側室ありき
どの藩も財政難で所帯は汲々として、これ以上農民からも絞れないほど農民からは搾り取っていた。だが勅子の日常はそんな生活とは無縁にあった。里帰りでは相変わらず仰々しい触れ箱や槍振りを先頭に勅子付きの徳重亀之進の他、総勢三十九人の家臣を従えた行列は当たり前であった。駕籠に乗って陸路でも帰ったが、天候が許せば萩から舟を使うこともあった。お忍びでも度々帰った。お忍びでは旧姓に戻り家臣の下に身を寄せている母を訪ねた。母の万世は家臣の世話になる身で贅沢は出来ないけれど、身なりは越後や勅子の生母としての矜持を保つべく,その気構えを身に付ける着物で貫いていた。表生地は幕命に逆らわず粗末な綿生地を使用しているが裏地は絹で、出自が武家である女の意地を見せとしもた。訪ねると化粧気のない素顔にも拘らず細面の顔の美形を失ってはおらず満面を笑みにして迎えた。姑の瑶光院が亡くなり勅子は自由になって万世を訪ねるにも逐一伺いを立てる必要はなくなった。行きたい所は従者を伴い気兼ねなく行けて勅子の裁量で家政を行うようになったが、裏向きの長となったからにはすべてのことを把握しておく必要もある。その為には厚狭毛利の居館も一度は訪ねておかねばならない課題の一つであった。元美唯一の実子である邦之助が元服して正式に次期後継者となったのだ。その子に対面しておく必要もあった。これまで結婚式を萩で挙げて以来萩の堀内が生活の拠点で厚狭の居館に行く必要はなかった。だから厚狭を訪ねるのはこれが初めてである。だが何故か気乗りしない。その理由は自分でもわからないのだが、ただ気が進まないままに先送りしていたのだが、何時までも避け続けるわけにも行かなくて或る日意を決して駕籠の用意をさせた。元美と子まである仲の女に会うことに気が退けるのか、自分でも本当の理由が掴めないままに日を開ければ開ける程億劫になって、とうとうこの日まで来てしまっていた。自分に子があればこんな気持ちにならなかったかも知れない。毅然と構えていられた。しかしとにかく渡世は難しい。期待される勅子にはどうしても子が出来ないのだった。まだかまだかと待ち望んだ姑達が逝って急かす者は居なくなり気は楽になったが、それで問題が解決したわけではない。そんな気持ちを引き摺って厚狭の居館入りはなお気が重い。子に恵まれないこと、厚狭の居館を訪ねなければならないことを考えると、心は暗く沈んだ。しかし一度は通らねばならない道なのだ。心を決め、そして出立した。すると気の重いはずであった。初対面の挨拶を終えて元美も席を立っていなくなると、寿賀がそれを待ち構えていたように口を開いた。
「わたくしは、奥方様を存じておりました。
以前お目にかかったことがございます。
わたくしは、徳山のお城で御奉公させていただいておりました。寿賀でございます。
こういうことになりましたが、今後ともどうぞよしなにお頼み申し上げます。」
寿賀は深々と頭を下げた。あろうことか、あの時の娘だったのだ。しかし勅子はすぐには思い出せなかった。お前は誰?と叫びそうになった。寿賀はすっかり落ち着いて大人の顔に成っていた。と同時に武家の住人の品が備わっていた。記憶を辿るうち徐々に思い出されてきた。ずっと嫌な予感がしていたのは、この所為だったのだ。いっそ知らなければよかった。なまじ知っていただけに受け入れ難いものがあった。いやそれは言い逃れに過ぎない。どちらにせよ、一人の男を共有するもう一人の女の存在は不協和音のもとだ。それにしても何故、徳山の奉公人が元美の妾なのか。出自が低いとだけ聞いていたがまさかあの子だとは露知らなかった。それ以上交わす言葉も見つからなくて、だがずっと心の奥に引っ掛かっていたものがここに来て露呈したような、それはここに居てはいけないような観念にとらわれ、歯切れは悪いが腰元を促し唐突に別の部屋に移った。お供の面々も勅子に続いた。慌てて移る理由は何もないのに大人げないことだったが、勅子は居場所のない居たたまれなさに追い立てられそれ以上そこに留まれなかった。元美は投網が好きだ。