7.貴人の長風呂
ガルダドック村を後にしたヴェクたちは、峠を越えて〈薔薇岩山脈〉の西へと入った。
王国は大きく分けて東は荒野が多く、反対に西では森が多い。海からの西風が山にぶつかることで恵みの雨が降るからだ。西には大きな街があちこちにあり、おかげで旅人が野宿をすることはめったにない。
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「やたら峠越えをあせってたと思えば……これが目当てかよ」
宿屋の安楽椅子にもたれて全身から石けんの匂いをさせながら、ヴェクは天井に揺れる安っぽいガラスのシャンデリアを目で追いかけて腐っていた。
西の地は水に恵まれているため、宿屋といえば湯浴み場があるのが普通だ。
今日の三人の宿は特に力を入れているらしく、くつろげるようにとわざわざ個室に分けられた浴室がロビーの一面に扉を並べている。しかも湯は苦労して自分で運ばなくとも、ハンドルをひねって合図をならせばボイラー室から浴室の蛇口へと送られてくるのだから驚きだ。
すでに入浴を終えたヴェクもとにかく舌を巻くばかりで、いっそ巻いた舌がノドに詰まってもおかしくはない。
無駄なことを表す大陸のことわざに「貴人の長風呂、盗人の風呂いらず」というものがある。ヴェクのカラスの行水と入れ違いに風呂に入った少女たちは、ことわざの通りに長湯を楽しんでいる様子だった。
ヴェクはロビーの片すみで見張りを続ける。
警戒すべきは銃士への逆恨みによるお礼参り。彼らが銃士なのは誰でも気付くだろうし、人の口に戸板は立たないと相場が決まっている。そして入浴中は誰しもが無防備になる。用心するなら銃を風呂にまで持っていくべきだが、水中で撃てば銃が故障したり自分が怪我したりといろいろ危ない上に、水に浸かった銃の手入れはそれはもう面倒きわまる。
結局のところ二人以上で組んでいるなら、見張りを立てるのが簡単かつ効果的なのだ。
――まぁ、見張りをまかせてもらえるぐらいには信用されてるってことで。
少女たちの長風呂にひたすらヒマをもてあましながら、ヴェクはムダに安楽椅子を揺らした。
そろって一山越えたせいだろうが、三人がお互いのことに口を挟む機会は確実に減っていた。まあ、ヴェクが一方的にあしらわれている感じあるが、それでも知り合った時のような反目はもう影も形もない。一蓮托生なら心は近い方がいい。ヴェクの言葉になおすなら、宿でも野宿でも飯は美味いのだ。
「にしても長すぎねえか? 二人ともふやけて土左衛門にでもなったんじゃ――」
気楽を装って独り言をぶつと、彼は無音でそっと浴室のドアに近寄った。実際の心配は窓からの襲撃でも、生来の用心深さでつい隠してしまうのだ。
幸いなことに心配は無用のもので、扉越しに少女たちののんびりした会話がただよってくる。
「もうラフィったら、お風呂で寝ると風邪をひきますよ」
「いいじゃない姉さん。もう少しのんびりさせてよ、久しぶりなんだしさあ」
ヴェクは「長げえよまったく」と無音のツッコミを入れた直後に、思わず扉に耳を当てて聞きなおす。――いまラファムのやつなんて言った?
「姉さんこそ、そんなに流して羽根は痛まないの?」
「ちょっと凍みますけど、逆に心地良いくらいです。ずっとコルセットの下に畳んでましたから伸ばしておかないと気持ち悪くて」
「そうかぁ。それにしても姉さんのは、いつ見ても綺麗だよね」
言葉はわかるのだが内容が全くつかめない。羽根? コルセットの下できれい?
