1.突発的な、あまりに突発的な
……一体なんなのだろう、この状況は。
狭い密室の中。
目の前には、頰を真っ赤に染めた銀髪ロングの美少女がいて。
しかもその少女が腰かけているのは石造のトイレ。
ということは、俺は客観的にみれば『女子トイレの個室に忍びこんだ変質者』というわけで。
いや違う。断じてそうではないが、多分裁判すれば120%負けるであろう状況だ。
つまり、俺がここで取るべき行動は…!
「すいませんでしたああああ!」
謝罪。
自らの非を認め、相手に許しを乞う行為。
さらに土下座オプション付きだ。
これで、許してもらうしかないが…
「ひっぐ…ひっぐ…っ」
あ、ダメだ。
少女の方を見ると、目にうっすらと涙を浮かべて俺を睨んでいる。
しかも、彼女の手にはいつの間にか立派な長剣が握られていた。
あれ、俺ひょっとして死んだんじゃ?
「…で、出てけぇ!そして死ねえええ!」
「やっぱそうだよなあああ!」
予想に違わず少女は剣を容赦なく振るってきた。
なんとかその一撃は避けたが、身代わりとなったトイレの扉はすぐさま粉塵と化した。
死ぬ。本気でこれは死ぬ。
もはや生命の危機を感じ始め、俺は土下座モードを解除し一目散に少女から逃げた。
しかし、
トイレを出た先も続く知らない廊下。
知らない人たち。知らない部屋。
訳も分からず、ただひたっ走る俺は
「くそっ…まじでここどこだよ!」
そう叫びながら、俺は先ほどまでのことを思い返していた。
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数時間前。
俺 七宮 鋭斗は、実家へ帰省するため車をレンタルし高速道路を走行中であった。
そして隣には、去年高校1年生になったばかりの妹 七海も座っている。
七海はテニスの強豪中学校出身で、そこのキャプテンを務め大会で優勝するほどの実力を買われて都内の高校にスカウトされたのだ。
そのため妹は現在実家を離れ、東京の寮で日々の生活を送っている。
だがさすがに親は心配なのか、俺が帰省することを伝えると、絶対に七海も連れてきてくれ!と必死にお願いされた。
まあそういうわけで、車内には今俺と妹の2人が座っている。
俺たちは互いに近況を話し合いながら、実家への道のりを過ごした。
「ねえ、兄ちゃんはさ、なんでマンガ家になったの?」
他愛ない会話の中、不意に妹はそんなことを聞いてきた。
普段あまりそういうことを聞いてこない妹からの質問に驚き、鋭斗は思わず聞き返す。
「なんでマンガ家になったかって?」
「うん。兄ちゃんってさ、自分で夢を見つけて掴み取ったわけじゃん?それって、結構すごいことだなーって」
髪を指でくるくると巻きながら言う妹に、俺はなんと言えばいいのか迷った。
鋭斗がマンガ家を目指したのは大層な理由があったわけではない。
ただ人よりちょっと絵が上手くて、勉強もスポーツもできなかったからマンガ家になっただけだ。
今となってはマンガ家になってよかったと思うが、目指していた頃は強い思いはなかったはずだ。
だからそんなに褒められるようなことじゃないのに褒められると、なんだかむず痒い感じになる。
「…別に、そんなすごいことじゃねえよ。お前だって、テニス頑張ってプロ目指してんだろ?」
「うん、最近は諦めようと思ってたんだけどね。でも、なんか兄ちゃん見てたら諦めきれなくなっちゃった。」
「なんだそりゃ」
どうやら、妹は納得してくれたようだ。
そして悩みが解決して安心したのか、そのまま妹はぐっすりと眠ってしまった。
その、2時間後。
いつの間にか起きていた妹が、いきなり隣からつんつんと俺の肩を突いてきた。
「…ねえ兄ちゃん、まだ着かないの?時間かかるなら、パーキングエリアよりたいんだけど…」
「ん?なんでだ?」
「そ、それは…お、お腹すいちゃって」
「さっきおにぎりとお茶買って食べただろ?もうちょっとだから我慢してくれ」
「…ん、分かった、それは我慢する。」
「よし」
「その代わりトイレ行きたい…!」
「うおおおおい!?」
突然告げられた一言に、俺は慌てふためく。
よく見ると、確かに妹はぷるぷると小刻みに肩を震わせているし、買ってきた紙パックのお茶は全て飲み干されている。
まずい。
これは非常にまずい。
ここから最寄りのパーキングエリアまでは20kmはあるし、トラックのせいで渋滞ぎみだ。
もし、もしだが、ここで漏らされたりでもしたら…
そんな最悪の想定が頭をよぎり、頰をつーっと冷や汗が流れていった。
「七海、あとどのくらい保ちそうだ…?」
「ご、五分くらい…?」
「超ギリギリじゃねえか!なんでもっと早く言わないんだよ!」
「だって、恥ずかしかったし…」
うつむく妹に、俺は心の中でため息をついた。
そうだ。妹はいつも明るく振る舞うくせに、
恥じらうと途端に口を閉ざすのだ。
いつもなら可愛げがあるなあと微笑ましく思うところだが、今回ばかりはそうもいかない。
「仕方ない…ちょっと飛ばすぞ!」
「えっ…ひゃん!」
