5.隧道の秘密
岩だなの奥に開けたわずかな平地。小さな湧き水によって保たれた緑の、その一面に深紅の小さな花が咲いていた。
この花々こそ、禁じられているかの〈悪魔の麗花〉に他ならない。
三年前のとある夜のことだ。彼は隧道で道に迷い、偶然からこの天然の花園を発見した。ランプを谷に落としてしまったために暗闇の中をさまよい、普段は人の通らない岩の裂け目に入りこんだすえのことだ。朝日に浮かび上がった一面の赤い花を見た時のおどろきを、彼は今も忘れる事ができない。
幸か不幸か、彼はそれが〈悪魔の麗花〉だと知っていた。地元のならず者たちとの付き合いの中で何度か目にした事があったのだ。
彼は次男坊だった。兄の急死により家業である羊毛の仲買人を継ぐまでは、ならず者たちと組んで遊び回ってはずいぶんと無茶をしていた。それが原因で、まともな働きに戻った今でも何かにつけて昔の仲間たちから金をせびられてもいたのだった。
思わず手に取った一輪を朝日にかざしているうちに、彼はハッと思いつく。
――そうだ、これは金になる。金さえあれば昔のせいで苦しむ事もない。
彼はその日から〈悪魔の麗花〉の栽培にのめり込んでいった。
まず最初に困ったのが畑だ。栽培法はなんとかわかったものの、自宅の裏に植えようものなら銃士がすっ飛んでくる事はうけ合いだ。まわりに秘密にするためにも、この花園をそのまま畑に作り替えるしかない。
彼は普段から仕入れのために峠を越えていたから、畑作りのために足しげく通っても不審に思う者などいなかった。それどころか「ますます商売熱心になった」とほめられる始末だ。数ヶ月もするころには、彼は畑作りにすっかり首っ丈になっていた。
とはいえ一筋縄ではいかない花だった。
最初の年。彼はその多くを枯らしてしまった。もともと生えてしていたからと高をくくったのが失敗の元だ。大量に出た枯れ草を土に混ぜこんでごまかそうとしたのが後々の大失敗につながるとは、この時の彼は思いもしなかった。
二年目からは水を全体に引いて水やりを楽にし、しっかりと間引くことで育てるのは上手くいった。ならず者たちを通じて買い手も見つかり、金をせびられるどころかむしろ払われる側になった。
まさに得意の絶頂。だが全てが上手くいくかに思われた矢先に、前の失敗がとんでもない形で彼を逆襲する。枯れ草からしみ出した毒が小川に流れこみ、ふもとのガルダドック村で羊が狂い死ぬようになったのだ。
彼が気付いて土を掘り返したおかげで、さわぎは数ヶ月でおさまったものの、誰が毒の元を探しに来てもおかしくはない状況で、さらに掘り返した分を含めて山のように積み上がった毒のあるゴミをどうすればいいのか……。
思い詰めた末に、彼は山に爆薬を仕掛けて山崩れを起こし、トンネルへ向かう道を迂回させようと思い立った。出入口はいくつもあるから、上手くすればトンネルは無事なまま彼の秘密だけが保たれる。そのはず、だった。
雑な爆発のせいで山崩れが拡大し、気付けばトンネルそのものが使えなくなっていた。不手際によって彼がトンネルへ通う理由までが消し飛んでしまったのだ。
それでも、彼はまだ諦めなかった。執念で無事な出入口を見つけ、花の世話と峠越えの日数を調整するために小屋を建ててまで泊まりこむ。気付けば彼は花の世話から離れられなくなっていた。ここまで来るともはや意地としか言いようがない
トンネルから人がいなくなった今こそと、彼は嬉々としてゴミ問題に取り組んだ。積みに積まれたクズ草をまとめて燃やしたまでは良かったのだが、灰の管理を怠ったことで生乾きの花や果実が飛び散ってしまい、立ちのぼる毒の香りがあの死の風を産み出してしまった。毒が消えるまでは数ヶ月はかかるだろう。