萩でも気が向くと客のある日に投網を打ち、その漁で客を持て成す。大漁を宣言して漁に出掛けたから、是非それを待って夕餉を共にして欲しいと引き留められたが、自分の家でありながらまるで客人のような扱いに違和感を覚え居たたまれなさはさらに募った。そういえば元美も後ろめたさを取り繕うようにそそくさと漁に出掛けていた。勅子を精一杯もてなして機嫌を取ろうとする心の内が透けた。好きという惹かれ合う感情で結び付いた二人の間には、何人の介入をも許さない鉄の扉で封じられたような疎外感が勅子を直撃した。勅子は自分が元美と二人だけの時に対比していた。お義理のようなよそよそしさを感じた。勅子はこれまでそれを普通だと思ってきた。だが寿賀との間に流れるほのぼのとした空気感は勅子との間にはないものだった。これが真の幸せの構図なのだ。勅子との夫婦関係がお座なりに思えた。寿賀との間にはあって自分との間にはないものをまざまざと見せつけられて胸が苦しくなった。長い間理由もなく厚狭の居館を避けていたのは、勅子の鋭い感性がこの目撃を避けていたのかも知れなかった。萩にも情を交わした女性はいる。そしてその女性は勅子の目の届く範囲で生活しているが然程気にならない。元美の一時の気の迷いを満たすだけのような、勅子に余裕がある。だから元美が時折見せる弱気にも親身になって助言をし勇気付けることが出来たし、世間にも認められている確かな自信があった。遥かに年上であるにもかかわらず、元美も心からそんな勅子を頼りにした。しかしここではそんな勅子の内助も余計に思えた。元美も勅子の助言など必要としない懸念さえ生じた。覇気のない男の子を紹介されたが気はそぞろだった、どんな子だったか、まともな言葉をかけたかどうかさえも覚えていない。ただ凝視していたような記憶ばかりが甦る。子供の存在も彼等の仲に色を添えた。今回厚狭の居館を訪ねた目的は邦之助との対面だったはずだが、気が付けば帰途についていた。帰りの駕籠の仲、勅子はずっと沈黙を通した。駕籠の中ではまんじりともしなかった。萩の堀内に着いた時には空は白々と明けていた。徳山から後、寿賀はどれだけ学び自分を磨いたかは知らないけれど、好感度の高さと容姿を武器に元美の子まで儲けたのだった。勅子が身に付けた学問や武芸は、誇り高き人間性を育みこれは勅子にとって何ものにも代えがたい財産であった。しかし政略結婚にはない、元美とこの世でたった一人運命のような出会いをして結ばれた寿賀の前では、勅子は勝ち目のない敗北者のような屈辱感で一杯になり、これまで勅子を支えてきた誇りも自信も砂上の楼閣のように脆く崩れ落ちていくのだった。武士の妻たる者こうであるべきと教示を受けそれは納得している積りであったが、自然な情愛を通わせている二人の間には、何人たりとも侵すことのできない領域があることを突き付けられたようで、勅子は心のざわめきを鎮めることが出来なかった。
何かがおかしい、受け入れられない。
しかし誰も間違ってはいないし誰が悪いわけではない。ただ現状を受け止めるしかないのに勅子の心はざわついた。これは自分がおかしいのだ。抑えられない自分の学びが足りないのだ。これを他人に悟られてはならない。この動揺を誰かに悟られることは武士の妻として恥辱である。しかし動揺は何時まで経っても治まらなかった。
江戸時代では儒教から派生した朱熹の説く朱子学を幕府が官学として取り入れており勅子もその学びを受けて育った。朱子学では臣は君に仕え、子は父を敬う上下関係の論理をきっちりと教え込み、その上下関係の論理は夫婦にも及び妻は夫に従うもの、もしも不満を持つならばそれは欲望であり、その欲望が抑えられないのは学びが足りないからに他ならない。学びを習得すれば人間の欲望は理性で抑制出来るようになると説いている。すなわち感情に左右されるのは学びが足りないからで人間として未完成恥ずべきなのである。儒学の教えを骨の髄まで擦り込まれている勅子としてはここは耐えるべきなのである。これに違和感を持つなど武家の正室として恥ずべき行為であり愚の骨頂であった。
