笑顔の方程式
私はその時、娘のマチと一緒に、オセロを楽しんでいました。
町の中心にある、コミュニティーセンター。一階にあるこのテラスでは、おしゃべり自由、飲食自由のフリーなルール。私たち親子の他にも、旅行の打ち合わせをしている年配の方が二人、高校生の男子が四人、たむろしています。
おしゃべり自由ということもあり、なかなかの騒がしさです。
けれど、私たちとしては困ることはありません。
オセロに静けさは必要ないのですから。集中力? 必要ありません。もちろん、相手が幼い我が娘であれば、という場合ですけど。
「おいーふざけんなよ」
高校生男子4人組のうちの一人、坊主で日に焼けた色黒の男の子が声をあげました。野球部でしょうか。
男子高校生だなんて、普段の私や娘には縁遠いもの。男子といえば、近所に住む娘の友達、ショウちゃんくらいでしょう。確かにヤンチャ坊主ではありますが、まだ新1年生といえば、可愛いもんです。
「ちゃんと聞けって‼︎」
ペラペラと紙がめくれる音がして、ノートを開いているとわかります。
たしなめられた相手は、茶髪にピアスのやんちゃそうな子です。教科書に手を叩きつけるように、めちゃくちゃにめくっています。
「マジ聞いてるって。48ページだろ」
教科書が破れるのではないかというくらい、速い動作の繰り返し。それと同じくらいの速度で、仲間たちが畳み掛けるように、言葉を重ねます。
「おまえのために教えてやってんだからな」
「そうだぞ、タイガ」
「これで今度赤点取ったら、俺らもう協力しねえからな」
タイガと呼ばれた男の子は、少し離れたこの席からでもわかるくらい、ぷうと不服そうな顔をしています。キラリと光るシルバーのリングが、耳たぶにぶら下がっているのが見えます。
「おおお、あったあった。この方程式な。でも本当に、ここってテストで出るんだろうな?」
男子高校生とは、こんなにもお腹の底から太鼓でも叩くような、野太くて大きな声を出す生き物なのでしょうか。エスカレートしていく、テラス中に響く声に、私はマチが怖がってしまうのではないかと、少しハラハラし始めました。
けれど、マチは次の一手を考えるのに夢中で、オセロの駒をつまんだ指を、盤上でウロウロさせているだけです。
(大丈夫か……)
その時です。
「いてえっっ」
その声で、マチの身体がびくっと跳ね上がりました。
今までの声とは種類の違う、大きな声。その声は、どうやらタイガと呼ばれている茶髪の男子です。
「いててててえぇ」
さすがのマチも後ろを振り返ります。指でつまんだオセロはまだ宙をさまよっています。
「紙で指切ったあ。くっそいてえ」
タイガくんは右手の人差し指をぴんと伸ばし、左手で押さえようとしては右往左往しています。他の三人は笑いながら、ただ囃し立てるだけ。
「バッカだなあ、タイガは。こんな時もクソだな」
「とことんツイてねえなあ、ほんとおまえ」
「赤点の次にだせえ」
大笑いの渦。
年配の二人が席を立ちました。さすがにうるさかったのでしょうね。顔を見合わせ、苦笑いを浮かべながら、テラスからいそいそと出ていきます。
私がその様子に目を取られながらも視線をマチに戻すと、マチが自分のスカートのポケットをごそごそしているのが目に入りました。持っていたオセロは、いつのまにか、空いていたマスに置かれています。
そして、マチがポケットから小さなビニール袋を取り出す様子を認めると、私の胸が騒ぎ始めました。
そのビニール袋は、私がいつもマチに持たせているもので、転んでケガをした時のために入れてあるバンドエイドの袋です。
「マチ?」
私が問いかけると、マチはにこっと笑いました。
その袋から一枚のバンドエイドを取り出すと、とても満足したような表情で、私を見上げてきます。
もちろん、指を切った男の子に渡すつもりなのでしょう。マチの優しさに、胸が熱くなりながらも、私はそのバンドエイドを受け取ろうと、手を伸ばしました。
男の子たちはまだ騒いでいます。
「すげえいっぱい血が出てきたっ」
「マジで痛え」
「紙で指切ると、くそ痛えよな」などなど。
呆れた思いで、私は手を伸ばしました。そして、その手がバンドエイドに届きそうになった、その時。
マチが勢いよく立ち上がり、たたたっと男の子の方へ走っていきました。
一瞬の出来事です。
「マチっ」
私は思わず、腰を上げました。
けれど、マチはすでに男子高校生を前にしています。そんなマチの後ろ姿は、何か大きな壁に対峙しているようにも見えました。それは男子高校生たちが、真っ黒な学生服を着ていて、運動部でもやってそうな大きな体躯を並べて、テラスの真ん中を陣取っている。だからなのかもしれません。
私には不思議と、マチの後ろ姿がとても勇敢なものに見えたのです。
浮かせていた腰を、そろりとイスに戻しました。
茶髪にピアスのタイガくんは最初、それこそ何が起きたのかとキョトンとしていましたが、差し出されたマチの手からバンドエイドを受け取ると、まじかーと言いながら、笑いました。
「まじかあ、ありがとー。すげえ、嬉しい‼︎」
さっきまで大きな声でしかなかった男子高校生の声が、格別な響きになりました。男子高校生にとって、この音量が通常運転だったのかもしれません。
「めちゃ優しいな。この子」
「ヨメにしてえ」
それは、やべえと笑い声。
「ありがとうなー」
「バカタイガに愛の手が」
「マジ天使か」
マチが満足そうな顔をして戻ってきます。そして、私がそんなマチを迎えてから顔を上げると、タイガくんが立ち上がって、ぺこりとお辞儀をした姿が目に飛び込んできました。
私が、にこっと笑って手を上げると、タイガくんは座って、バンドエイドの包装をはがしています。くるっペタっと貼りつけると、にひひと笑って、人差し指を空へと突き上げました。
ああ、なんて気持ちの良い‼︎
「マチ。お兄さん、めっちゃ喜んでるよ。良いことしたねえ」
私はそう言いながら、マチに目を向けました。すると、マチがドヤ顔をしているではありませんか。
慌てて、オセロを見ます。なんと、いつのまにか盤上はみな、白に‼︎
あらあ、見事にやられました。一枚のバンドエイドで敵の目をそらすだなんて、これも勝利のための定石のひとつでしょうか?
マチのドヤ顔が少し、癪にさわります。
けれど、小学一年生に大人気ないこともできるはずがありません。
私は降参の意を込めて、両手をあげました。まあいいでしょう。ちゃんとアイスをおごる約束を果たすことにします‼︎