1.異端の候補生
朝も終わりにさしかかり、風の涼しさも少しずつ薄らいでゆく。
扇の形をした、黄ばんだ壁に梁がむきだしの飾り気のない教室に、息の詰まるような熱気と、耳の痛くなるような静けさが満ちていた。青いケープをつけた二十名ほどの少年少女が、長いカーブを描いて列をなした教室机から小さな教壇へと視線を注ぐ。
そこに立っていた黒いケープの青年は、彼らの無言の圧力に目を伏せると、灰色の短髪を撫でつけながら、革の紙ばさみで演台をコツコツと叩いた。
「まったくお前らときたら、いったい何を学んだというのか。俺の受け持った二十五人、つまりお前らのうち、次の実践テストに進める合格者はたったの三人だ。……これより合格者を発表する。総員黒板に注目せよ」
黒ケープの教官は背後の黒板に白墨で三つの名を刻む。
うち二つはありふれた姓と名。だが最後のたった三文字の名前というか単語に、それを目にした青ケープの生徒たちがどよめき、何人かは怒りもあらわに教室の最後列を振り返ると汚い言葉を半ばまで口走った。
途端に演台が叩かれ、教官の静止が響きわたる。
「よせお前たち! 卒業テストはあくまで厳正かつ公平。それとも抗議でもして、校長閣下に『なるほど、こうなって当たり前か』などと笑われたいか? わかったら合格者以外は速やかに退出。今日はこれにて放課とするゆえ、宿舎に帰って頭を冷やせ」
彼の有無を言わせぬ命令に、生徒たちが不満をにじませつつ起立し、一斉に左胸に手を当てる伝統の礼を執る。多くが重い足どりで教室を去ってゆき、残ったのは教官、少年と少女が一人ずつ。
そして最後列の角で、机にうつぶせとなって寝息を立てる者が一人。
「では改めて、合格者は前へ」
号令に若い二人が席を立つが、少年が教室の角を振り返って控えめに挙手する。
「あの教官殿、あの男はいいのですか?」
「奴の事は気にするな。それよりこっちへ来い」
教官はいっとき肩をすくめ、すぐに姿勢を正すと二つの封筒を紙ばさみから出してそっと演台に並べ、二人の生徒にたずねる。
「よいか二人とも、これを取った時より実践テストが始まる。目を通した後は速やかに焼却せよ。内容を他者に明かすべからず。各々理解したなら覚悟を示せ」
躊躇なく礼を執った少年少女に、教官は肯いて便箋を示す。
それをひったくるように取った生徒たちが、開封するやそれとわかるほど血相を変える。再度の礼すらもどかしく駆け出していく教え子の背中を、教官は苦笑を投げて見送った。
そして一転、彼は呆れと怒りに歯をむきだしにすると、教室に最後に残った最後の一名に喝を飛ばす。
「ヴェク、起床せよ!」
声に先んじて投げられたチョークが、凶器めいた鋭さで目標に突き立……つ前に、日焼けした指に捕らえられた。
跳ね起きる指の主。その野性味にあふれた顔が憎たらしいニヤけ面を浮かべる。強くうねる黒の長髪を後ろで結い上げたその男。細面だが彫りが深く、肌は浅黒い。黒い服の上から生徒の青ケープをつけているが、その歳は教官よりやや若い程度だろう。
黒衣の生徒、その青年は黄ばんだ歯を見せて答えた。
「もう起きてるよ、教官殿」
***
「もう起きてるよ、教官殿」
おどるような手つきでチョーク型の凶器を弄びつつ、机からスパッとはね起きて余裕の笑みを浮かべてみせる。教官の呆れ顔がいっそう情けなさを増してこちらを見た。
「やはりタヌキ寝入りか。戯れも大概にせよ」
「いや、そりゃねえ、戯れって言いますけど、俺が平気な顔で座ってりゃ角が立つだろう。特にガキのやっかみとか、あまりの不味さに地獄のサボテンだってトゲを引っ込めるぜ」
冗談交じりの彼の態度に、教官が額に手を当てため息を吐く。
「あぁ……お前が気遣いとはな。いや、やり方が間違っているのを除けば、素直に驚くべきだろうか。とにかくヴェクよ、合格したんだ、とっとと降りてこい」
新たな便箋を差し出す教官に、ヴェクは立ち上がるとだるそうな足どりで教室の段を下った。しかし便箋を取ろうと伸ばした手は、寸前で教官に押し止められた。
「なんだよ教官殿。読んだら燃やせ、他人にはバラすな。ちゃんと聞いてたぜ?」
「いや、聞かずとも合格と悟っていたお前だ。多少取りかかりが遅くとも結果は変わるまいよ。それより最後かも知れんからな。少し話せないか?」