しかし勅子は血の通った生身の人間、本能に左右される動物でもあり、その本能が拒否反応を起こしていた。誰に脅かされることのない不動の地位を得ているにもかかわらず、それだけでは承服できないものが勅子の体内で騒いだ。健気に元美を必要とする寿賀を、無碍にも出来ずむしろ愛おしいと感じる男の姿が彷彿とした。勅子は妄想を振り払った。だが纏わりついて離れない妄想を拭い去ることは出来なかった。これが政略結婚の実体なのであった。勅子は無性に母に会いたいと思った。母の胸に寄り縋り思い切り泣きたかった。何も言わなくても母に会えば救われた。
幸せになるのですよ、結婚式を終えて帰る母の目はそう言っていた。
娘の幸せを願う母ならこの苦しみを吸い取ってくれる。母に会いたいと心の底から願った。
そうだ、母に会いに行こう。
しかし母に会いに行くのも容易ではない。
お忍びで舟を出すよう頼んでおいたが潮流が悪く舟もおいそれとは出せない。天候が好転するのを一日千秋の思いで待っているのに、それを邪魔立てするかのように潮目の悪い日が続いた。
勅子は琴を弾き三味線を爪弾き気を落ち着かせた。やがて気も紛れた。もう徳山に行くほどのこともなかったが、舟が出せると聞いて予定通り出させた。
勅子に比べ母は哀れであった。御用済みになって情け容赦なく打ち捨てられ、名目は母が家臣を養子に取る形の縁組をしているが扶持米が付くわけではなく、家臣に養われているのであった。それに甘んじている母を見ていると勅子の悩みなど微々たるものであった。こんな女性蔑視の仕組みが罷り通る世であることが悔しかった。だからといって男になりたいとは思わない。何故世の中は、女も男と対等に渡りあえないのだろうと時代を呪った。こんな世の仕組みを呪った。だが勅子がどうもがいてもどうにもならないのであった。それにしても万世はどうしてこんな屈辱的な道を選んだのだろうと思う。他に選択肢はなかったのか、慎重で賢明な万世に限って若気の至りはではないはずだ。勅子はこの疑問をずっと抱きながら愚痴一つこぼさず耐える万世を見ていると聞くに聞けなかった。万世はただ黙々と自分を貫いていた。長年の贅沢な城での暮らしに馴れていたはずだろうが、身を寄せた家臣に迷惑の掛からないようつましい生活をしていた。贅沢は悪、それが叫ばれるようになって久しく、武士にも綿服着用のお達しが再三にわたってあり、倹約令は下々に行くほど締め付けは厳しく、目に余る贅沢は密告されて突き上げられその咎は親類縁者にまで及んだ。だが万世は武士の出自の誇りを失わず、決して身なりを崩さなかった。勅子は貧しても失わない万世の意地を垣間見た気がした。そんな万世に弱音は吐けなかった。その血が脈々と自分にも流れていることを肝に銘じるのだった。万世と取り留めのないことを話すうち時間は過ぎた。結局元美のことにも寿賀のことにも触れずじまいに別れの時はやって来た。言えば、辛うじて保っている正室としての体面が崩れてしまいそうで口に出せなかった。
やがて帰途に就けば、背筋はしゃんと伸びてすっかり裏方を取り仕切る奥方としての威厳を取り戻していた。見送る時の万世の目は潤んでいたが優しい母の目であった。万世にも言いたい不満は山とあるはずである。しかし万世は内に仕舞って何一つ零しはしなかった。
静謐な日常が勅子に戻った。
兄・元蕃の正室・八重姫を訪ねて喫茶をしながら談笑する生活の再開である。八重姫とは立場が同じで会話も弾み万世とは違う話題で共感し合った。
