4.大樹の梢
アンメイア王国の背骨に例えられる薔薇岩山地の赤い頂に、太陽がそっと足を掛けた。
夕焼けに追われて急に風向きが変わり、ラファムたちはそれに飛ばされまいと手足を踏んばって耐える。眼下には〈大校舎〉の銅ぶき屋根、その先には王立大の全景が見て取れる。この高さから転落すれば間違いなく命はない。彼女たちがいるのは大樹の幹。そのデコボコになった表面なのだから。
枝まであと少しという位置で、少女たちは変わったものに目を留めていた。
樹皮から突き出た鉄の杭。まだサビや曇りがなく、周囲の生皮はめくれ上がって、のぞく木肌も生々しい。ざっと見でも、打たれて二週間と経っていない。杭を詳しく検分していたソシアが、樹皮に頬を当てて杭の周りを叩く。
「これは……おそらく内側から打たれたものでしょう。反響音からすると、真下にそれなりの空間がありそうです」
「ってことは、やっぱり大校舎のどこかに隠し扉があったのかも……」
二人がなぜ命がけの木登りをしているのか。なぜこの杭に注目するのか。
その答えは二人の足下にそびえる大校舎にある。
王立大の校長は、王国における銃士教育の最高責任者も兼任しており、職務がら外出に際しては必ず届け出が必要となる。その所在は、常に教官詰め所に木札で掲示される決まりだ。
住まいで大校舎の中という徹底ぶりを、校長に普段から「堅苦しくてかなわん」と愚痴られていた二人は、そのことを思い出して木札が「大校舎内」であることを確認したあと、しばし知恵を出し合った。
最初にラファムが主張したのは無関係か、もしくは校長の罠の可能性。しかしソシアが、すぐに理詰めで否定した。ソシアは実践テストが、逃亡者と追跡者の思考の読み合いを模したものであると、最初から踏んでいたのだ。
人間は痕跡を残す。それを無理に消そうとすると、やはり別の痕跡が生ずる。したがって理想的な姿の消し方とは、下手な小細工などせずに自分の動ける範囲からパッと消えることだ。手がかりがほとんどないという現状をその理論に当てはめると、校舎内に居る(もしくは居た)という情報は、消える寸前までそこにいたという事実に合致してしかるべきである。
「いかに隠身が巧みでも、こちらには八十名以上の追っ手がいます。足跡を読める人も、私のように遺留品の鑑定が得意な人もいるでしょう。もしあの人が大校舎から出て行ったなら誰かがその跡を見つけますし、そうなれば皆が動きます」
事実は彼女の言葉の逆だ。昼も終わったというのに、生徒たちの足音が止む気配はない。
つまり校長は、最終所在地である大校舎からは出ていない公算が大だ。二人はその結論に全てを賭け、昼からしばらく念入りに大校舎を探索した。
だが敵も然る者で決め手に欠けるまま、いよいよ万策尽きたかに思われたその時、ラファムが突拍子もない事を口にした。
「大校舎ってさ、大樹にへばりついてるよね」
大校舎は由来をたどれば神殿として建築されたものだ。伝説ではこの世の始まりからあるとされる〈聖メイアの大樹〉に背を預けた独特な建物は、増築に増築を重ね、半ば幹と一体化している。彼女たちが探し回っていた執務室周辺も、窓を開けば手の届くところに木の幹があるのだ。
さすがに聖なる木を登るのはバチ当たりに過ぎる気もするが、むしろ彼女たちにはそれこそが〈あの校長〉の人物像にピッタリと重なる。
かくて時間は今に戻り、二人は固くなったささくれに手足をかけ、場違いな鉄杭を調べ続ける。
やがて確たる物証、その手応えに二人は手を打ち合わせる。
「ここに通路って事はやっぱり上、かな」
「でしょうね……でもラフィ、どうやら私はここまでのようです」
冷静にソシアが指差したのは、足がかりとしていた窪みの終点。上に伸びてはいるが枝にはわずかに届いていない。そこから先は手前にせり出していて、ズボン姿のラファムはともかくドレスを着たソシアが登るには絶望的な角度だ。
「なら今から戻ろうよ! 隠し通路があるなら入り口も絶対あるから――っ」
慌てて降りようとするラファムの手を掴み、ソシアが頑固に首を振った。
「待ってラフィ、慌てて降りるのは危険すぎます! それにさっき見つからなかったものが、今に見つかる道理はありません。探しても時間切れになるだけです。残念ですがラフィだけでも先へ行って、銃士になりなさい」
「そんな……私イヤだよ! 二人で銃士になるって、そうお母さんに誓ったじゃない!」
「聞き分けてくださいラフィ。時間はもう……わぷっ」
ぐずるラファムと、なだめようとするソシア。そんな二人の間に、だしぬけに縄の固まりが落ちて来る。二人して思わず見上げればロープの端は枝の根元まで伸び、そこに簡素な木の巻き上げ機と、紅髪の女性が顔を出していた。
「五秒待って引き上げる。五、四、三……」
二人へ凛とした声が落ちてきて、そっけなく時を数え始めた。
「わーまってまって待ってちょっと待って!」「頼むからお待ちくださいまし!」
二人が抱き合うように縄にしがみつくと同時に、ギイギイという軋みを上げて巻き上げ機が動きはじめた。
あっという間に引き上げられた二人は、突如として眼前に開けた景色に声を失った。驚くほど平らな枝の背に、一面の花園が広がっていたのだから。
