態度に対して怒鳴ってしまった、それも他の部下の見せ物にするようにわざと大勢部下がいる前で怒鳴り散らしました。それならばまだいい、私は彼をその場で土下座させたのです」
私はその時のことを思い出していた。周に多く人がいるのにも関わらず佐々木敏を怒鳴り、土下座までさせた。このことはさすがに、翡翠と日影ちゃんのいる前で言う勇気は無かった。
「敏を、敏を怒鳴って、土下座までさせた理由は何だったんですか?」 佐々木が嗚咽を漏らしながら私に尋ねた。
「彼の勤務態度が悪かったから、と記憶しております。ですが、私には正直、その時なぜ彼にそこまでしてしまったのかが覚えがないのです。そのことがまさか、彼の辞職に繋がり、自殺に繋がるなんて思ってもいなかった。このことは本当です。どうか信じてください!」 私は日影ちゃんの言葉を思い出す。
謝って下さい、あなたの気持ちが大事です。
「だからと言って私が悪くないわけでもない。そのことは謝ります‼ 私が悪かった。だけど、本当にまさか、このことで彼が自殺するなんてことは微塵にも思ってなかったんです。どうか……そのことだけは信じてもらいたい……」 私はテーブル席に頭をつけ、彼女に頭を下げる。周りのお客が私に視線を向けているのがわかったが、構うものかと思った。私に出来ることはとにかく彼女に謝ること、詫びることだけだった。
「中村、課長……」 私が頭を下げてしばらく時間が経過した頃にようやく佐々木が声を出した。
「前を向いてください、中村課長」 私は佐々木に言われた通りに前を向き、彼女の顔を見る。彼女は私を見つめたまま、涙を流していた。
「中村課長、あなたが敏を怒鳴ったこと、それだけが彼の自殺の原因じゃない。そんなことはわかっていたことなんです」
「―それは。それはいったいどういうことなんですか? 佐々木さん」
「ごめんなさい。確かに敏はあなたに怒鳴られたことが原因で仕事を辞めました。だけど彼の心はそんなことで自殺するほど脆くはないんです。脆いわけがないんです。そんなこと、最初からわかっていた、それなのに私は‼」 彼女は一際大きな声を出し、大粒の涙を流す。私はわけがわからなかった。
「落ち着いて下さい、佐々木さん。ゆっくりで、ゆっくりでいいですから、事情を説明してもらえませんか?」
「……はい、すいません。本当は彼が自殺したのは私の責任なんです。彼が勝手に仕事を辞めたこと。それに加えて、その辞職願を出した方法が郵便だっていうことに私、とても頭にきて、喧嘩したんです。なんで、そんな簡単に仕事を辞めたのか、なんでやり方しか出来ないのか、って。私怒鳴って、怒鳴って、彼に対して喚き散らしたんです。彼と一緒に住んでいた部屋の物をほとんど彼に投げつけて、それでも彼のことが許されなく言ってしまったんです。もう、あなたとは一緒にいれない。長い付き合いだったけどさようならって。そしたら彼、それまでとは違ってあからさまに落ち込んだ様子で悲しい顔をしたんです。今まで見たことも無いような。でも、私、そんな彼のことをほっといて部屋を出たんです。しばらく、外をほっつき歩いた後に、どうしても彼の最後の悲しそうな顔が頭を抜けなくて、結局、部屋に戻ろうとしたんです。だけど、部屋に行く前にアパートの駐車場で彼の遺体を見つけてしまって……」 佐々木はそう語った後にテーブルに置いてあった布巾で涙と鼻水でいっぱいの顔を拭いた。そして少し、呼吸を整えると再び口を開いた。
「それで、それで、私、彼の変わり果てた姿を見て意味がわからなくなって。誰のせいなのかを考えて、考えて、考えて。そこで思いつくのが、」
「私、だったという訳ですか」 私はそこで初めて口を挟んだ。
「はい、その通りです。—すいませんでした。決して課長のせいじゃないんです、それなのに私、敵を取らなくちゃって思って、主張で鎌倉に行った時に鶴岡八幡宮に寄る機会があったので、そこで仕事守を購入して。気づいてないかと思いますが、私、あの、課長に上げた仕事守の中身を入れ替えたんです。呪ってやろうと思って、馬鹿げてるとはわかっていたんですけど。あの夜、私が駐車場にいたのはその呪いの効果を窺うためで。あの時の課長、とても恐れた顔をしていて、まさか、本当に呪いが成功しているとは思っていなくて」