年も似通っていて刺激されることも多々あった。だが自分達の存在が概ね戦乱の世で失われた多くの命の犠牲の上に成り立っていることを二人共よく心得ていて、それには供養が欠かせず、それは自分達裏方の重要な役目であること、それがお家存続に繋がり、しいてはそれが正室たる者の役目であることなどを確認し合ううち、心は次第に落ち着きを取り戻して行った。一にも二にもお家大事が優先される、それで根本の解決にはなりはしないが、男女間の情などの話など不謹慎極まりないのであった。そしてとどのつまりは奥方としての役割を遂行するのが本来の仕事であることを再確認して会話を締め括るのだった。八重姫とそこまでは考えを共有出来るのだが、勅子にはどうしても相容れられない部分が八重姫にはあった。それは生来の持ち合わせか、それとも花のお江戸暮らしが長いせいで文化でも政治でも日本の中心にいる自信からか、八重姫には柔軟で開放的な一面があった。元蕃のもとに嫁ぐまで江戸の砂村の広大な屋敷で、同腹の妹と起居を共にし、口さがない若い娘同士男談義に花を咲かせたこともあったであろう。勅子と語り合ううちその頃の時空が甦ったか、目を遠くにやりながら突如八重姫は勅子の実の兄越後に付いて話し始めた。
「兄上の越後殿は、妹がお好きなようでした。妹も憎からず思っていて、お慕いしていました。
子どもの頃のことではございましたが、・・
私は存じておりました。
妹が嫁いで美知姫と改名して、御縁は無くなったと思ったのですが、旦那様がお亡くなりになりまして里方に帰りましたので、ひょっとして、今も思い続けていらっしゃるのではないでしょうか。
越後殿は嘘の付けないお方です。
真面目で誠実で、おほほほ・・・・」
越後は勅子より四つ年上、同腹の兄である。思春期の頃江戸に在勤したことがあり、斉煕が隠居して築いた広大な砂村の屋敷で斉煕の子等と交わっていた時期があった。その時の斉煕の散財は長州藩の赤字財政を更に悪化させた元凶といわれている。その時越後が遊び相手の御伽を務めたことがある、後に宗家を継いだ越後と同年齢の毛利斉広である。その際遊ぶ中に異腹の姉妹八重姫と美知姫がいたのである。八重姫は徳山、美知姫は一度は水野出羽守忠武のもとに嫁いだが死別して実家に戻っていた。越後はその美知姫が忘れられないでいるというのである。美知姫は絶世の美女として藩内に知れ渡っていた。彼女を恋した男は多い。時には愛の奴隷と化した男を手玉に取り、素っ気なくあしらったこともあろう美知姫の一挙一動に一喜一憂する越後だったかも知れない。そして一度は諦めたものの、美知姫が未亡人となると慕情は再燃、むくむくと湧き上がる気持ちは抑えきれなかったかも知れない。だが美知姫は再び嫁ぐことになった。お相手は清末毛利讃岐守元純、期待の若き二十代の青年、美知姫三十九歳、越後は四十八歳、その越後が嫁ぐ美知姫に寄せて
いろもかもかわらず匂う白菊をけふより千代のはつ花とみよ、と詠った。その歌が誰の目に触れることはなくとも、思いは本人はもとより周辺へもひしひしと伝わったはずである。だから八重姫もあえて身内の勅子に漏らしたのだろう。勅子は意外な暴露に唖然とするばかりだった。勅子は同情する気はさらさらなかった。兄にはれっきとした峰子という正室がいるではないか、側室の存在はあくまで世継ぎを絶やさない手段であって、心を捧げる相手は一人で充分のはず、それをまた美知姫に想いを寄せるなど論外であった。それに男女の恋愛感情そのものが淫らではしたないとみなされる時代の申し子である勅子には、封建制度の思想が骨の髄まで沁み込んでおりそれを忠実に守る優等生だったからだ。異船の往来に危機感を募らせながら対抗手段は皆無という現状打破も出来ないで、れっきとした正室がいながら別の女性に心を奪われるなどもっての外、逆に男の身勝手が腹立たしくさえあった。まして尊敬する兄がそのように憂き身をやつすなど許せるものではなかった。しかも時代は得体の知れない怪物がゆっくりとだが、確実に近付いているような不穏な空気を漂わせている。それが何ものでどこに向かおうとしているのかさえ解らない。勿論何かが起こったとして、それを解決する見通しもない。そんな折に何を不謹慎なと言う思いが勅子にはあった。実際のところ庶民は戦の影におびえていた。解決策は戦しか思い付かない庶民はひたすら戦に備えた。何時あるとも知れぬ戦のために男は備え、その男達を健気にも女子供は総出で支えようとしていた。庶民は命投げ出してまで戦おうとしている最中に上層部は不謹慎極まりない、例え塀で仕切られ外界と切り離されて並みの世間とは違う生活が繰り広げられていようと勅子にはその位の配慮の持ち合わせはあった。しかも静謐な城内にも難儀は身分の上下を問わず分け隔てなく降り掛かり、そのような浮ついた話は心の隅へと追いやられていった。そんな時のことだった。