よからぬ想像がヴェクの頭をよぎったが、いやそれはない、と彼は真顔で否定した。親友ついでに恋仲というのも珍しくはないが、二人の力関係からしてその線はうすく思えた。
あれこれと考える間にも扉ごしの声は続く。
「そういえば姐さん、本当にヴェクが見張りでいいの?」
「相手は年上なのですから、きちんとさん付けをしなさい。それとどういう意味で、ですか?」
「うぅ……そんな目で見ないでよ姉さん。私もヴェク……さんが裏切るとか逃げるとかはもう思ってないから。そうじゃなくて変な事をするんじゃないかなって。たとえば覗いたりとか」
――乳臭いガキの裸なんぞ金を積まれたって覗かんわい。
盗み聞きを見事に棚に上げて思わず心の声で反論し、あわてて耳を扉に戻す。
「しない、とは断言できませんが」
水の流れる音。
「だとしても、彼は私たちを背中から撃ったりはしないわ。そう、彼はあの花の前でとても憤っていましたよ。ぼんやりとしか〈聞こえ〉なかったけれど、何か悲しい出来事と、そこから来る怒りだと感じました。そんな思いを持てる人なら信頼できるでしょう。なんなら、私たちの裸ぐらいは物の数から外してもよくなくて?」
しかし、やっぱり聞いているだけで疑問の山ができあがっていく。
話の流れからすると彼の事で、しかも信頼できるというのはありがたいのだが、いったいソシアが彼から何を聞いたというのか。「悲しい出来事」に心当たりはあるが語ったおぼえなどない。
「もちろん私の〈それ〉は邪道ですけど。それよりもラフィはもうちょっと信頼を学ばないと。私たちの関係も信頼から始まったのよ。おぼえているでしょう?」
「そう……だよね。だってアイツは――私と同じ名――」
すわ核心! とヴェクが戸にへばりついたそのとき、通りかかった宿の女性が彼を見つけ、すぐに訳知り顔で品を作ってきた。
しれっと扉から離れる、ばつの悪さに手を振って安楽椅子へ座りなおしたヴェクに、女性がドレスの胸元を見せつけながらたずねてくる。
「お安くしとくわよ? ノゾキよりはいいと思うけど」
「いやいい、間に合ってる……ってわけじゃないが、連れがいるんでダメなんだ」
「そう。お兄さんアッチが強そうなのに残念だわ」
断られて去っていく女性。その背中に彼は峠の花畑を、その置きみやげを感じて天井を仰ぎ、言葉をつむいた。
「なぁ姐さん、アンタの言ったとおりだったぜ。世の中わからねえ事ばっかりだ」
ギラギラと安っぽいガラスの輝きの向こうに、ドレスとガラス玉に飾られた白い背中が遠ざかっていく。それが見えた気がして、彼は目を閉じた。
「俺はもうちょっと勉強した方がいいかな。それと賢かったアンタだ、もし来世ってのがあるんなら、次はマシな両親を選んだ方がいいぜ。アンタみたいな人が二度とあんな所に来ちゃいけねえや」
「……なにブツブツ言ってるのヴェク……さん」
いつの間にか湯浴みは終わったようで、ラファムが横に立って彼をのぞき込んでいた。
「何でもねえよ。それより、さん付けなんざガラじゃねえ、呼び捨てで充分だ」
「なら私の事も『さんよ』なんて変な言葉付けずに呼んでよ。それでお相子でしょ、ヴェク」
「気が向いたらな、ラフィ」
「ちょっ、愛称までは許してないし!」
そこに湯上がりの髪をタオルでまとめながらやってきたソシアが、すぐに名案だと手を打ち合わせた。
「いいですね。これからは、みんな愛称で呼び合いましょう。短くて済みますし、これも信頼の練習ということで」
「姉さ……ソシィまで!」
「んじゃ、お許しも出たしそういう事で。ソシィ、ラフィ、俺ぁ先に寝るわ」
「だーかーら!」
「ヴェクさん、おやすみなさいまし」
部屋へ向かおうとして、ヴェクはふいに老銃士の言葉を思い出して二人をふり返る。
やいのと怒るラファムと、余裕で応じるソシア。湯上がりのやわらかな空気に縁取られ、シャンデリアのうす明かりに美しく見える、気もするが。
「んなわけねえだろ。な、姐さん」
頭を振って、彼は再び暗い廊下を歩いていく。
その先に白い背中を、いるはずのない女性を追いながら。
第二話 「魔の花、峠に咲く」 終幕、次話へ続く