「とっても効果がありましたよ、あのお守り。ですが、返した方がいいですね」 私はそう言ってポケットからビニール袋に入れたあの仕事守を取り出す。
「どうして? どうして中身が違うってわかったんですか? 絶対にわからないと思ったのに」
「知人にそういうのがわかる人がいましてね。見事に暴いてくれましたよ。こんな爪を剥ぐ様なことまでして。痛かったでしょうに」 私は彼女にビニール袋ごと渡す。
「はい、爪は両足の爪をピンセットで摘まんで剥ぎました、とても痛かったです。でもそれより課長は怖い目に遭っているはずです」 そう言って佐々木は渡したビニール袋からあの歯を取り出した。
「この歯は彼のものなんです。彼が飛び降りた遺体のすぐそばに転がっていたのを私が拾っておい
たんです。なんせ、彼の遺体の第一発見者は私でしたから」 なるほど、そういうことなら、あの駐車場で飛び降りた後の姿で彼が出てきたことも納得できる。
「あー、良かった。大事なものだったんです。良かったー、戻って来てくれて」 佐々木はそう言って大事そうに歯だけをハンカチで包み込み、鞄の中にしまっていた。そんな様子を見ながら私は先に席を立つ。
「それでは私はお先に失礼します。今回は本当に申し訳なかった。近いうちに敏さんのお墓にも参りたい、と思っていますので」 私はもう一度、佐々木に頭を下げ、そう言った。
「いいえ、今回のことは全て私の責任です。中村課長には本当にご迷惑おかけしました」 そう言って彼女も私に頭を下げた。
「では、」
「あ、そうそう。彼の墓なんですけどないですよ」
「えっ?」 私は歩み始めていた足を止めて、彼女の方を振り返る。
「彼の方の実家では遺骨を実家の方の墓に入れたいと何度も連絡来るんですけど、そんなことさせるわけがないじゃないですかー。だって、敏さんは私の旦那さんなんですよ。骨の一本たりとも誰にも渡しませんよ。ねえ、敏さん。……ふふっ、ははっ、いひひっ……」 私は頭だけを再度下げ、スターバックスを後にした。
次の朝、会社に出勤した際、スターバックスの建物は半壊していた。木下に聞けば、昨日午後二時半頃にトラックが突っ込んだという。死人は佐々木ただ一人だけだったらしい。
この話を日影ちゃんにすれば、「ほら、よく言うではないですか。人を呪わば穴二つって。だから、呪う人も呪われる人も注意が必要なんですよ」とだけ言った……。
週末の土曜日、私は朝から翡翠と電話をしていた。
「だから、大丈夫だって。きちんとする必要はないって。幸秀がただ一言言ってあげればいいだけの話なんだから」
「なんて言えばいい?」 私の声は自分で聞いてもわかるほど不安な気持ちで溢れかえっていた。
「そっからですか。はあー、まったく。瑠香、大学合格おめでとう! 今日は会ってくれてありがとう。今まで不安にさせて悪かったね、とか、色々あるでしょ」
「本当にそんな感じでいいのか……、今更なんだよとか、思ったりしないか」
「―とにかく! 自分の気持ちを伝えてあげなよ。……えっと、黄色い桃みたいな話にならないように、あの話は家族同士の話し合いが足りなかったと思うよ、私は。もっと、太宰のクズも奥さんの方も話し合いが必要だった」 翡翠の「桜桃」の感想に私はなるほど、と思った。そしてなによりも。
「―翡翠、『桜桃』を読んだのか?」 彼女が「桜桃」を読んだことが驚きだった。
「えっ? んん、まあ、読んだよ。やっぱり、私は嫌いかな、こういう話は。っていうかそれしか読んでないけどね。もう読むつもりはない」 翡翠の感想に私は苦笑しながら、「わかった、ありがとう。瑠香と話してくる」と伝えた。
「うん、頑張りなよ」 翡翠はそう言って電話を切った。私は瑠偉と電話で約束した、瑠香が待っているという店に向かう。何年ぶりかに娘と二人きりで食事をするのだ。
私は瑠香の今を想像しながら車に乗り込んだ……。