厚狭毛利唯一の世継ぎである邦之助が元服して名を康之進と改め、厚狭の行く末もこれで取り敢えず安泰かと思われた矢先、康之進が痲疾に罹ってしまったのだ。痲疾とは性病の一種でこれに効く薬はなく、罹ったが最後不治の病であった。この頃この界隈の上級武士の男子は少年から成年へと移行する際、赤間が関の遊郭の女性を相手に男になることが暗黙の了解となっていた。そこで感染した疑いが濃い。痲疾と判明した時出来る限りの手を尽くしたのだが既に手遅れであった。病気が病気だけに康之進は打ち明けられずにかなりの間秘密にしていたのだ。一時は治療の効果もあって快方に向かうかに見えたが、またすぐに悪化してしまった。そんな中悪いことは重なるもので、厚狭毛利の財産難は更に深刻化していた。家臣は所帯を切り盛りする職が回ると体よく断る理由を見つけて逃げる始末である。もはやどこからも金の出所はないというのに、武器購入に兵調達の出費は情け容赦なく降り掛かり、しかしいくら金を工面しろと言われてもないものは無かった。農民からも搾りきっていた。それでも取れる所は他にはなく農民を圧迫し続けこれ以上搾れば一揆になり兼ねないところまで追い詰めていた。ただでさえ世は、言い分は暴力で封じ込める趨勢に有り、暴力の応酬に歯止めがかからなくなっているのだ、農民も何時でも鍬を武器にして戦う気になっていた。いくら地道に働いても貧しい暮らしから抜け出せないのは仕組みが悪いからで、収穫に時間の掛かる農耕を放棄し先ずはよなおしからと憤った。根本の仕組みを改革しなければ農民の幸せは永遠にやってこない。例え自分達の今を犠牲にしてもこの悪い仕組みは断ち切るべきだ。後世に残し続けるべきでない。弟や妹、それに続く子供達がきらきらと輝く目をして大人達を見ていた。その子達のためにも誰もが幸せになれる世にしなくてはならなかった。家族も村人もみんな世直しのためには戦う気でいた。心は一つ、農民を始めとする民衆の心は世直しに向かっていた。
世は攘夷か、開国か、幕府か、尊王か、それらの本質は解らないが、尊皇攘夷を標榜すれば、貧民の夢を乗せて貧民のために働く正義の秘密組織ででもあるかのように民衆から支持された。無力な個も集団になれば力となる。だがそれがどこへ向かうのか、本当に日本のためになるのか、近代国家への道筋を付けるのか、その先はまだ誰にも見えない。見切り発車だ。だが動かないで悶々とするより、動けば道は開けることを信じ発動するしか道はなかった。
長州もまた動かざるを得なかった。地理的にも海の要衝に位置する地域柄、外国船の往来を間近に見ながら、みすみす黙って看過するなど出来なかった。前線に立たされながら手も足も出せない状況は世直しを志す若者にとってもどかしいことこの上ない。遠い江戸の地にいて現場を知らない連中の机上の判断を仰ぐなどナンセンス、責任は命で償う覚悟で臨んだ。その決断が命と引き換えになっても望むところだった。世のため、人のため、乾坤一擲、賭けるしかなかった。
厚狭毛利元美はそういう藩の規律から食み出す輩を取り締まる側の要職に就いていた。連綿十一代にわたる世襲の家柄で、江戸時代の官学・朱子学に学び、上からの指示は絶対的であることを叩き込まれている。もしも逆らう者がいれば成敗する側であり、元美自信もまた藩の要職に就いていても何時足を掬われるか知れない立場にあった。あらぬ疑いの咎により父の大蔵が一万石から八千石に厳封されたように不審な行動や藩の意向に背けば懲罰を受ける。ことによっては領分召し上げということにもなり兼ねない。そんなことにでもなれば厚狭の家臣は路頭に迷う。よって藩命には決して逆らえなかった。命令とあらばどこへでも鎮撫隊として出動しなければならないのである。