もう彼は動じなかった。やけっぱちに、なるようになればいいと思っていた。
そしてついに今日、追いつめられるままに彼はここにいる。
全てが始まった花園。その掘っ立て小屋の土の床で少女が寝息を立てていた。毒の香りによる深い眠りだ。だらりと手足を伸ばした様子は、まるで死んでいるようにも見える。
綿の詰まったマスクを付けたままで、彼はすでに半日近く悩んでいた。
トンネルの中で少女と出会ったとき、彼は後を尾けられたのかと思った。ところが少女は涙ながらに助けを求めてきたのだ。きっと毒の風にやられた化け物の死体を見て怖くなったのだろう。すがりついてくる少女をなだめながら、彼は笑顔の裏でひどくあせった。
ここにいるはずのない彼が、少女に出会ってしまったのだから。
そうして迷っているうちにまた毒の風が吹き、マスクを持たない少女を深い夢の中へと引きずり込んでしまう。気が動転していたのだろう。少女が獣に襲われないように担いで花園へと連れてきてしまっていた。
今思えば、少女を置き去りにして獣の餌にしても良かったはずだ。あるいは少女を担いですぐにガルダドックへ戻っていれば、悪い夢とでも言い訳できたかも知れない。だが彼には置き去りにする残酷さも、村に戻る機転もなかった。それらがあったなら、そもそもこんな事態にはならなかったかもしれないが。戻るにしても少女を探しに来た誰かにトンネルから下りてきたのを見られたらアウトだ。
八方ふさがりも極まるなかで、彼に残された選択肢は少女を殺めるか否か。
――目を覚ます前にどうにかしなければ。いや、子供だから言い聞かせれば、あるいは小遣いでもやれば黙っておいてはくれないだろうか。駄目だ駄目だ。子供の「秘密」は「いいふらせ」と同じだから、顔見知りだからといって安心できない。でも顔見知りだからできれば殺したくない。人殺しはいやだ。それだけは――。
それでも堂々巡りは鍋の底が見えていた。
ついに、彼は震える手で農具のスキを取ると、切っ先を少女の胸にあてがう。
「ごめんよ、運が悪かったんだ。どうせ死ぬなら眠ってる間がいいよな」
振り上げて、迷ってから目をつむって顔を背け、小さな胸へと振り下ろそうとした、その刹那。音もなく小屋に滑りこんだ黒い影が奇妙な武器でスキを絡めとり、彼の腕ごとひねり上げて吠えた。
「この馬鹿野郎が!」
***
「この馬鹿野郎が!」
小屋への先行突入は図に当たり、ヴェクはすんでの所でリーアムを狙った凶器を破刃剣で止めることができた。すかさず彼は相手を無理な体勢へと持っていき、ヒザ裏へ蹴りを入れてひざまずかせる。後ろでは追って入ってきたラファムが、リーアムを抱きかかえると合図に彼の肩を叩いて下がっていく。
ヴェクは男から取り上げたスキを窓から放り投げると、まったく抵抗しないことに拍子抜けしつつ、その顔を隠していたマスクをはぎ取った。
「あ――……? 知らねえ顔だがその服はカタギだよな? 商人か旅行商ってところか」
頬のこけた顔をこちらに向け、男はおとなしい弱い声で答える。
「ふもとの仲買人、です」
「仲買人ってーと、昨日ガルダドックに羊毛を買い付けに来たってのはお前か?」
彼がうなずくのを見て、妙な事になったもんだとヴェクは頬をかく。
時はさかのぼること小一時間ほど前。
ヴェクたちはトンネルの中でリーアムのラバを発見。そこから周辺を調べまわった彼らは、ほどなく岩の割れ目から上に伸びた道を見つけ、たどり着いたのがこの花園だった。植わっているのが〈悪魔の麗花〉だとはヴェクが最初に気付き、万が一を考えて小屋に突入してみれば、あとはご覧のとおりだった。
少女を捜していたら毒の花畑を発見したわけで、人に話してもなかなか信じてもらえそうにない結末だった。