積もった落ち葉を土として、苔と草木によって覆われた空中の大地。それも瀟洒な石畳や小鳥のための水盤で飾られ、しっかりと手入れされた本物の庭園だ。梢の方には小さなな建物すら建っていた。
二人がその光景に見惚れていると、すぐ横から抑えた咳払いが飛ぶ。
「お前ら。いつまでしがみついている気だ」
その主たる紅髪の女性。そよ風に揺れる深紅のケープをまとい、長い髪に縁取られた笑顔は若干引きつり気味。巻き上げハンドルに掛かったその手は小刻みに震えていた。
「腕がキツいな。お望みなら今すぐ手を離すが?」
「ごっ――ごめんなさいフェアラおばさまじゃなくて校長閣下!」
「降ります、降りますからお許しを!」
空中に桟橋のように伸びた足場へ、二人は慌てて飛び退……いたものの、あまりに急いでいたため互いの足を絡ませ、しまいには転んで尻もちをつく。
二人の間抜けな動きに、紅髪の女性が唇を歪めて控えめに笑った。
「なにをやっている。まさか私が本当に手を離すと思ったか」
「やりそうだった」「いたたぁ……私もそう思いました」
即答され、女性が二人を助け起こそうとした手を即座に引っ込め、拗ねたように唇を尖らせた。
「ほう、そう思われていたのなら構わんぞ、今からでも蹴り出してやろうか。不肖の弟子には、もう一度木登りをさせてやるべきだろうしな」
皮肉なのか冗談なのかわからない調子でうそぶき、女性は表情を鋭く戻すと腕組みをして二人を見据える。
「二人とも礼を執れ。報告を」
少女たちは弾かれたように立ち上がり、背筋を伸ばして左胸に手を当て、声を張り上げた。
「私、候補生ラファム・ブネーツタールと」
「同じく候補生ソシア・ドゥブナフォーエは」
「「校長フェアラム・フルールアルム閣下に対し、ここに貴女様を発見できた事をご報告申し上げます!」」
「よろしい新士たちよ、此度の働き大変ご苦労であった」
それを聞いた途端に、少女たちは顔を見合わせ手を取りあって歓声を上げた。
校長に新士と呼ばれたならば、それは実践テストに合格したという事なのだ。喜びに礼儀を忘れる二人を、校長――フェアラムも咎めはしなかった。
やがて喜びも山を越えたソシアが、周囲を指して校長に問いかける。
「あの、ところで……校長閣下ここはいったい」
「いつものようにフェアラでよい。うむ、ここは王立大の校長に代々引き継がれてきた、秘密の庭園なのだ。住処を含めて塔の中というのは息も詰まる。そこで古代の祭壇跡を先達の誰かが庭園として作り直したらしい。ま、それだけでもないのだが――」
ふいと、今度は校長が二人に指を向ける。
「ときにお前たち、なぜわざわざ木を登ったりした。隠し通路があったろうに」
「えっと、それは……」
「あははは……フェアラおばさま、それが……その」
二人の歯切れの悪さに大枠の察しがついたらしく、校長が喜色一転、盛大に目を吊り上げる。
「隠し扉を見破れなんだか! まったくもって不肖の弟子めらが!」
落ちた特大のカミナリに跳ね上がり、思わず平伏するソシアとラファム。
校長が踏み石を蹴って八つ当たりし、まあよい、と二人に手を差しのばす。
「ここに至る道は一つではない。今日のところは赦そう。どれお前たち、疲れただろうから休んで……ん?」
突如として聞こえた小さな物音に三人で耳を澄ませる。空中桟橋からほど近い場所、木の幹に取り付けられた扉がカタカタと揺れ、やがてカチリと錠前が噛み合ってそろりとノブが回る。
「……ってーと、ここいらが天辺ですかいなっと?」
キィ、と軽く開いた隙間から、黒のクセ毛と間抜けな呟きがまろび出た。
「あっ、お前は!」
「あぁ? ……ってお前らは」
期せずして視線をぶつけてしまうラファムと相手の男。互いに目を丸くして、次の言葉が出てこない。そんな二人を強い舌打ちが無理やり動かした。
フェアラム校長が怒りとも喜びともつかぬ、なんとも壮絶な表情で男を捉える。
「やあヴェク。約定の通りとうとう会えたな。ところで、礼は執らんのか?」
「マジ、か、よ…………じゃなくて、失礼しました校長閣下」
引きつった顔をサッと振ってごまかし、急いで校長に正対する男、ことヴェク。彼は深く頭を下げ、敬意のこもった礼を執った。
「候補生ヴェク、校長閣下にお会いできて何よりデス」
「……四年を経て少しはマシになったか。辺境言葉はともかく、なかなか良い面構えだヴェク。殺すのは取りやめだな」
「はっ! 有り難きお言葉」
フェアラムが大仰な返事に眉を上げるが、すぐにあきらめた顔で背後の少女たちをふり返る。そこでキョトンとしたままの二人に、彼女は怪訝な様子でたずねた。
「二人とも、この男を知っているのか?」
「フェアラおばさん、この人を知ってるの?」
質問に質問で、それも砕けた言葉で返すラファムにヴェクがギョッと顔を上げる。だがフェアラムは今度も気にせずそっけなく首を振ると、三人を樹上の小さな館へ手招きした。
「詳しくは追って話す、三名とも付いて参れ。……もう日暮れの鐘か? 今年の新士は三名で打ち止めとは、ボンクラどもめ後で説教だな」
遙か下界より上がってくるカンカンという鐘の音に、フェアラムは鬼の形相でケープをひるがえした。
少女たちもヴェクも戸惑いながらその背に従う。見知ってはいるが、識っているわけではない。互いに相手の顔を探らずにはいられない素振りで、三人は夕陽差す空中庭園を梢へと歩いていくのだった。