だからこの度も康之進は生死の境を彷徨っているというのに厚狭管轄の総奉行として命令がかかり出動しないわけにはいかない。身を裂かれるような思いで赤間が関と言われて赤間が関に行ったかと思うと、時置かずして佐々並にと言われ文字通り領内を東奔西走していた。康之進に付き添ったからといって、元美に治せる技量はないにしてもせめて傍に付いていて見守り、家臣では下せない決断も側に居れば即時的確な指示が下せる。飛脚が居場所の定まらない元美を探し回って突き止め、それから指示をしても後手なのだ。厚狭での治療に行き詰まり萩への転院をあさの侍医・平賀祐景が進言した時も、元美に書状が届けられたのは二日後であった。そこでようやく元美が許可して康之進は萩へ転院した。厚狭での治療は限界、萩の医師・能美洞庵の診察を仰ぐという急を要する転院も三日掛かって漸く実行された。康之進のお側役の交代ももたついた。厚狭の御伽役・石原淳道が随伴すればその日の宿泊場所に困る。それらを考慮して後任を鳥田良泰に決めるのも容易ではなかった。それでもどうにか転居したのだが、萩の藩医・能美洞庵をもってしても結局病状の改善には至らなかった。腫れ物の症状を緩和させるために深川の温泉に浸かることくらいしか治療法はなかった。だがその治療法もすぐに頭打ちになって、大した効果も上がらず手の施しようのない状況に変わりはなかった。一進一退だった症状はやがて悪化の一途を辿り温泉の効能は目に見えて衰退した。結局どの治療も役に立たなくなってその年の二月には重篤化して、周囲は急に慌ただしくなった。回復の見込みがないとなると慌てたのは家臣である。一刻も早く後継者を決めなければお家断絶の憂き目にあう。こんな取り込み中に口にし難い問題だが家臣にはこれからの生活が懸かっているのだ。よって七月二十日、まだ康之進存命のうちに宣次郎の養子の件を再度元美に嘆願したのだった。元美も事情は承知している。覚悟は付いていたか、すんなり要求を受諾し、宣次郎には日を改めて元美から直接申し渡すことが約束されたのであった。その二ヶ月後、朝陽館に隣接するお寺・養学院での祈祷虚しく康之進は食したものを吐くようになり安政五年(一八五八年)九月朔日卒去と相成ったのであった。遺骸は萩から厚狭の地へと運ばれた。法名、秋獄院。すべての鳴物音曲の停止、漁の停止、槌留め五日間、作事留め同じく五日間が言い渡され船木市中は喪に服した。
奇跡到来の祈り虚しく最愛の実子を失い実の母、寿賀共々元美は失意のどん底に突き落とされたのであった。悔やみは列をなして行われたがそれで元美の心が救われることはなかった。しかも失意に追い打ちを掛けるような世間の冷たい風が元美を襲う。我が子に変わりはないのに母親が贅女ということで香典は半減、日陰の身なのだから当人の寿賀はそんなことは当然と心得ているが、世間のしきたりに抗いようのない元美とすれば、康之進母子が不憫でならない。しかし悲嘆に暮れてばかりもいられない。死者に負い目を抱えながら萩の海潮寺で法事をし、せめて法要だけは丁重にと厚狭でも洞玄寺で執行し礼を尽くした。だが一時的に弔問客の応対などで気は紛れても、康之進に十分なことがしてやれなかったような悔いが頭を擡げて元美を苦しめる。どうせ長い時を掛けて築き上げられた慣習が元美の一存でどうにかなる問題ではないのだと自らを宥めてもみるが寿賀が潔く耐えているのを目の当たりにすると亡くなった康之進と共に、いつかこの償いをしたいと固く胸に誓いながら内に仕舞い込むのだった。居館内ではやれ、梶浦の開作では川から水が入り込んで手を焼いているだの、異船に出動した手当を支払わねばならない、薬莢を新しいものに遣り替えねばならないだの、日常は以前の生活に戻ったが、元美は一向に康之進死去の悲しみから立ち直れないでいた。
時間はゆっくりと動いていた。元美はこんな風に自分を持て余し気味になると漁に出て気を散らすのが常であるが、康之進が亡くなって間がないと言うのに殺生する気にもならず、ただじっと座敷に閉じこもって悶々としていた。