手を払われるままに近くの椅子へ腰を下ろしたヴェクだが、すぐに言葉の意味をたずねる。
「最後ってのはまた、どういった意味で?」
「実践テストに合格すれば、お前は晴れて新士、つまり見習いの銃士となる。下される試練については話せんが、おそらく二日とこの〈王立大〉に留まるまい。準備に掛かる時間を鑑みれば、思い出話をする機会など今を置いて他にはないぞ」
「思い出話か。いいねぇ、そうなると酒が欲し…………冗談デスヨ」
反射的に茶化そうとして、しかし教官の神妙な雰囲気にヴェクは大人しく続きを促した。彼の隣に腰を下ろして、しばし言葉を選んでいた教官だったが、やがてポツポツとつぶやきだした。
「四年。お前がこの学校へ来て、俺の受け持ちになってから四年だ。まだ新米教官だった俺に、お前ときたら、まぁずいぶん手を焼かせてくれたものだよな」
「悪かったって。なんせ二十五にもなった元野盗がよ、たいした心構えもなしに栄えある〈王立銃士大学校〉へ放り込まれたんだぜ? そんなのすぐに馴染める方がおかしいだろ」
ヒヒッと笑ったヴェクの額に、ペシっと教官の突っ込みが飛んだ。
「まだそんな事を言うか。夜ごと抜け出しては闇市で酒を買い、追いつめれば色町へ逃げようとし、あまつさえ隠れて同級生に賭博を教えたお前が。どう考えてもその言い訳は使えんぞ」
「まぁ、そこはそれ。やんちゃだったって事で大目に見てくれよ」
「ああもう、どれだけ大きな目があればいいのだ。大概にせよ」
言葉では叱っていても教官の声はあくまでも穏やか。そして、それはヴェクも同じだった。
残ってしまった辺境訛りこそ乱暴に聞こえるが、学校で叩き込まれた礼儀はしっかりと焼き付いている。元野盗という告白がいっそ空々しいほどだ。
ヴェクはふいと正面に教官を見て、確認するように首を傾けた。
「でも、俺、頑張ったよな?」
「その口調だけはついぞ直らなかったがな。とはいえ及第点だ。お前はもう立派に新士、いや銃士としての特質をモノにしているよ。あの体質だけは少し気がかりだが……」
「そいつは気にすんなよ。そのうち何とかしてみせるさ」
二人の間にうっすらと流れた不安を、ヴェクは陽気に歯を見せて打ち消す。それでも気恥ずかしくなり、ヴェクはついつい早口で先を続ける。
「ま、勉強は大変だったぜ。アンタもけっこう厳しかったしな。でもよ、それでもこの歳でやり直せたのは、つまり学校にいられたってのは、良かったと思ってる。勉強するほど目の前が明るくなるっていうか……俺はアンタのおかげで――間接的には校長閣下のおかげか? とにかく俺は別の生き方を身につけられたんだ。いくら感謝しても足りねえよ」
ヴェクの言葉に、教官はしばらく天井を見ていたが、やがて深くうなずいた。
「そう思ってくれるなら重畳だ、もう俺が教えるべきは無いな、ヴェク。そら、胸を張って新士の号を勝ち取ってくるがいい」
信頼の握手を経て、改めて便箋が手渡された。
ヴェクは器用に片手で封を開け、数秒だけ目を通すと再び折り畳む。目にした内容を吟味するために目をくるりと回して小さく鼻を鳴らす。教官が心配げにのぞき込んでくる。
「なんだ? 慮外の難問であったか?」
「いや、楽勝だ」
ヴェクはうそぶいて、便箋を教官に押しつけた。
「悪ぃけど火を探す手間が惜しい。それ適当に燃やしといてくれよ」
そう言うが早いか、ひょいと立ち上がり軽い足どりで教室の通用口をくぐったヴェク。そこでサッとふり返り、教官へと敬意に満ちた礼を執った。
「世話になりました教官殿。ヴェク候補生はこれより、実践テストに行って参ります」
「おう、もう帰ってこなくていいぞ」
「へへっ、言われなくてもよ!」
その憎まれ口を最後に、彼は柱に身を隠すと足音はおろか、衣擦れすらも消して駆け出した。この隠身だけは生まれついての特技だ。
一歩ごとに、これで教官をおちょくった記憶がよみがえり、過ぎていく廊下に懐かしさを感じる。そんな感傷を振り払おうと、彼は渡された課題を思い返して小さくつぶやく。
「〈校長を夕刻までに見つけ出せ〉と……難題だな」
ちらりと見た窓の外に人影を見つけ、反射的に身を屈めたヴェク。だが再び窓から顔を出し、しばらく観察して眉をひそめる。
「ちょいと、追ってみようかねぇ」
その言葉だけを廊下に残し、ヴェクは慣れ親しんだ校舎を後にしたのであった。