――にしてもこいつぁ……この落ち着きようは気になるぜ。
真っ当な商いの裏であこぎな稼ぎに手を出す人間。それは彼の知る限り「マトモなクソ野郎」か「頭のネジが飛んだ正直者」だけだ。前者は計算高くて悪事の自覚があり、後者は食うに困って罪を犯す。
だがこの男はどちらでもなさそうだ。ととのった身なりから貧しいとも思えず、人殺しをためらうあたり悪人でもない。さらにこの表情、まるで「止めてもらえて良かった」と言わんばかりのホッとした顔だ。記憶のどこを探っても似た人物はいない。
「おいオッサン、ちょっと来いや」
ヴェクは男の首根っこをつかむと小屋から連れ出し、リーアムの介抱をする少女たちを横目に花畑のそばまで引っぱっていく。そして風に揺れる花を見ながら話しかけた。
「この畑の上がりは月に直してどのくらいだ?」
「えっ? ……金貨で三、いえ四枚ぐらい……いえ、もうちょっと少ないですが」
男がヴェクの飾り帯を見ている。銃士にしては妙な質問を不審にでも思ったか。だが構わずヴェクは首をひねった。危ない商売にしては明らかに少ない。こうも割に合わないと男が〈悪魔の麗花〉に手を出した理由がますますわからなくなる。いっそ聞いた方が早いだろう。
「なあオッサン、なんでこんな事をした。月に金三枚なんて道楽で消えちまうだろうに」
「……最初は、困って……でも、今はちょっと、自分にもわかりません。もしかしたら……意地だったのかも知れませんね。でも人を殺さなくて――ぁっ!」
つっかえつっかえ話していた男が薄く笑ったその瞬間、ヴェクは思わず彼を顔面から花畑に叩き込んでいた。突然の乱暴におどろいて見上げてくる男に、彼はどうしようもない怒り突き動かされて叫んだ。
「意地で他人様を殺そうとしてんじゃねえ! どうしようもねえ馬鹿野郎が!」
「こ、殺そう、だって? わ、私は誰もこの手で殺してないぞ!」
「んな事はテメェの顔を見りゃわからぁ! いや、俺が止めなかったら、今ごろは殺してただろうがな! そうじゃなくて、俺はこの花の事を言ってんだよ!」
花を引っつかみ、男の鼻先に突きつける。
「いいか、この花は人を殺せるんだよ!。それもマトモな死に方じゃねえ。よがって狂って、そいつが人間だったかもわからねえような様にして殺すんだ。爪の先くらい量を間違えただけで何もかも垂れ流して死んだ女をな……俺は知ってんだよ!!」
そこまで言い切って急に頭が冷えるのを感じ、ヴェクは嫌々ながらに男へ手を差し伸べる。そして、それを取った男をグッと引きこんで、その耳元に重くつぶやいた。
「……アンタの意地と引き換えに何人死んだかな」
再びへたり込み次第に青ざめていく男の顔に、今さら後悔かよ、と冷ややかに目を落としたヴェク。
銃士は人を守るべしと教えられたからには、罪は罪であり理由など問うべきではない。そういう意味で彼の怒りは間違っていた。理由によっては許したかも知れないのだから。
だが意地などという他人にはどうでもいいものを振りかざすこの男に、それでも彼は腹のむかつきを止められない。理解できないし、したくもない。それもよりにもよってこの花を育てるなど。
ヴェクは男を無理やり立たせて後ろ手に縛ると、二人の問答の途中からこっそりと後に立っていたソシアに、クイッとアゴをやった。少女が彼らの横に並び、その手にした朱色の水晶がパッと輝く。水晶からほとばしった赤い光が、花畑を端から黒い炭に変えていく。
「ご安心を。悪魔の麗花の毒は強い熱で一気に炭にすれば処理できますから」
ソシアのつぶやきにゆっくりうなずいて、彼はあだ花の末路に目を細める。
彼には重なって見えていた。
地獄のような熱光に深紅の花弁が黒々と朽ちていく姿に、青ざめて無惨に朽ち果てた、過去の安らぎの姿が。