「…お、おい、まさか…」
「だ、大丈夫…ちょっと出ちゃっただけだから」
「いやアウトだよそれ!……ってお前、何してんの?」
「ペットボトルがないかな…って」
「あったら何するつもりだったの!?」
「ちょっと、大声出さないで!」
鋭斗の叫びを意に介さず、がさごそと俺のリュックを探り続ける妹。
とはいえ、入っているものといえばペンやインク、原稿用紙などの仕事道具ぐらいのものだ。
妹もそれを理解したのか、怒ったような表情でリュックをぽかぽかと殴った。
「なんでマンガ道具しか入ってないの!いらないでしょ!」
「一応いつも最低限の道具は持ち歩くようにしてんだよ、空いた時間に作業できるし」
「そんなの、聞いてない…!」
七海は顔を紅潮させながら、精一杯の言葉を絞り出した。
様子を見るに、もうそろそろそろ限界だろう。
鋭斗はそんな妹が少し可哀想になってきていた。
「なあ、本当にダメだったらもういいんだぞ?」
「いや、絶対いや…!」
首をぶんぶんと横に振り、鋭斗の提案を拒絶する七海。
とはいえ、このままではいずれ否応なく出てしまうだろう。
そんな緊迫した状況に、鋭斗はパニックになり。
思わず、叫んでしまった。
「くそっ、誰でもいいから、今すぐトイレに連れてってくれーー!」
と、その瞬間。
(ーー見つけた)
不意にそんな声がしたかと思うと、突如視界が白に染まった。
「なにが…っ!」
何も見えない。
かろうじて認識できるのは、両手で握っているハンドルだけだ。
だが、時間が経つにつれ、その感覚すらなくなっていく。
そしてとうとう、俺は何も触れられなくなっていた。
感覚がない。あるのは、宇宙に投げ出されたかのような浮遊感。
「七海っ……」
薄れゆく意識の中で、鋭斗は無意識にその名前を呼んでいた。
そして鋭斗はこのまま、気絶するはずだったのだが…なぜか唐突に現実に引き戻された。
「は…?」
見える。
先ほどまで何も見えなかったのに。
両手を握ってみる。
わかる。触覚もある。
「なんだったんだ、今の…」
今までの不思議な体験からは想像もつかないほどのあっけない結末。
鋭斗は肩透かしをくらったような、あっけにとられた表情で呆然としていた。
しかし、やはり現実は非情だった。
「ひっ…!」
鋭斗の意識をはっきりと呼び覚ましたのは、か細い怯えたような声だった。
声の主は目の前の少女。
下着を下ろし、石造のトイレに腰かけている。
なぜこんなところに少女が?
…いや、俺がここに入ってきたのか?
あまりにも突飛な現実に動揺し、理解しきるには数秒を要した。
で、結論。
どうやら、俺が悪いようだ。
「ちょ、危なっ…!」
「うるさいうるさいうるさい!黙って死ね!」
ぶんぶんと剣を振り回し、鋭斗を葬らんと涙目で追いかけてくる少女。
鋭斗はなんとかそれを避け必死に逃げていた。
「なあ、俺もなんでここにいたか分かんないんだ!ってかここがどこかも分からん!」
「嘘をつくな!王家の宮殿に忍び込んでおいて、そんないい訳が通るか!その上、私のと、トイレにも入ってきておいて…!」
「それは本当謝るから!とにかく剣をしまってくれ!」
だが鋭斗の叫びには耳も貸さず、少女は鬼気迫る表情で剣を振りかざす。
その度に屋敷内の調度品やら明かりやら家具やらは粉砕された。
「なんだってこんな事に…」
俺はこの少女にひどいことをした。それは分かる。
しかし正直、俺がここにきた記憶は全くなく、気がついたらなぜかトイレにいただけなのだ。
…待てよ、確かここに来る前、「見つけた」とか声がしたような…?
ひょっとしてあれか、誰かが願いを聞きつけてここに連れてきたというのか?
もしそうなら一つだけ言いたい。
…違う、そうじゃない。
もう本当違うぞ?全然違うぞ?
割り箸と間違えてストロー2本入れてくる店員ぐらい違うぞ?
「くっ、マジであの声の主殴りたくなってきた…ってうおっ!」
考えごとをしながら走っていた鋭斗は、目の前の壁に気づかず壁に激突した。
その衝撃で、鋭斗は思わず地面に尻もちをついてしまう。
「いってて…ってやべ、早く逃げないと…」
「無駄だ。行き止まりだぞ、そこは」
ばっと声の方へ振り向くと、そこには剣を携えた少女がすぐ近くまで来ていた。
逃げろ、と後ろを向くも、そこは先ほどぶつかった壁。
いつの間にか鋭斗は追い詰められていた。
「先程は見苦しい姿を見せたな。だが安心しろ、このアルカドア皇国第二皇女兼騎士団長たる私 シャーロット=アルカドアが、貴様を確実に葬り去って…」
「あの…」
「なんだ。命乞いか?この宮殿に忍び込めるほどの実力者なら、命を落とす覚悟はできているだろうと思ったが…」
「いやそうじゃなくて、そろそろスカート履いた方がいいと思うんだが…」
「えっ!?」
少女は鋭斗の発言に驚愕し、自分の下半身を手で確認する。
だが、ない。少女は慌てふためき、追い討ちをかけるようにその様子を通りすがったメイドさん達に見られていることも知ると…
「きゅうううう…」
ばたん、とその場に倒れ込んでしまった。